2013年11月7日木曜日

告訴状2013(作成途中)のスナップショット_2013年11月7日

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告訴状2013(作成途中)

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1 告訴に至る経緯

1.1 告訴状の作成を開始します。2013年6月6日    gblog

長い間、作成を中断していましたが、考えもまとまったのでいよいよ作成に取りかかろうと思います。以前に書いた部分も少しはあったのですが、間が開きすぎたこともあり一から書き始めることにします。

1.2 インターネットを利用、連携した情報公開と[社会]邸問題の提起及び、それに伴う利用法や技術的な説明について

1.2.1 趣旨と目的

1.2.1.1 インターネットと連携した本告訴状の趣旨・目的について 2013年6月17日    gblog
今月6日以来の記述になります。いろいろと考えるところもあってまたしても長い間の中断となりました。まず本書面の作成方法ですが、Emacsというテキストエディタを使って文章を入力しつつ一行ごとにTwitterに投稿していきます。このあたりの処理はプログラムを自作し自動化してあります。
私はかなり以前からTwitterを利用しており現在3つのアカウントを持っているのですが、このうち 告発-金沢地方検察庁御中ツイッター @kkhirono という2番目に作成したアカウントを当分の間、この告訴状の下書き専用として活用します。
自分がTwitterを使い始めたのは2010年4月2日となっております。Twitterは今や報道番組でも取り上げられることが多く、社会的に影響力もあるツールであることは周知のことと思います。ただ私自身Twitterの利便性を強く意識するようになったのは比較的最近のことです。
Twitterの特徴としてあげられるのはリアルタイム性と情報の特定、細分化ではないかと思います。リアルタイム性はTwitterに限った特徴ではないですが、伝える早さと拡散性が際だっているのではと思います。状況の変化に応じやすくきめの細かい対応も可能かと思うわけです。
このことは一つに社会の理解を得ること、質疑応答に対応することも意味します。私は自分がインターネットで発信する情報に一切の制限をかけていません。ただし平成21年の9月以降に大きな変化がありました。そのあたりの経緯、事情の説明も不可欠と考えています。
私自身、パソコンやインターネットは平成9年の4月頃より使っています。比較的経験も長い方かと思いますし、独学で普通とは異なるパソコンの使い方もやってきました。現在主に使っているパソコン環境も一般的ではないLinuxというものです。
もともとがコンピュータプログラムの開発環境という面が強いもので、各種プログラム言語の利用も比較的容易な環境となっています。これらを駆使して利便性を高めつつ、独自のスタイルでパソコンとインターネットを活用しています。
パソコンを動かす基本ソフトが通常と異なるので文字コードにも違いがあるのですが、そのあたりの違いを吸収して違和感なく使えるようにしてくれているのもインターネットです。現在はいわゆるクラウドが主流にもなりますが、そのあたりも意識した上での活用になっています。
パソコン内の告訴事件に関するデータは、いずれDVDを記録媒体として提出する予定でもありますが、私はそのデータの全てもGitという分散型バージョンシステムを使い、さらにネット上のサービスと連携させ、すべてを公開するというスタイルを採用しております。
とにかく独学、独自の部分が多いです。前例も自分の知る限り見かけたことはないです。言い換えれば常にテスト、開発環境での作業でもあります。とにかく体一つでもありますので、出来る限りの作業の効率化というものをずっと前から心がけ、自分なりに鍛錬を積み重ねてきました。
LinuxというのはもともとUNIXという種類のOSですが、EmacsとVimというテキストエディタがあります。いずれも多機能で拡張性の高いソフトです。テキストエディタというのはもともとプログラムのソースコードを書くためのソフトですが、自分は通常の文書作成に使っています。
最終的にはワープロソフトかあるいは印刷用の組版処理に適したLaTeXを使ってPDFファイルを作成し、それを使って印刷し書面を提出します。これが最終工程になるはずですが、目処はたっていません。状況に応じて柔軟に対処すること、問題を取り込みつつ処理することを考えています。
EmacsはEmacs-Lispというプログラミング言語を使った拡張性が高く、有志により数多くのパッケージを利用できる環境になっています。自分が主として利用するのはorg-modeというパッケージです。アウトラインによる文書の作成を支援するもので管理しつつ書面を仕上げていきます。
具体的には見出しごとの文章の階層化が扱いやすくなります。さらに見出しごとブログの記事として投稿することも予定しています。またHTMLファイルとして変換することも簡単に出来るようになっています。リンク付きの見出しの目次も自動的に生成してくれるようになっています。
つまりまとめると、個別の最新情報はTwitterで、ある程度まとまった情報はブログの記事として、全体像はHTMLファイルとしてインターネット上で閲覧できるというものです。
1.2.1.2 告訴状作成の中断と再開及び今後の方針変更について 2013年8月27日
ざっとみたところ7月18日以来の記述ということでまるまる一月以上の空きができていたみたいです。後に説明する予定ですが、お盆休みの前に目立つ行動は控えた方がよいかなという考えがありましたが、そのあともしばらく時間が掛かってしまいました。
お盆の連休前に告訴状の内容を予定より大幅に縮小しA4用紙で4,50枚程度にまとめることに方針を変更したのですが、現在はさらに短くまとめた方がよいかとも考えています。書くべき内容は頭の中でイメージ出来ているので、これから文章に書き起こしていくだけです。
この告訴状自体はできるだけ簡潔にまとめるつもりでいますが、20年以上に及ぶ長い期間と多数の関係者が絡む問題なので、その性質上、具体的に事実を説明するとなると、それなりの分量というか情報量になることも避けられないと考えています。どこまで情報を公開すべきかも問題であると考えています。
社会的にどのような情報をどの程度必要とされるかということも反応を見極めつつ考えていきたいと思いますが、本来は刑事告訴事件としての捜査と非常上告という刑事手続きの職権発動を促す手段であると私は考えています。その問題性と必要性を社会に理解してもらうという意味を含めて。
しかしながら刑事裁判や刑事弁護に対する社会というか世間の、理解というのは独特のものとして形成されていると考えます。はっきりいって自分の経験や知識とはかけ離れた差異を感じております。おそらくは弁護士がマスコミ等を巻き込み歴史的に形成してきた社会観ではと考えます。
そういうことはずいぶん前から漠然と抱くイメージでしたが、近年になって検察の不祥事やいわゆる冤罪の再審無罪の判決が相次ぎ、一方的に検察を批判する弁護士やジャーナリストの言動をみるうちに、著しいバランスの欠如と欺瞞性を危機的状況として考えるようになってきました。
一昔前までは弁護士などの専門家が専門誌等にまとめお膳立てした情報にしか接する機会がなかったものが、情報化社会の発達で、より多くの情報を得ることで、様々な綻びや欺瞞性が発見できより広くより深く考えることが出来るようになってきました。YouTubeの動画と同じくないものはないですが。
ともあれ検察、警察に対する不信や批判には座視できない深刻なものがあると私はとらえています。確かに不祥事や問題点はあるにせよ、それ以上に膨らませて、検察、警察を悪者に仕立て、不安と期待を煽って利益につなげようとする弁護士の活躍あるいは暗躍があるように思えてならないのです。
逆に言えばそのような傾向がより顕著になってことで、木梨松嗣弁護士らの犯罪性にようやく気がつくことが出来、このように刑事告訴という正式手続きに及ぶことが出来たという一面もあるかと思います。そこまで20年ほどの道のりがありました。気づかなかったのは私だけではありません。
あるいは気づいた上で、無視という態度に終始した弁護士も多かったのではないかと考えています。痛烈な打撃を与えてくれたモトケンこと矢部善朗(京都弁護士会)のような弁護士もいます。都合の悪い事実、問題は無視する、それが弁護士の習性であり宿命であるのかもしれないとも考えています。
今日、「あまちゃん」という人気ドラマで、薬師丸ひろ子演じる大物女優が「やめたの。正直に生きることをやめたの。」という場面があり、なるほどと思いました。数日前から岡田進弁護士も木梨松嗣弁護士も他の関係した弁護士も、事実を無視する選択をしてくれたことが・・・と考えていました。

1.2.2 ブログについて

1.2.2.1 本告訴状の下書きに対応した「非常上告-最高検察庁御中Blogge」というブログについて 2013年6月17日    gblog
非常上告-最高検察庁御中Blogger http://bit.ly/1254XoA というブログです。
これはEmacsからorg-googlecl-blogという追加のプログラムのようなものを使って投稿しています。下書きと言っても内容には誤字以外手を加えない方針です。あとで見出しの階層を再配置する予定です。
ブログのタイトルは、「非常上告-最高検察庁御」になっています。本書の告訴手続きと事実関係は全く同じです。私の希望として最高検察庁に判断をしてもらいたいということと、そのための資料という意味があります。なおこのブログはBloggerという名称ですがGoogelのサービスの一つです。
Googleは世界最大のインターネットサービスと言ってもいいかと思います。クラウドとして大容量のデータを保管、管理することも出来ますが、正直使い込むと扱いづらいと思う点もあるのです。自分は主にWordPressとブログを使い分けています。
Bloggerというブログサービスは一千ぐらいのブログを保持・管理できるようになっているはずです。事実上は無制限に近いです。ただ余り数を増やしすぎても管理が難しくなるので、一年単位を目安に考えています。過去のブログは別の管理になっています。
とにかくまとめると「非常上告-最高検察庁御中Blogger」というブログは直近の方針として2013年度の告訴状と内容を同じにします。ブログ名の変更というのも容易に出来るので、いずれは2013というキーワードを加えて変更するかもしれません。暫定的な名称となりうるかもしれないです。
まだ説明の足りない部分もあるかと思いますが、「非常上告-最高検察庁御中Blogger」に関してはひとまず置きたいと思います。APIを使った投稿がほとんどなのですが、一度に30件を超えると認証に支障が起こり、メインのブログをWordPressに変えたということもあります。
1.2.2.2 ブログでの情報公開及びこの告訴状における参照としての利用について 2013年7月4日    gblog
まず3つのブログに同一内容の記事を投稿するというかたちにしておりますが、まったく同じものではなく、それぞれの役割と補完関係を持たせております。技術的にこまかな説明はしませんが、プログラムを使って処理を自動化している部分が多いです。
メインとなるブログはレンタルサーバ上に設置したWordPress.orgのブログです。「WordPress.com と WordPress.org の違い」と検索すれば情報は得られると思います。簡単に言うとWebで出来ることの自由度はMAXに近いかと思います。
私が重視する特徴の一つとしてMySQLというデータベースに直接データを保存、管理できることです。レンタルサーバ上でも直接MySQLの操作管理が出来ます。MySQL自体が個人使用であれば、無償で利用できるデータベースサーバです。
データベースのバックアップや復元、複製も比較的容易です。万が一、データの改変を受けた場合でも、対処しうることが多いのではと思っています。現在のところ1389件の記事のようですが、MySQLでダンプしたバックアップファイルはサイズが4.9MB程度でした。
このメインのブログは、告発-金沢地方検察庁御中2013-WordPress http://hirono-hideki-01.sakura.ne.jp/wp2013k/ です。年間5千数百円程度のレンタルサーバです。

1.2.3 ツイッターについて

1.2.3.1 ツイッターアカウント 告発-金沢地方検察庁御中ツイッター @kkhirono について 2013年6月17日    gblog
これから告訴事件に関してメインに使っていく予定のツイッターアカウントですが、3つあるアカウントの中では一番使っていなかったものではと思います。500フォロー 498フォロワー 3リスト、という状況です。
2013年6月17日7時6分現在、先ほどから集中的にツイートを行っていますが、それでもツイート数は1,067となっています。これからです。
http://twilog.org/kk_hirono で確認したのですが、このアカウントのTwitter歴は872日(2011/01/28より)となっています。一週間か10日ほどの間にフォロワー数が500を超えたと思うのですが、その後は放置状態も多く、変動は少ないはずです。
フォロワー数の推移は、twilogのサービスとしても次のように確認できました。→ 【チャート - フォロワー数推移】 http://twilog.org/kk_hirono/stats/7-3
とにかく今後、社会の関心、反応をうかがう上でも参考になるTwitterアカウントです。急激にツイートの数が増えるので、フォローを外される(リムーブ)アカウントも増えるかもしれないです。内容で勝負していくつもりなので、ここがスタートラインでもあります。
ブラウザ上の画面をキャプチャーとして記録しました。よく使う手法でもあります。→ 告発-金沢地方検察庁御中ツイッター2013年06月17日06時17分22秒.jpg pic.twitter.com/tIY9cOTvZg
画像ファイルの保存先は @hironohideki という別のツイッターアカウントです。Twitterのサービスに直接アップロードしたものです、画像のサイズが小さくなっていて細かい文字が識別しづらいかもしれません。
画像ファイル自体は、別のWebサービスにも保存するようにしていますし、資料としてDVDにファイルを含める予定にしています。なお、すべての資料用ファイルはGitのリポジトリとして管理しています。

1.2.4 インターネットにおける資料の公開

1.2.4.1 添付資料をWeb上で公開するGoogleのサービスについての説明 2013年7月13日    gblog
Google+というサービスを利用していますが、Googleの写真サービスは、Picasaというサービスとも重なる部分があり、時折仕様変更もなされているようなので、少しややこしくなっております。
Picasaウェブアルバム、においてファイル名で検索することは困難のですが、一度Google+で共有したものは、Google+からのファイル名での検索が出来るようになります。
Google+は、FacebookやTwitterのようなSNSの一つで、大手検索サービスのGoogleが後発で始めたSNSなのですが、他に比べると知名度も低いようで、テレビや新聞でもサービス名を見かけることはほとんどありません。
Google+で検索をするには、アカウントを作成しログインする必要があるかもしれません。Google+に登録すると一定サイズ以下の写真・画像ファイルが容量無制限でアップロードできるという事情もありますが、APIを使ってコマンドから投稿することも出来るので主に使っています。
拡張子にjpgもしくはjpegとあるものは、そのまま写真画像のファイル名です。重複して異なるアルバムに保存しているものもあるかと思います。数年前から保存しているものも多く、アップロードした当時のことは正確に思い出せなくなっています。
比較的最近アップロードしているものは、ブラウザを使わず、パソコン上のコマンドラインからスクリプト(簡単な自作プログラム)を使って管理するようにしています。内容の同期というかたちですが、追加分は手動なのでアップロードし忘れることもあるかもしれません。
最近のアルバム名は次のような形式になっています。→ 経緯及び社会の反応/モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)/廣野秀樹さん|2006年10月5日
斜め線のスラッシュという記号で区切られているかと思いますが、これはそのまま添付資料のDVDに書き込む予定のフォルダ構成に対応しています。アルバム作成時にパスの階層から自動的に文字列をぬきとってアルバム名を登録するようにしています。
Googleの写真サービスは、少しややこしくなっており、Google+で表示される場合と、Picasaウェブアルバムで表示される場合があります。管理の場合はPicasaでないと不都合な場合もありますが、そのあたりの切り替えもややこしくなっています。
どちらの場合か忘れましたが、ファイル名に日本語を含んでいると拡大表示ができないという現象が起こることもあります。自分の経験上、Windowsパソコンの Internet Explorerという標準ブラウザだと大丈夫なようです。個人的には滅多に使わないのですが。
Google+の写真の場合、画面右側の「写真の詳細」という部分をクリックするとファイル名などの細かい情報が表示されますが、これも大方の人には気づきにくいのではと思われます。
Picasaウェブアルバムの写真の場合は、さらにややこしく一見するとリンクには見えない「写真の情報」という部分をクリックすることになりますが、私自身も長い間気がつくことができませんでした。なお、普通のリンクではないのでJavaScriptが無効だと機能しないかもしれないです。
Google+の写真として表示されるか、Picasaウェブアルバムの写真として表示されるかは、閲覧する側のユーザのGoogleの使用状況によって異なるかも。具体的には保存されているクッキー情報によって、処理が異なるということですが、以前そのような情報を見かけてことがあります。
どうもPicasaウェブアルバムではファイル名での検索は出来ないもののアルバム名だとできるようです。ただし日付によく使う半角のハイフンなどの記号が含まれていると検索がうまくいかないことがあるみたいです。試した上で確認しました。
1.2.4.2 Googleの写真サービスを使った添付資料の公開に関する仕様変更について 2013年7月16日    gblog
先日、DVDで添付する予定の写真ファイルをフォルダ構成に対応するかたちでGoogleのアルバム名にしていると書いたと思いますが、アルバム名においてパスの区切り文字である/(スラッシュ・実際は半角)を取り除くことに仕様を変更しました。
たとえば、次のようなかたちになります。→ 一件記録・写真H04-10-6事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 実際は「一件記録・写真」が親フォルダ名なのですが、スラッシュの区切りが省かれたかたちとなります。
なぜそうなったかというと、そもそも7月13日に添付資料を一つ援用したのですが、不具合があったことを思い出しました。それまで使っていたアップロード用のスクリプトで複数のファイルをアップした際、すべてが同じファイル名になってしまうと言う問題でした。
これではアルバムのURLは特定できても、言及の対象となるファイル名を特定することが出来ず、致命的な不具合だと思いました。結局、スクリプトの作り直しをしたのですが、それまで使っていたbashのスクリプトでは同時に複数の配列を処理することが出来ませんでした。
配列の処理が容易なRubyでスクリプトを作り直すことにしたのですが、パス名から必要な部分だけ取り出す文字列操作のメソッドを使ったところ、自動的にスラッシュが削除されることに気がついたのです。
もともとスラッシュはファイル名に使えない記号ですし、トラブルの原因ともなりうるので、アルバム名に記号を含めないようにしておこうと思いました。
と書いてきたのですが、やはり区切りがないとわかりにくいと思いました。スクリプトのプログラムに処理を追加し、半角のスラッシュを全角のスラッシュに置き換えることにしました。次が最終形のアルバム名の書式になると思います。
一件記録・写真/H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://ow.ly/n06e3

1.3 金沢地方検察庁への連絡とのその対応について

1.3.1 電話連絡と相談

1.3.1.1 2013年6月24日金沢地方検察庁への電話について 2013年6月24日    gblog
13時過ぎに金沢地方検察庁に電話をしました。金沢地方検察庁への電話は5月13日以来ということになりそうです。「警察の方に告訴状を出すんでしょ」という言い方もされましたが、よくあるわざとらしい感じでした。
説明を書いた告訴状を出してもらわないとなにもできない、というようなことを言われましたが、これも当然のことかと思います。誰の目にみても理由があるような、という言い方もされ、社会の納得や理解を得ないと検察は動きにくい、という感じでした。
私の方から「検察は国民の税金を使って捜査をする以上、社会に必要性が認められなければならない、ということでしょうか? と言うと、「それにつきます。」という返事で、締めくくりになったという感じです。
金沢地方検察庁の方では、私との会話を録音されインターネットで公開されることも前提に受け答えをしていると思いますが、私の判断で録音もしていないので、会話を公開することも不可能です。
以前は検察に根深く根強い不信を抱いている人のためにも、情報を公開しておいた方がいいかと思い、そのようなこともやった上で、Twitterに@付きで、紹介したこともあったのですが、全く意味もなく逆効果にしかならなかったという感じです。
金沢地方検察庁がどの程度、事実関係を把握し問題意識を持っているのかわからないですが、社会や世間と言った存在を意識した上で、民主的な解決を目指す方向性では、という感じです。
1.3.1.2 2013年9月2日の金沢地方検察庁への電話連絡について 2013年9月2日
電話を掛けたのは9時5分を40秒ほど過ぎていた頃かと思います、電話を終えてパソコンの時刻を見ると9時8分でした。

1.3.2 金沢地方検察庁の担当者について

1.3.2.1 金沢地方検察庁の担当者について 2013年6月25日    gblog
5月13日の電話で、ツイッターをみて欲しいとお願いした可能性が高そうです。現在の金沢地方検察庁の担当者は「ミヤ」という人です、今年の4月で3年度目の担当になります。それまでの担当者は平成15年以来、決まって年度ごとに別の人になっていました。

1.4 石川県警への連絡とその対応について

1.4.1 電話連絡と相談

1.4.1.1 2013年6月21日の珠洲警察署への電話について 2013年6月24日    gblog
まず担当者と言われている人に、第281条の4についてご存じですか?と質問しました。なんのことなのか全くわからないと言われたので、20分ほどしてから電話をかけ直すので、調べて条文に目を通しておいてもらいたいとお願いしました。
なぜ私がこの条文にこだわったのかと言いますと、再審請求や非常上告は目的外使用の対象外とされており、手続きだけではくその準備まで明文において認められていると読めるからです。珠洲警察署の刑事さんらは私の情報公開について否定的であり注意を促すような態度でもあったからです。
その条文について比較的最近になって知ったことを話し、珠洲警察署を含めたこれまでの石川県警の対応で、不安を覚えたり、いけないことをしているような感覚にとらわれたと伝え、条文は再審請求等に関する救済を保証するものではないのか、などと言ったと思います。
けっきょくのところ裁判の記録をインターネットで公開することは非常識、という警察の認識、感覚が大きく変わったとも思えなかったですが、条文の存在は知ってもらえたかと思います。
話が前後しますが、20分ほど経って電話をかけ直したとき、対応に出たのは担当者ではない別の警察官でした。前の電話を掛けたのが午前10時55分頃、掛け直したのが11時15分頃でした。
珠洲警察署にはけっこうな回数電話を掛けていますが、初めはほとんどの場合、女の人が出て、生活安全刑事課の担当者の名前を出すことで取り次ぎをやってもらっています。この際、名前を聞かれないことがほとんどです。一方、金沢地方検察庁は必ず聞かれます。
ついでなので、ちょっと書いておきますが、金沢地方検察庁も以前は名前を聞かずに取り次ぐことが多かったです。検察庁の仕事の大半は交通違反の反則金の徴収のような処理だと、平成15,16年ころになるかと思いますが、たまたまテレビでみたこともありました。7割程度だったかもしれないです。
自分がいつも金沢地方検察庁に電話をしているところは、「告訴、告発の係」と何度か聞かされたことがあります。以前は「捜査官室」と聞いたこともあり、平成9年当時は、「特別刑事部」と言われたことも憶えています。
金沢地方検察庁の電話番号というのもひとつになっているはずです。総合的な受付で、各部署に取り次ぐ体制になっていると思われます。しかしながら平成18年の秋当時というのは、取り次ぎの際に名前を聞かれないだけでなく、直接担当者が電話をとることがよくありました。
しかもワンコールや、2コールというスピードの対応でした。ナンバーディスプレイに電話番号が表示されていたことも当然考えられますが、それだけでは考えられない金沢地方検察庁の対応のはやさでした。
先ほどモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)について過去のことを調べていたところ、自分がとても大きな勘違いをしていたらしいことに気がつきました。初めにコメント欄に投稿したのは2005年の平成17年11月だったみたいです。なぜか平成18年の11月だと勘違いしていました。
この平成18年の秋というのは自分にとって一番重要な時期であったし、また、金沢地方検察庁の対応が一番積極的にも感じていた時期でした。ワンコールとかがあったのもこの時期だったと思います。最高検の検事総長に上申書を提出した時期でもありました。
20分ほどあとにかけ直したとき、別の警察官が出て、担当者の人は仕事が出来て外に出て行ったというような言い方をされました。その前の電話でも担当者の人は今年に入ってからとても忙しいと話していました。その場で電話を切ろうかと思ったのですが、いつかけても忙しそうなので。
その別の警察官の人に用件をメモしてもらい、その上で今度担当者が電話に出たときに説明を省略させより実のある話をしたいと考えました。代わりに出た人は名前も名乗っていましたが、記憶にはとどめなかったです。初めて聴く声ではないような気もしましたが、説明をはじめると。
威圧感を与えるような口調、態度を感じるようになりました。こういうのは警察もそうですし、刑務所の刑務官ではより沢山経験してきたことなので、そういう役割なのかと思いました。別の言い方をすれば身構えたような真剣さでもありましたが、丁寧にメモをしている雰囲気も伝わりました。
説明を始めてさほど時間も経っていなかったと思います。「以前、名誉毀損で告訴を相談した京都の弁護士のことですが、一年ほどの間、様子を見ながらよくよく考えた上、告訴は必要不可欠だと判断しました。」、だいたいこんな説明をしたところで、担当者が帰ってきたのでかわりますと。
なお、次のブログエントリーが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログで探し出した今のところ、自分のコメントとして一番古いものです。bit.lyの短縮URLを使っています。
検察官の名前は記憶にありませんが、名古屋高裁金沢支部で、国選弁護人は、小 堀秀行 /廣野秀樹 | 非常上告-最高検察庁御中Blogger bit.ly/12cXzMm
現在の担当者というのは今年度の4月からになると思いますが、前任者と交代になった人です。前任者は移動になったと言われました。以前この現在の担当者の人にもう一人の人(前任者)が担当なので、私はお話を聴くことができないと言われたこともありました。
その前任者の人は2012年の3月、まだ能登警察署が通常の警察署だった頃、実際に能登警察署のなかで告訴の話をした刑事であり、持参した書面も印刷していました。ほどなく4月になって能登警察署は珠洲警察署に吸収され生活安全刑事課は丸ごと移動になったみたいです。
現在も能登警察署は珠洲警察署能登庁舎として残されていますが、交通関係の一部の業務だけを行っているように聞いています。また、常時滞在する警察官が数人いるようにも聞いています。
1.4.1.2 2013年6月21日の珠洲警察署への電話について 2013年6月25日 :gb
京都の弁護士の名誉毀損での告訴のことを話したところ、担当者の態度はあっさりしたもので一言、そうですか、という感じでした。それから刑訴法の目的外使用について話をしたように思います。インターネットで慎重に情報公開をするつもりですが、関係者への。
関係者への迷惑や影響についても自分個人では把握も仕切れないので、定期的に自分のツイッターを検閲して問題があれば連絡の上、指摘して欲しいとお願いしました。同様の趣旨のことはかなり前から行っていると思いますが、再確認のつもりでした。
以前は出来るだけ見るとか、全部というのは無理があるので理解して欲しいということを言われていました。けっきょく、必要があればそれのうち見るとかいう曖昧な返事でしたが、まだみていないとも言っていたかもしれません。
ツイッターのアカウントについて説明しようとすると、検索すればわかります、と言っていました。もともと3つのアカウントについては、だいぶん前に具体的な説明をしているはずです。
金沢地方検察庁の方も同様にツイッターをみて欲しいと言ったのですが、先月(5月)の時であったか、まだまったく見ていないという返事がありました。メモがわりのツイートによると5月13日の電話は今年度初の電話だったようです。そう考えると、その時にツイッターをみて欲しいと。
1.4.1.3 2013年9月2日の珠洲警察署への電話について 2013年9月2日
電話を終えたのが部屋の2,3分進んだ時計で9時40分ぐらいかと思います、電話を掛けたのが金沢地方検察庁に電話をした後で、9時15分ぐらいではと思います。30分ほど話したようにも感じましたが、20分ぐらいではと思います。内容のあるお話が出来ました。

1.5 社会・世相・時代の参考情報

1.5.1 いわゆるPC遠隔操作事件に関連する警察、検察に対する不信と批判について

1.5.1.1 主任弁護人の佐藤博史弁護士は「決定的な証拠はなく、無実を明らかにできる」としている。 2013年7月11日    gblog
いわゆる,PC遠隔操作事件のことですが、この問題について取り上げ踏み込むべきか否か迷いがありました。佐藤博史弁護士は再審無罪となった足利事件の弁護人としても著名であり、再審や冤罪の第一人者、大御所という評価も受けているようです。
また、この,PC遠隔操作事件においてはオウム真理教の事件で一躍有名になったジャーナリストの江川紹子氏がひときわ熱心に取り上げ、警察検察に対する批判と不信感を大々的に取りざたしております。
PC遠隔操作事件は警察が4人の誤認逮捕を行ったという経緯もあり、世間の注目をあつめましたが、佐藤博史弁護士や江川紹子氏がマスコミに激しい檄を飛ばし、検察を批判する一方、テレビではほとんど取り上げられることもなくなり、世間一般の関心も明らかに薄れているようです。
このことに対して、佐藤博史弁護士らはマスコミが警察や検察におもねて真相の追求を放棄したかの論調で、同時に検察の暴走などと片山祐輔容疑者を冤罪被害者として位置付け、無罪ではなく無実だと公言しております。
このような刑事裁判のエキスパートのごとき活躍をする弁護士は他にも数多いるようですが、ある意味、それらの活躍や功績が冤罪問題や刑事再審の流れを歴史的にかたちどり、世間の問題に対する認識や認知ともなっているものと考えられます。
私は平成4年という21年前になった事件の法的救済を求めるため現行法の再審という制度の枠の中で活路を探し、長い間自分の事件とその問題について考え続けてきました。それは刑事弁護に対する不信感につながり、さらには関わる弁護士らの欺瞞と利己心が世を覆い尽くすのが現状ではと。
また私は、プログラムについても素人ですが、ある程度の知識と経験があるので、佐藤博史弁護士や江川紹子氏の主張する根拠が非常に希薄で乏しいものだと考えることが多いです。彼らもプログラムの素人であることは自認しているようですが、無知を都合良く利用し、世間に誤解をばらまいている印象です。
より重大なことは世間から片山祐輔容疑者を隔離したことです、事実上は検察が接見禁止をやったことになっておりますが、佐藤博史弁護士が横っ面を張り倒すようなあからさまな挑発を行い、検察が接見禁止をするように仕向けたという印象がぬぐえません。
5月28日の勾留理由開示のことだと思いますが、片山祐輔容疑者は、出口のないトンネル、自殺した方がまし、などと述べたらしく。また、このときかどうかは確認していないですが、佐藤博史弁護士は精神的に不安定となり相当な頻度で問題行動を警察署内で起こしていると公言しています。
その後にも別の事件での勾留理由開示を行い、直後に記者会見も行っていたようですが、その時は片山祐輔容疑者は在廷したものの発言はしなかったということで、その辺りから佐藤博史弁護士を通じた片山祐輔容疑者の声も全く伝わらなくなった気がしています。東京拘置所に移送になったのも同じ頃かと。
PC遠隔操作事件における佐藤博史弁護士や江川紹子氏の対応は、刑事裁判を考える上でとても興味深いものであり、自分なりに情報を収集し分析してきたつもりです。また特に考えさせられる情報は主に佐藤博史弁護士らの記者会見の動画であり、その中での発言です。
主にYouTubeの動画ですが、再生回数はあれだけ全国的に注目を集めた事件であり、佐藤博史弁護士らが精力的に検察を批判しているのにかかわらず、信じ難いほど少ないものです。長いものは1時間近いような再生時間であり、まともに視聴した人はさらに数が少ないものと考えられます。
そのような世間の反応の鈍さも反映してのことか、佐藤博史弁護士らの情報発信も減りつつあるようです。片山祐輔容疑者の現状については、ほとんど知ることが出来なくなっています。少し前の情報だと弁護人は5,6人で、毎日のように交代で接見を行い、精神的にも支えているような話でした。
1.5.1.2 ”職場で仕事の片手間にウイルス作成?/ジャーナリスト江川紹子”について 2013年7月12日    gblog
職場で仕事の片手間にウイルス作成?/ジャーナリスト江川紹子 at 告発-金沢地方検察庁御中2013-WordPress http://bit.ly/18Q0lM1 でブログの記事としました。
まだ十分な説明をしていませんが、参考及び資料としていただきたい情報については別途、ブログの記事として作成、公開しております。URLは短縮URLを使っています。文字数を少なくするという意味もありますが、プログラムとして特別の働きをする特殊文字の排除も大きいです。
特に社会的な影響もありそうな記事の該当部分に関しては、記述者の真意を尊重する上でも前後の脈絡を含め、なるべく広範囲に引用することを心がけています。
このようにジャーナリストの江川紹子氏は、佐藤博史弁護士の記者会見等を踏まえて、独自の意見を交えつつ、文字起こしのようなかたちでブログの記事にしてくれることが多いです。今のところ佐藤博史弁護士ら弁護団がブログを含め活字で情報発信をしているのは見たことがありません。
佐藤博史弁護士ら弁護団の情報公開はYouTube等の動画にて配信されているものですが、有料サイトの動画として限定的に公開されているものもあるようで、情報の公開に対する一貫したポリシーというものは感じられないですが、マスコミに猛省を促すようなメッセージも含まれているぐらいです。
さて、引用した参照部分に対する私の言及ですが、ここでも佐藤博史弁護士らは被疑者である片山氏が職場でせっせとウィルスプログラムを作成したかのような誤解を与えています。むろんその可能性を全く否定できるわけではありませんが、何を持ってウィルスの作成としているのかそこが重要な問題です。
この記事を読むと時間と手間暇を掛け、せっせとプログラムのソースコードを職場での作業として行っていたという印象です。佐藤博史弁護士ら弁護団や江川紹子氏が理解しているかは別にして、プログラムのソースコードというものはおしのべて単なるテキストファイルです。環境を選ぶことがほぼないはず。
極端に言えば作業効率は別として、スマホや携帯電話でも作成は可能なはずです。メールの本文として送受信することも可能。ワープロソフトで作ったものであっても最終的にテキストファイルとして保存できれば用は足りるはずです。注意点があるとすれば日本語を使った場合の文字コードの扱いぐらいかと。
日本人向けに日本語のメッセージやラベルが必要な場合は、そうなるでしょうが、問題のウィルスプログラムに日本語の処理が必要だったとは考えにくいので、必要なのはASCIIコードのみ、別の見方をすれば日本語環境すら必要でない作業環境であったことが考えられます。
ソースコードというのは英数字記号を使った単なるテキストファイルです。普通はテキストエディタというソフトを使って作成しますが、ワープロソフトで同じものを書いても、テキストファイルの形式として保存すれば結果は同じことです。繰り返しますが、作業環境は効率を除けば問題外です。
ソースコードがプログラムの原型というか基になるものですが、開発はできても、実際にプログラムとしてコンピュータ(パソコン)を動かすことは出来ません。そこで必要となるのがコンパイルという作業です。これは使用したプログラム言語に応じた環境が必要になります。
このPC遠隔操作事件で問題になっているのがC#というプログラム言語です。このC#のコンパイラを含んだ統合開発環境が検察が派遣先PCにインストールの痕跡が発見されたというVisual Studio2010です。専用のエディタや膨大なマニュアルを含めた専用ソフトのはずです。
私自身パソコンを始めて1年目ぐらいの平成10年頃になりますが、当時は主流だったC++というプログラム言語の似たような製品を買ったことがあります。同じMicrosoftの製品です。価格は2万円程度でした。高いものは10万円から20万円ぐらいしていたと思いますが、安い製品でした。
コンパイラ自体は同じものだったと思いますが、価格帯に大きな開きがありました。この違いも作業効率を支援する環境の充実度ではないかと思いましたが、アカデミックパックを含め、内容の違い以上に、敷居を低くして普及を促進するようなメーカーの戦略意図も大きいのではと想像します。
なお、Microsoftの製品では今でもコンパイルという言葉よりビルドという言葉を使うことが多いのではと思われます。成果物は実行可能なプログラムの生成です。悪意を持って作られたプログラムがウィルスと呼ばれているはずですが、実体は同じプログラムの実行コードのはずです。
この実行コードは単なるバイナリファイルです。わかりやすく言えば画像ファイルと同じものです。コンピュータのデータはバイナリとテキストに二分できると言われています。要するにテキストファイルは簡単に開いて中身が読める文字の集合であり、それ以外をバイナリというのかもしれないです。
バイナリファイル自体は1か0の出来たるデータの羅列です。そのデータに見合ったソフトを使うことではじめて本来の働きをすることが出来ます。ワープロソフトのデータがワープロソフトを必要とし依存するのと同じことです。言い方を変えるともはや開発環境はいらないですが、実行環境が必要になる。
くだんのC#ですが、最近のMicrosoft社製のいわゆるWindowsパソコンであれば、ほぼ標準的に実行環境を備えているようです。ライブラリやランタイム、DLLファイルと呼ばれることもあるはずですが、以前はユーザが独自でインストールする必要が多かったです。
説明が長くくどくなったと思いますが、要するに開発中のソースコードは普通のファイルとして持ち運びも容易です。スマホからパソコンに無線通信を通じて転送することもパソコンからスマホに転送することも、メールとして受信したテキストの内容をコピペで貼り付けて作業を再開することも同じく。
別のかたちでまとめますと、ウィルス作成に必須だったのはVisualStudio2010に含まれるコンパイル環境。ソースコードはどこにでも作成でき、USBメモリでも受け渡しが可能。コンパイルに必要な時間は、他の作業との併行も当然可能。
佐藤博史弁護士は片山氏が仕事でjavaを使っており、C#は扱えないということを無実の大きな根拠としてあげています。あたかも中国語と韓国のハングル文字での読み書きに相当するような大きな違いを印象づけています。日本と中国では一部、筆談での疎通も可能と聞きますが、ハングルとなると。
プログラム言語には手続き型、関数型などの違いがあると言われています。私自身、関数型のEmacs-Lispも多少扱いますが、慣れればさほど大きな違いがあるとも思えず、基本は同じと考えていますが、ソースコードの見た目の違いは確かに大きいです。
私自身、C#は全く使ったことがありませんが、C++を進化させた後継と聞いたことがあります。C++やjavaと同じく手続き型を進化させたオブジェクト指向プログラムのはずです。したがって構造はかなり似通っている部分が多いと思われます。
日本語と韓国語あるいは英語の単語の数というのは、それぞれ相当な数になるはずで、文法に対する理解も必要になることでしょう。プログラムの世界で単独で特別な意味を持つ言葉というのは、予約語という扱いをされているはずです。C#についてネットで調べると、ざっと見たところ50もなさそうです。
これらは他のプログラム言語とも概ね一致するものが多いはずです。例えば繰り替え処理なら、for、while、each、条件分岐であれば、if、else、switchなどが定番のはず。あとはライブラリの呼び出しですが、これも必要に応じて調べるものの、機能は似通ったものが多数あるはず。
VisualStudio2010は同じMicrosoft社のOfficeと同じようなソフトだと思います。購入するのに身分証明や署名が必要なことはないとおもいますが、Officeと同じく継続して使うにはアクティベーションの登録が必要かもしれません。
この問題さえクリアできれば、簡単にインストールも削除も出来るはず。登録前の使用制限がどの程度のものなのかわかりませんが、コンパイル作業自体は出来ると思われ、再インストールを繰り返すことで、試用期限の問題はある程度クリアできるのかもしれません。
Officeと同じく、インストール時の機能選択もより細かくできるはずです。必要最低限の構成にすれば、インストールに伴う時間もディスク容量も抑えることが出来ると考えられます。
VisualStudio2010を使うには前提として基本ソフト(OS)としてのWindows環境が必要になるはずですが、近年は仮想マシンと言って、LinuxやMacなどの別のプラットホームでもゲストOSとしてインストールし、普通に使うことも可能なはずです。
この場合、ファイルがOSとして見立てられるので、痕跡を残りにくくすると言う利点も大きいかもしれません。私自身、最近は使っていないですが、VMware Playerや他のものも使った経験があります。LinuxにWindowsXPとか色々やりました。
一台のパソコンに複数のハードディスクを接続し、単体あるいはそれぞれに複数のOSをインストールすることも可能ですが、特定のハードディスクを物理フォーマットすれば、より確実に痕跡を消せることも考えられます。
そもそも使い捨てのようなノートパソコンでVisualStudio2010のインストールやC#のコンパイルは可能なはずです。その辺りもTwitterで江川紹子氏に指摘したことがあるのですが、仮にそういうことがあっても廃棄処分したノートパソコンの立証は検察の責任だとか言っていました。
江川紹子氏には、フォロワーでもないのに因縁をつけるという理由で、ブロックされました。この件に関してはPC遠隔操作事件だけの問題ではなく、反応を確認しておきたい意図から、多少行き過ぎた発言(@付きのツイート)をしたという経緯もありました。
江川紹子氏は検察のあり方委員会、とかいう検察の命運を左右するような委員会の15人の一人にも選ばれた人物ですが、このPC遠隔操作事件に関する発言、態度を見るようになって、疑問を本格化させました。相応の支持と理解も得ているはずで、影響力も当然にあると考えられます。
江川紹子氏はこのPC遠隔操作事件を冤罪や誤判の問題とも結びつけた上で、辛辣に警察、検察を批判しているようです。冤罪はともかく誤判の救済を求める立場の私としては、看過できない問題だと考えられますが、ある程度知識と経験もある分野に重なるので、比較的分析もしやすいです。
PC遠隔操作事件に限らず、警察、検察やさらにはより大きな枠組みとしての司法に対する批判として、権力の監視を使命とするともいうジャーナリズムを担う人物として、批判が的を得ているのか、大いに疑問に感じるところがあるわけです。
また、弁護士とジャーナリストとのコラボレーションという意味でも、ある意味斬新な活動として、注目しております。ジャーナリストの情報源としての弁護士のあり方、弁護士は監視すべき権力の対象外なのかとか、いろいろ考えさせられる材料に事欠かず、情報を共有しながら問いかけもしたいです。

2 告訴事実

2.1 被告訴人木梨松嗣弁護士の犯罪性と厳重なる捜査の必要について

2.1.1 添付資料 H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士について

一件記録・写真/H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://bit.ly/18vw85u
2.1.1.1 添付資料 H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士01.jpg について 2013年7月13日    gblog
ファイルはDVDとして提出しますが、インターナット上でも次のURLでご覧になれると思います。H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUtVP 拡張子にjpgもしくはjpegとあるものは、そのまま写真画像のファイル名です。
この写真はもともとだいぶん前に撮影したものだと思います。写りがあまりよくないですが、平成4年10月26日と弁護人 木梨松嗣、という文字が読み取れます。事前準備書の表題部です。
2.1.1.2 添付資料 H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士02.jpg について 2013年7月13日    gblog
同じく次のURLからご覧になれると思います。H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUvoT
どうも不都合があるみたいなので、新規アルバムで同じファイルをアップロードし直しました。→ 一件記録・写真/H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム http://ow.ly/mUHp4
2.1.1.3 添付資料 H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士02.jpg について 2013年7月17日    gblog
H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士02.jpg | 非常上告-最高検察庁御中Blogger http://bit.ly/12U0g2D
上記URLでWebで閲覧できますが、今回から方法を変えました。これまでは直接、GoogleウェブアルバムのURLを短縮URLにしたものを使っていましたが、これだとファイル名がわかりづらい。httpsのためか短縮URLに登録できない場面があるという問題がありました。
そこでGoogleウェブアルバムの写真のページをリンクに同じGoogleのサービスであるBloggerのブログに、リンクを記事として投稿することにしました。写真・画像のファイル名をそのまま記事のタイトル名にしました。
書面の全体はPicasaウェブアルバムのページで右上の方にあるアルバム名のリンクを開くことで一覧を開くことが出来ます。これは写真2枚ですが、内容はB5サイズの紙3枚です。当時はB4サイズを袋とじにしたものが裁判所に提出する決まりでした。現在はA4になっているはずです。
この事前準備書と題する書面は日付が平成4年10月26日になっています。一審の金沢地方裁判所の判決があったのが同年8月3日。控訴審の私選弁護人となった木梨松嗣弁護士と始めて接見したのは8月17日頃だったと思います。選任の経緯などはのちほど詳しく述べます。
この書面は木梨松嗣弁護士から郵送で拘置所の方にも差し入れがあったと思います。事前の打ち合わせのようなものはなかったと思いますので、精神鑑定の問題にされていることを知ったのも、この書面を見たのが初めてであった可能性が高いです。
精神鑑定について、当時拘置所の独居房にいた私には手持ちの辞書で単語を調べるぐらいしか知識がありませんでした。これより後になるのではと思いますが、「犯罪精神医学」という専門書を母親に差し入れてもたったことがあります。今、この本を探したのですが、簡単には見つかりませんでした。
調べたところこの本は現在でもAmazonにあるみたいです。この情報では発売日が1987/10になっていました。→ Amazon.co.jp: 犯罪精神医学: 中田 修: 本 http://amzn.to/13hPuXc
かわりに発見がありました。控訴審にはいって早い段階から私は手紙で母に法律の勉強をしたいので本を差し入れて欲しいと何度もお願いをしていました。ようやく差し入れてもらった本の一冊らしいものを見つけたのです。
あいまいになった記憶ですが、法律に関するとても初歩的な本が2冊ほどと、小六法があったと思います。数ヶ月後になると思いますが、標準六法というよりコンパクトなサイズのものも差し入れられた記憶があります。
差し入れの方法は面会の時と、郵送があったと思いますが、どちらも手元に来るまでは願箋という手続きと数日の時間が必要になります。私本閲読許可ということになるのですが、本の最後のページに許可証が貼り付けられ、期間が印字されています。
確か閲読許可の期間は月刊誌・単行本で一月、学習用の許可が出たもので3ヶ月、辞書が6ヶ月だったと思います。これらは同時に所持できる冊数にもなりますが、ぜんぶひっくるめて10冊ぐらいではなかったかと思います。
私本交換というのもあったので、交換しながらもう少し多い本を読めたような気もしますが、細かいことは憶えておらず、時代と施設ごとの違いもあるかと思います。学習用の許可が出ると延長も出来たと思います。その都度、許可証が上に貼り付けられていきます。
今日発見したのは次の本だと思います。自分のものは明日香出版社に。→ Amazon.co.jp: 法律のしくみが「3時間」でわかる事典 (アスカビジネス): 堀越 孝, 大野 寿三枝: 本 http://amzn.to/13sZQ2a
写真をアップロードしました。→ 一件記録・写真/その他/法律のしくみが3時間でわかる事典 | 非常上告-最高検察庁御中Blogger http://bit.ly/14bGyVn
今回は写真ではなくアルバムに対するリンクを使いました。法律のしくみが3時間でわかる事典2013年7月17日撮影3.jpgに私本閲読許可証を接写したものがあります。冊数外というのは学習用や辞書のことだと思います。基本的に一度に房内で所持できるのは3冊でした。
期間が半年になっているみたいです。当時同じ金沢刑務所の拘置所で所持していた国語辞典を確認したのですが期間が1年間になっていました。すると学習用は3ヶ月ではなく半年の期間であったことになるかと思います。
平成4年の9月30日に許可が出たことになるかと思います。同日に房内で所持することになった可能性が高いですが、9月の最後の日であり、思っていたよりかなり遅かったです。よく考えてみると小六法の差し入れは、これより前の機会であったかもしれません。
あるいは、小六法の差し入れのあと、この「法律のしくみが3時間でわかる事典」らと一緒に差し入れされたのが標準六法だったかもしれません。どちらの六法も内容的に大差はない感じでしたが、標準の方はかなりのコンパクトサイズでした。
どちらも捨てた憶えはないので、探せば家のどこかで見つかるかもしれません。重要なのは本そのもの存在より閲読許可証に記載された期間の日付です。
ひとつ気になるのは居室という項目に「3−6」の見える手書きの記載があることです。とここまで書いて気がついたのですが、これは金沢刑務所の閲読許可証ではなく福井刑務所のものです。よく見ると期間も平成6年になっているようです。
「3−6」というのは建物の3階を意味すると思ったのですが、自分が金沢刑務所の拘置所でいたのは全て2階の独居房でした。次に気がついたのは139という称呼番号です。平成4年に金沢刑務所の拘置所にいたときの番号は57番だったからです。
福井刑務所の場合、受刑者の居住区は南寮と北寮という建物があり、南寮は全て雑居房、北寮は全て独居房というわかりやすいことになっていました。確かに3階の6号室あたりの雑居房にいました。平成6年の11月の10日頃までの半年ぐらいの間です。
ここで気になるのがなぜ、福井刑務所で受刑中にこのような極めて初歩的な法律の本が差し入れされたかということです。他にも感じていたことですが母親が誰かの相談や指示を受けて、差し入れを行っていたということです。
ここでまた別の発見がありました。「新法律学辞典」という古い本のことです。これも福井刑務所にいるときに母親から差し入れのあったものです。今確認すると、昭和43年6月20日の新版になっていました。ここまで古いものとは、今まで気がつかずに来たようにも思います。
我妻栄が編集代表者にもなっていました。知る人ぞ知る史上最も権威と知名度のある民法学者ではないかと思います。辞典と書いてあるだけあって相当な分量ですが、福井刑務所にいるとき、これの全てを読んだような記憶もあります。まんべんなく全体的な知識を身につけておこうと思いました。
それだけ情報の収集が難し時代と、刑務所という制約の大きな環境でしたが、当時は現在ほど怠惰でもなかったです。コンピュータの活用も福井刑務所に移送される前に母親にパソコンに関する本の差し入れを頼んでいました。
撮影した写真をアップロードしました。→ 一件記録・写真/その他/新法律学辞典 | 非常上告-最高検察庁御中Blogger http://bit.ly/1924Y5z
ファイル名: 新法律学辞典2013年7月17日撮影16.jpgをみると平成6年8月23日に初めて手元に入ったようです。南寮3階6室と当時雑居房にいたことも確認できます。自分の記憶では11月の10日頃に独居房に移り出所まで独居房の生活でした。
独居房に移ることになったのは損害賠償の民事裁判を被害者から起こされ、郵送されてきた書面を房内所持するためでした。金沢地方裁判所の民事部から郵送されてきたものであったと思いますが、元々は原告代理人の長谷川紘之弁護士の提出のものかと思います。
独居房に移ると、ちょうど銭湯によく置いてある脱衣所のプラスチック製の長方形の網かごに、それをちょうど満たすような分量の書面を受け取ることになりました。長くて一週間後ぐらいだったと思いますが、次は木梨松嗣弁護士から記録が郵送されてきました。
これも木梨松嗣弁護士が直接郵送してきたものではなく、母親のところに送られてきたものを母親が送ってくれたというかたちでしたが、木梨松嗣弁護士から送られてきたのでそちらに送ったというような簡単な説明しか受けることがなかったです。

2.1.2 被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について

2.1.2.1 被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について 2013年7月18日    gblog
はじめに母親から私選弁護人をつけるように薦められていたのは、まだ金沢西警察署の留置場にいる頃でした。京都の親戚の人が費用を工面してくれるのでお金の心配はいらないとも話していたと思います。それを断って国選でいいと言っていました。
なぜ国選にこだわったかというと、自分の事件のことを誰よりも知るのは被害者の家族だし、保身のために余計なお金を掛けるつもりかと受け止められると、ただでさえ決定的に悪くなった印象をさらに悪化させてしまうことをおそれたからです。
しかし、それほど深く考えていたわけでもなく、ただただ当時は金沢西警察署出頭直後の緊急搬送時に意識を失い、意識不明で植物人間になるかもしれない状態になっていると聞く被害者の容体の回復ばかりを考えていました。
刑事裁判や弁護士の役割に関する知識もほとんどなかったです。平成4年当時というのはパソコンすら個人的なものとして普及はしておらず、携帯電話も最近になって会社に一台導入した、という話を聞く程度でした。現物もみましたが、ずいぶんと大型なものだったと記憶しています。
長距離トラックの運転手をしていたこともありテレビを観る機会も少なく、弁護士が出てくるような裁判もののドラマを観ることは皆無ではないものの、かなり少なかったかと思います。
それでも鮮魚や青果の長距離輸送という仕事柄、現地に泊まり込んで時間を潰すことも多かったので、コンビニにおいてあるような週刊誌はよく読んでいました。泊まると言ってもほとんどの場合は、トラックの中で寝ていました。九州や東北が多かったです。
そんな週刊誌のなかが多かったように思いますが、弁護士と言えば悪徳弁護士という言葉をよく覚えていました。そういうイメージも少なからず影響はしていたと思います。何よりも被害者家族の理解を得ること、これが唯一の最善の道だと考え、疑いを持つこともなかったです。
2.1.2.2 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月28日    gblog
被告訴人OKNとは小学校時代からの友人のひとりでしたが、小学校低学年あるいは幼稚園の頃から中学生の頃の関係は、一時的にしばらくの間つきあいが続いたという感じでした。他に色々友達がいたのと部活で忙しい時期もあったので、いわば気まぐれな関係で特に親しいわけでもなかったです。
それでも中学生の頃は、何度か泊まりがけで彼の家で一緒に徹夜の勉強をしたり、グループみたいな多数でしょうちゅう彼の家に遊びに行くことも多かったです。彼の家はだいぶん前に取り壊しになっていますが、当時の面影というものも現在はほとんどなくなっていると感じます。
初めに共同生活も多いいわば身内のような関係になったのは彼の兄の被告訴人OSNの方でした。昭和56年の6月頃からのことです。そういう関係は昭和58年の夏頃ぐらいまで続きましたが、暴力団を巻き込んだトラブルのようなこともあり、疎遠にはならなかったものの会うことは減っていきました。
同じ暴走族でリーダー格だった被告訴人OSNがほとんど断りもなしに暴力団員との関係を結んだのが離散の原因だったのですが、当時私は金沢市の浅野本町に住んでいたこともあり、知らないこと知らされていないことも多かったと思います。浅野本町にいたのも短い期間でした。
印象的に憶えているのはその浅野本町のアパートで就寝中に起こされたところ、部屋一杯に特攻服の少年が集まっていたことです。そこで被告訴人OSNから、特攻服を持っているかといわれ、ここにはないと答えると、そのまま踵を返して帰って行きました。声を発したのも彼一人だったと思います。
起きてからも夜中の出来事が夢か現か確信が持てませんでした。少し前まで彼も金沢市内の自動車修理工場に住み込みで働いていたのですが、それをやめ、宇出津の家の自動車修理工場の仕事を手伝っていた頃です。どちらも規模は小さかったですが、彼ら兄弟の家は自動車修理工場とプロパンガスの販売
をやっていました。昼休みの時か、仕事をしているはずの被告訴人OSNのところに電話を掛けたところ、夜中のことは本当のことで金沢刑務所でヤクザの出所祝いに参列してきたと聞きました。
今思えば、この夜中のことが原因だったのかもしれないですが、アパートから徒歩1分もなかったような近場の、勤める小さな自動車修理工場の主人から暴走族をやめるか工場をやめるか決断を迫られ、工場をやめてアパートを引き払い、宇出津に戻ることになったのです。
浅野本町から宇出津に戻ったのは昭和57年の4月頃だったと思いますが、あるいはまだ3月中だったのかもしれません。私は一度も出所祝いに行ったことはなかったのですが仲間の話では3,4回あったような話も聞いたように憶えています。かなり短期間に集中したような話でしたが記憶に自信はないです。
もともと暴力団やヤクザに対しては拒絶性の高い地域性でもありました。被告訴人OSNの同級生で兄弟分ともいう関係の被告訴人HTNも金沢市で暴力団組員であった時期、一度も地元には帰られなかったとも聞いていました。
被告訴人HTNは同じ高校の一つ先輩でもありましたが、2年生に進学してまもなく退学処分となり、すぐに金沢市に出てガソリンスタンドの店員として働いたものの、まもなくある問題で暴力団員になったと聞いていました。
被告訴人は学業に専念していて退学は実に不本意なものであったと聞いています。同じく暴力団組員になったのも不本意な成り行きであったと聞いていますが、プライバシーの問題でもあるので、ここでは書かないです。事実関係で必要な範囲最低限のことを書いています。
被告訴人HTNが退学になったのは昭和55年の5月か6月だと思います。春の遠足が赤崎海岸であり、それが退学の原因にもなりました。被告訴人KYNは私の同級生で当時クラスメートでしたが、彼も同じ問題で停学処分を受けていたと思います。処分者は25人ぐらいいたようにも聞いた憶えがあります。
はっきりしたことは分かりませんが被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年の夏から秋頃ではと思います。当時未成年者でしたが、何か組の若頭のような立場になったようなこととも聞き、その界隈で相当の顔役になっているような話も聞きましたが、直接会うことは少なかったです。
昭和56年の秋、金沢市入江のアパートに被告訴人HTNが姿を見せたことは憶えているのですが、たまたまその場に被告訴人YSNがいたような気もするのですがこれは現在記憶がはっきりしなくなっています。女友達が鍵を預かっているという服役中の暴力団員のアパートと聞いた憶えがあります。
被告訴人YSNは私より二つ年上でした。彼も同じ能都町(現在の能登町の一部)でしたが鵜川という地区で中学校も違っていました。石川県立水産高校の漁業科で卒業しているはずです。水産高校は宇出津にありますが現在は能登高校になっています。
被告訴人OSNも水産高校に入学しましたがすぐに中退したと聞いています。当時のOSNの家は大きなたまり場になっていましたが、OSNも出入りしていたと聞いています。O兄弟の家は旅館のような大きな家で、私より二つ年下の妹もリーダー的な存在で、人の出入りがとても多い24時間営業の
旅館のような家で、とても開放的でもありました。中学時代の被告訴人OKNは、学業と極真空手に専念し兄に反発、軽蔑するような一面が強くありました。趣味と方向性を同じくするようになったのは昭和56年の夏頃かと思います。元はといえば余り仲の良い兄弟ではなく、
すぐにうち解けた訳でもなかったかと思います。昭和56年の8月28日の早朝、シンナーの吸引とかで金沢中警察署に補導されたのですが、前夜にたまたま遊びに来ていたOKNは当時、金沢高校の学生で、この補導の件で退学処分になったと聞きます。男女13人の補導で新聞にも大きく出ていました。
13人中、私とOSNを含めた少年4人と少女1人が、金沢中警察署で取り調べを受けた後、家庭裁判所に連れて行かれ、そのまま小立野の金沢少年鑑別所に入りました。私が試験観察の処分を受け鑑別所を出たのは9月の23日ぐらいではと思います。26日か28日いたはずですが、長く感じられました。
試験観察にはなりましたが割と早く3ヶ月か長くて半年ぐらいで不処分となり保護観察を受けることはなかったです。OKNの方は保護観察がかなり長い間続いていたような憶えがあり、19歳の頃まで続いていたような気もするのですが、これも記憶がややあいまいになっています。補導時は16歳でした。
その試験観察中、家裁の調査官に会うため七尾市の家裁に行ったとき、待合室でYSNと会うことがありました。その時すいぶんと不健康そうな様子に見えたのですが、それからまもなくシンナーを吸引中発狂して金沢の精神病院に入院したと聞きました。
YSNはその後も精神病院に入ったことが原因で、かっての仲間内から疎遠にされるようになり、孤独を感じている様子にも見えました。単に精神病院に入っただけではなく、いきなり他人の家に駆け込んで就寝中の婦人の首を締め上げたという、話も大きく、周囲に危機感を与えていたのかもしれません。
首を絞められたという婦人の夫は、仲間内の離散にもなった暴力団員の舎弟と聞く人物でした。会った機会もあったので顔はよく覚えていたのですが、当時金沢市西念町にあった金沢市場輸送の社長室から出てくる姿を見たことがありました。昭和61年の秋だったような気もするのですが、
現在時期ははっきり思い出せないです。暴力団員の舎弟というあいまいな表現になりましたが、同じ正式な組員であると聞いていました。なお、出所祝い用に支給されたと聞く特攻服には「福島組」という当時石川県内最大勢力とも言われた組の名前の刺繍がありました。自分は支給を受けていないです。
関係者のプライバシーのこともありここでは細かく書かないですが、YSNが飛び込んだ家で婦人の首を絞めた件と、OSNの間には別の接点もありました。大怪我をしたような話は聞いていないです。飛び出した後、「カラスが鳴いている」などと口走ったか叫んだとは聞きましたが、真偽の程は不明です。
昭和57年の1月頃かと思いますが、同級生の友達と3人で、金沢市小立野の精神病院にYSNの面会に行ったこともありました。一人が弟だと嘘を言ったのですが閉鎖病棟に簡単に入れてくれました。YSNは正常だと訴えていましたが、言動には異常性が感じられ、独房でお仕置きを受けることもあるなど、
不遇というか不満を訴えていました。彼との長いつきあいで、言動に異常性を感じたのはその時ぐらいで、さほどの問題もなく社会生活を送っていたようです。時にやることが大胆でどうかと思うことはあり、車の運転に同乗していて身の危険を感じたこともありました。
彼が初めに精神病院に入院したのは昭和56年の12月ではないかと推定されます。その少し前、珠洲市飯田のシーサイドの通りの急カーブで自分の所有するブルーバード510を横転させ、横転直後の静寂を破り、突如、「ギンギラギンにさりげなく、それが俺の生き方」などと当時の流行歌を歌い出した、
とも聞いています。恐怖体験のように同乗していたという一つ年上の女の人から聞きました。OSNとも関係性の強い女の人です。夫妻そろってOSNとは強い結びつきがあり、自分も親しくしていて、金沢でもアパートに遊びにいくことがありました。
彼女にはとても親しい同級生の女の人がいて、いつも一緒にいることが多かったです。当時は未成年者の少女で年も一つだけ年上でしたが、姉御肌のような一面もあり、ずいぶんしっかりした大人の人というイメージが残っています。
二人の女性に最後に会ったのは平成3年の12月21日の夜でした。被告訴人HTNに連れて行かれた金沢市の繁華街、片町のスナックのような飲み屋でした。片町に来て、最初に入ったのがその店だったような気もするのですが、現在細かいことは思い出せなくなっています。
その夜、HTNに連れられて4軒の店に行ったと思います。一つは旧大和デパートの裏側辺りの場所で、屋台が集まるような場所になっていました。観光都市の金沢は屋台が禁止になっているとも聞いていたのですが、博多の中洲を思い起こすような雰囲気もあり、屋台と言うよりは建物がしっかり固定
されている感じで仮設の店舗という感じでした。順番としてはその屋台のような店が2軒目で、3軒目が同じスクランブル交差点より内側の一角で余り大きくないビルの上の方にあるスナックのような店でした。ここには事前に連絡を受けていた被告訴人OSNも姿を見せたと思います。もう一人同伴者の人
がいたような気がします。同じ宇出津の5,6歳以上年の離れた人で名前はよく聞く知られた人でした。以前別の先輩の車で軟禁状態に巻き込まれた記憶もある人物と記憶していますが、その時とは別人のような雰囲気で、おとなしくお酒を楽しんでいるという感じだったと思います。 かなり年の離れた人で6歳ぐらいは年上だったと思いますが、今思えば宇出津のKという人物と年も同じぐらいで、つきあいがあったのかもしれません。宇出津のKという人は今でも名前を覚えていますが、感じの一部が河なのか川なのかは不明のままです。一見するとおとなしい人物ではありました。
しかし被告訴人OKNと同じく上昇志向が人一倍強い商売人タイプの人でもあったようです。これは被告訴人HTNにも通じるところがあり、気の合うところであったと思います。被告訴人OSNも金銭欲は強い方だったと思いますが、義理人情を大事にこだわるようなところも強かったと思います。
はじめに宇出津のKの話を聞くようになったのは昭和63年の春か夏頃かと思います。この辺りは今一度記憶の整理が必要なのですが、とりあえずそういう時期の設定にしておきます。能都町姫のNという先輩と二人で、魚の行商のようなことをやっているとOKNが私に話していました。宇出津のKという
人物は私としては全く心当たりのない人物だったのですが、なにか知っていることを仮の前提にしたというか当たりを窺うような調子で話をしているようにも見えたのが少し印象に残っていました。突っ込んだ言い方をすれば、探りを入れて反応を窺っているような不自然さもなくはなかったのです。
姫のNはよく知る人物でした。直接の友人という関係ではなかったですが、共通の友人が多く、一緒に遊び、行動する機会が多かったからです。それだけ彼が遊び回り車を乗り回していたということもあるのですが、スカイラインのジャパンにはよく同乗させてもらっていました。
姫のNは、昭和56年12月頃と思われる頃、YSNがシンナー遊びで発狂したとき一緒にいたと聞く全部で4人のうちの一人であるとも聞いていたように思います。なお、YSNは松波駅付近で保護され、後日本人から聞いた話だと一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたそうです。
2.1.2.3 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月29日    gblog
さきほどGoogleマップで地図を作りました。→ 金沢市場輸送と市場急配センターに関する地図 https://mapsengine.google.com/map/edit?gl=jp&mid=zW8zvRyoSBg4.kL7nxxt6orVw
私が金沢市場輸送に初めに入社したのは昭和59年の1月のことでした。同じ宇出津の先輩が大型車に乗務しているので、採用してくれるかどうかきいてみればどうかと周囲にすすめられたのも動機でした。いきなり電話で面接を申し込んだように思いますが、職安に求人があったので職安を通したという
可能性もあるかと思います。いずれにせよ簡単に採用が決まり、4トン車に乗務することが決まりましたが、一月近くか比較的長い間、免許取り消し中だった先輩運転手を同乗させていました。当時はほとんどが長距離の仕事で、大型車より少し4トン車の方が多いぐらいだったと思います。
当時は運転手の出入りも多かったと記憶しています。私が初めに紹介したのが被告訴人OKNでした。彼はその年の春先ぐらいに、それまで住んでいた東京を引き払い石川県の方に戻ってきていました。細かいことは憶えていないですが、仕事をするようになったのは4月に入ってからではと思います。
一緒に仕事をするようになって一月もするかしないうちに、一緒にアパートを借りて住むことになりました。割とすぐに物件も決まり、住むようになったのが金沢市東力2丁目のアパートでした。これは現在でも私の本籍地になっているのではと思います。家賃は折半という約束だったと思いますが、
借り主の名義は私になっていました。平成4年の4月1日事件当日まだ住んでいたアパートで、次の土曜日に被告訴人OKN、被告訴人KYNが手伝ってくれると言うことで引っ越しも決まっていたアパートでした。新しいワンルームのマンションの契約で入居が出来るようになったのも4月1日当日でした。
元からいた宇出津の先輩はOKNが入社した頃やめていたか、入社してまもなくやめていました。当時の大型車の仕事は、一度出るとなかなか帰ってこないものがあったので、顔を合わせる機会というのも少なかったです。半年に一度ということもあると聞いていたように思います。
当時の大型車の仕事はいわゆるエサというものが多かったと聞いています。主に宮城県の石巻港から冷凍の小魚を満載にし、片道一週間ぐらい掛けて鹿児島や宮崎県など南九州のハマチの養殖場まで運ぶという仕事でした。私は時代が変わってから大型車に乗務するようになったのでやったことはなかったです。
後に金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKも当時は大型車の運転手でした。そして平成2年の秋頃に金沢市場輸送に現れ、策士参謀役を務めた可能性の高い七尾市の被告訴人TYNと出会い、親しくなったというのも、そのエサの運ぶ、大型フェリーの船内であったと、MTKは話していました。
宇出津の先輩ですが年は私より5つぐらい上だったと思います。それぐらい学年が離れると知らない人ばかりでしたが、名前の方は先輩たちの会話などからよく耳にしていました。その後、中西水産輸送でも一緒になりましたが、私が入ってすぐにやめていきました。
話が少し飛びますが、私が中西水産輸送に初めに入社したのは昭和59年の12月の下旬でした。年末に社長の家で忘年会があり、その席には宇出津の先輩の姿がありましたが、年が変わるとそのまま出てこなかったような気もします。先輩とはその後もたまに顔を合わすことがあり木材の運搬もやってました。
確か4月の下旬から半月か長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、午後に開かれる競りで金沢の中央市場から筍を運ぶ仕事がありました。東北の酒田と仙台、新潟県内と東京都内の行き先が多かったと思います。後には四国の缶詰工場にも運ぶことがけっこうありました。忙しい時期です。
次に6月から7月の初め頃ではなかったかと思いますが、金沢港から昼にスルメイカを運ぶ仕事が集中してありました。これも東北の酒田や仙台、東京、名古屋も多かったです。被告訴人OKNの兄、被告訴人OSNが金沢市場輸送に入社したのも、その金沢港の仕事が忙しい時期であったと思います。
かたちの上ではOSNも私の紹介ということになったいたようです。社長の夫人に感謝され、中身のことは憶えていないですが、少しお札の入った封筒のようなものをもらったような記憶も残っています。
書いているうちに思い出したのですが、被告訴人OSNが名古屋市内で街路樹に正面から激突し、4トン車を大破させたという話がありました。車体自体は廃車という話だったと思いますが、保冷車の箱の方はどうなったのかまで記憶にはありません。
当時はまだ保冷車の多い時代でしたが、その後平成ぐらいになると同じ保冷車でも冷凍機付きでないと仕事にならないような時代になっていたと思います。細かいことは記憶にないですが、車体と保冷の箱(荷台)は同じぐらいの値段だと聞いていたように思います。
会社としても相応の損害は出たものと考えるのが普通で、他の人の事故であればはるかに些細なものでも大騒ぎしていたと思うのですが、社長夫妻が何食わぬ顔の上機嫌のままで、社内でさほど話題にならなかったというのも不思議と言えば、不思議でした。OSNに危険なものを感じ刺激したくなかった、
という可能性はあると思いますし、実際に当時はそういう解釈で済ませたと記憶しています。弟の被告訴人OKNの方も、似ていると言えば似たようなことがありました。仕事外の問題になりますが、どうも職務上の災害のような扱いで、うまく処理をしてもらったように見えました。 怪我というのは地元、宇出津のあばれ祭りでのことです。現在は7月の第一、金土曜日になっていますが、当時は毎年7月7日と8日に決まっていました。私は仕事を休まず宇出津にも帰らなかったので、詳しいことは知らないのですが、キリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。 担いでいたキリコは宇出津の城野町のキリコであったとは聞いたように憶えています。彼の家の町内は、当時はまだ大橋組にいたと思うのですが、あるいはすでに音羽町の家に移っていたかもしれません。
その宇出津のあばれ祭りが終わった頃、私は一週間ほどの運行で、北海道の根室市花咲港まで行っていました。急な仕事の入り方だったような気もするので、あるいはOKNの怪我のことを知ったのも、北海道から帰ってきた後であったかもしれません。
まあ、次に合ったとき被告訴人OKNが会社にも近い、金石街道の中央市場入り口交差点付近の波多野整形外科という病院に入院していたことは間違いないと思います。今考えると、宇出津で怪我をしたのに金沢の病院まで、どうやって行ったのかという気もします。
彼が痛めたというのは腰でした。二度と立ち上がれないかもしれないと医者に言われたようなことをこの時も言っていたように憶えています。彼の場合、それがあながち嘘とは思えない事情もありました。というのも中学生の時、彼は能都中学校の古い第二体育館の天井裏で遊んでいたところ、
天井が抜けて乗っていた板ごと下に落ちたと聞いています。板に乗ったまま落ちたのが幸いしたものの腰の骨が折れ、二度と立ち上がれない可能性もあるというような話でした。まあ、入院していた病院が宇出津の持木病院だったので、それほど深刻な大怪我でもないだろうという思いもありました。
持木病院は学校の通学路のようなものでもあったので、数人の友人とよく病室に見舞いに行っていたことも憶えています。半年ぐらいの入院という話を聞いたような気もするのですが、留年もしていないですし、3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。
波多田整形外科に入院していたのは一月ぐらいではなかったかと思います。いつの間にか退院していて遊び回っていました。金沢市場輸送に復帰することもなく、自然消滅のようなかたちで会社を辞めたはずですが、さほど話題にもならなかったと記憶しています。
私は当時、黄色い色のトヨタカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、その年の春ぐらいかに60万円か70万円ぐらいで買ったものでした。ローンの組み替えをやったのでローン自体は150万円ぐらいでした。ボーナスなしの3年払いで月の支払いが5万7千円ぐらいだったような記憶もあります。
3台分の車のローンでした。長距離の仕事をしていたので車に乗る機会は少なかったです。それで頼まれて被告訴人OKNに車を貸していたのですが、ある日、事故を起こして廃車にしたので、これで許してくれと現金10万円を渡されたことがありました。
それはちょうど金沢市場輸送をやめた頃で、入社したのと同じ昭和59年の10月の中頃のことでした。ちょっとした事故処理のことで事務員ともめ、机を蹴飛ばしたことなど憶えているのですが、翌日から2,3日、出社しても社長らから無視され、そのまま行かなくなると言うやめ方でした。
はっきりいって、仕事と勤務態度の評価はすこぶる悪かったです。トラックの運転も暴走族の延長のようなつもりでやっていたということもありますが、サンダル履きで保冷車の中で魚を積む仕事をしたりしていました。まあ、それがかえって、別人のようによくなったという高評価にもつながったようです。
2度目の入社は昭和61年の8月でした。このいきさつも被告訴人YSNが絡んでいました。本来ならば9月から12月ぐらいの間、ライスセンターの仕事をするという条件で、その年の6月頃から岐阜県の海津町に行っていました。工務店の仕事で、ナマズがいるという川の草刈りも多かったです。
一種の出稼ぎですが仕切っていたのは珠洲市の当時45歳ぐらいの人でした。YSNは珠洲市の人間との付き合いもあり、その関係でライスセンターの仕事をするようになっていました。3ヶ月ほどの期間で110万円ぐらいのまとまった収入になり、その後出稼ぎ手帳で失業保険ももらえる、
という話でした。結局人数の調整がつかなくなったとかで、新参の私が外されることになったのですが、YSNは条件が違うといい、強く掛け合ってはくれていました。元々は3人で平屋の集会場のような家に住んでいたのですが、ライスセンターの仕事が近づく、他の参加者も珠洲から集まってきた頃
でした。岐阜から金沢に戻ってきたのは8月20日頃だったと思います。そのまま居座れば、ライスセンターの仕事に参加させてもらえていたのかもしれないですが、とにかく夜中に車を運転して帰ってきたことを憶えています。
それで金沢に戻って2,3日した頃に、ふと思い出して金沢市場輸送に使ってくれないかと電話を掛けたのです。岐阜に行くことになったのも120日と90日の免許停止を一度に受けたことが原因の一つでした。岐阜に行ったのは免停開けの直後だったとも思います。
たしか翌年の1月か2月まで、交通違反がなければ免許点数の15点が満額戻るという計算が大きいものでした。普通免許取得から3年でいよいよ念願の大型免許が取得できるという時期にもなっていました。
金沢市場輸送が支配配達の仕事を始めていると言うことも人伝に聞いていました。昭和60年のはずなので、今考えるとちょうど一年前ということにもなりそうですが、YSNが金沢市場輸送で市内配達を仕事をしていると、誰かの話で聞くことがあり、当時乗務していた中西水産輸送の9200の4トン車で、
午後に金沢市場輸送の会社の前に行き、トラックに乗ったままクラクションを鳴らし、2階にある事務所の窓から顔を出した人に、YSNのことを尋ねたところ、先日岐阜に仕事に行くということで、会社を辞めたばかりだと言われました。
ライスセンターの仕事というのは12月の10日過ぎまで、と聞いていたと思います。この仕事が終わると、YSNが私の東力のアパートにちょくちょく顔を出すようになっていました。なぜ金沢市場輸送に入社したのかも気になっていたので尋ねたはずですが、多くを語らず要領を得た回答はなかったと
思います。このあたりのことも引っ掛かりがありました。当時彼は、珠洲の友達が暴力団員になったという話もよくしていたと思います。フルネームは忘れましたが、呼び名と思われる下の名前は今も覚えています。先程のライスセンターの45歳ぐらいの人も上の名前は覚えています。
そのヤクザになったとか言う珠洲の友人の借り物だったと思いますが、フェアレディZという車に乗って遊びに来ることが多く、そのあとカマロというアメ車にも乗ってきていたと思います。ヤクザになってずいぶん人が変わったと感心するように繰り返し話していました。
当時は余り気にもとめずに聞いていたのですが、そのあたりの人間関係も、その後のYSNの仕事や生活に影響を与えていたことも考えられます。こまかいことは思い出せないですが、その後のYSNは片町でバーテンの仕事をするようになっていました。
なお、中西水産輸送というのは運転手の社員が所属する会社で、会社自体は配車の手配をメインとするような営業形態で、社名も中西運輸商となっていました。佐川急便の広島・九州便が主な仕事でしたが、もとは白ナンバーで冷凍物や魚を運ぶ仕事をしていました。
金沢市場輸送の社長は昔、中西運輸商の社長を助けてやったことがあるとも話していましたが、もともと話していることの真偽がとりとめもなく不明な人物でした。中西運輸商の評判は悪かったです。運転手を酷使しペナルティを含め過大の負担をかけることでも有名でしたが、噂を知った上で、
あえて飛び込んだ会社であり、鍛えられた面も強かったです。いろいろと未熟さもあったと思いますが、生死の危険も日常のようなことがっりました。仕事の少ない暇な時期もあったり、行きたいというと北海道の仕事をとって行かせてくれることもありました。
人の出入りの激しい会社でもあり、たいはんの社員は九州各地の人でした。その方が自宅に帰れる機会が多いとも言われていました。自分の場合、当時は4トン車だったので仕事の内容も大型車の人とは違っていました。4トン車は少数でした。
被告訴人との関係が最も密であったのは昭和58年のことです。同年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市観音堂の彼のアパートに居候し、食事などの面倒もほとんど彼にみてもらっていました。一日一食で、280円ぐらいの唐揚げかのり弁当、それに100円のうどんを一杯、というような
生活でもありました。実際、倒れて病院に行き、栄養失調と診断された少女もいたと聞いています。ちょっと変わった古い長屋のようなアパートでしたが、4室が、仲間同士のようなアパートでもありました。たまり場のアパートで、沢山の少年少女が出入りしていました。
当時は私も11月の誕生日前で18歳でしたが、二つ年上で12月生まれというYSNは、20歳になっていたことになりそうです。向かい合った奥の方の部屋には、同じく二つ年上の珠洲のYが住んでいました。その部屋にもよく遊びに行っていたのですが、そこによく女の子と遊びにきていたのが、
河北郡内灘町のUという男でした。年は同じでした。思えば、このUという男との出会いが、そののち被告訴人OKNの人生を方向付けたともいえるかもしれないです。偶然という要素も絡んでいたとは思いますが。
書いているうちに、10年以上ぶりにふと思い出したことがあります。Uとの再会が、いろいろな人間との出会いにつながったのですが、そのうちの一人にOYという男がいました。私は次第に距離をおくようになっていたこともあり、付き合いや会う機会も少なかったのですが、確か平成元年か2年頃、
片町を舞台にした違法薬物の摘発があり、それにOYが関与していたような話を聞いたと思います。新聞で名前を見たような記憶もありますが、10年以上忘れていたことでもあり、余りはっきりとは思い出せないです。下の方の名前も思い出しましたが、憶えやすい名前なのでたぶん間違っては
いないと思います。思い出せないのはそのOYとよく一緒にいた男でした。確か自宅が金沢市東力で、金沢市大額の方で居酒屋のような店を出したとか言う話があったり、一度はその店に行ったような気もするのですが、記憶が相当薄れています。
もしかすると日通の幹部社員の息子のような話もあったかもしれません。家がお金持ちでいい生活をしてきたような話は聞いていたと思うし、実際、そういう雰囲気の男でした。彼も年は同じだったと思います。
わりと大柄な体格でした。東力に家があるという点とその体格、多少の雰囲気の共通性で、平成4年になると被告訴人YSKと重ねて思い出すことも少なくなかったと憶えているのですが、その後今日まで長い間すっかり忘れていたので、名前の方も思い出せなくなっています。ありふれた名前だったような
気はします。日通というのも気になるキーワードになっていたような気がします。ヤクザの組長をしていたとも土建屋をやっていたとも聞く、金沢市場輸送の社長でしたが、昔、日通で働いていたこともあると聞いていたからです。日通と言えば当時日本最大の運送会社とも言われていました。
実際、昭和59年当時も日通の仕事は少なくなく、まだ新車の状態に近い日通カラーの10トン平ボディ車も2台いました。乗務員の一人はその後、中西運輸商に移り、売り上げか何かは忘れましたが、社内一の成績として表彰される姿も、同じ部屋で見ていた憶えがあります。
その後、中西運輸商をやめたあとだったと思いますが、平成元年頃でしょうか、群馬県の高崎市あたりの国道で追突事故で死んだという話も聞きました。中西運輸商から私の紹介というかたちで金沢市場輸送に来て配車係もしていたYTから聞いたように思います。
昨年になると思いますが、宇出津新港の堤防で釣りをしている人と話が弾んだところ、そのYTのことをよく知る人で、いろいろと話を聞くということもありました。その時点では、昔と同じように運送の仕事を経営者の立場でやっているような話でした。何月頃かは思い出せないですが、寒い時期では
なかったように思います。YTは同じ中西運輸商にいた頃、付き合いが多かったので、ライスセンターの仕事を終えた被告訴人YSNが遊びに来たとき、一緒になることもあり、昭和61年の12月か62年の1,2月の時点で顔見知りだったということにもなりそうです。
被告訴人YSNが一度だけ金沢西警察署に面会に来たときも、YTから被害者と付き合っていたのかと尋ねられ、「付き合っとったんじゃないか、とゆうてやった。」と押しつけがましいともとれる、口調で話していました。後で知ったことですが新聞には「半年前から交際」となっていたので、
やむなくそう答えたという可能性もあるのかもしれないですが・・・。YTの話を持ち出してきたのは被告訴人YSNの方でした。余り親しくないという口ぶりでしたが、どちらも社交的だったので、より深い付き合いというのもあるいはあったのかもしれないと考えることはありました。
そういえば半ば独立したかたちで運送の仕事をしていると聞いていたYTの仕事を手伝っていたのも被告訴人YSKでした。YSKの私に対する接近自体が仕組まれたものであった可能性が高く、供述調書には事実のすり替えのような明白な虚偽も含まれていました。
被告訴人YSKはYKに頼まれて、臨時で仕事を手伝っていると話していましたが、今考え直すと、正式な社員か運転手というかたちでYKのトラックに乗っていたのかもしれません。自分には珍しい日産ディーゼルの新型車に乗務していたこともあり、中央市場の青果売り場あたりを少し運転させて
もらったこともありました。しかし再びよく考えると、被告訴人YSKのメインの仕事は持ち込みダンプでのイワシの運搬であったとも考えられます。そういえばYSNが払い下げで購入したようなことを話していたポンコツのダンプは、元は日通カラーだったような気もしてきました。
ダンプと言っても土砂積み禁止の特殊なダンプで、大型車にしては小型にも見えるダンプでした。そういえば私が市場急配センターに移ってからしばらくの間は、駐車場でそのダンプを見かけていたのですが、どこへ持って行ったのか、その後ダンプの姿を見かけることはなかったように思います。
この被告訴人YSKも被告訴人OKNと接点がありました。本来は能都と金沢で地元も違い、年も6つ離れていたので、考えにくい接点でもありましたが、どうもよく理解できないかたちで、それらしい話を聞いていました。余り関心もなく、聞き流していたので、把握できずにいた点というのも
あるかもしれません。その前に時間を戻したところから説明をしておきたいと思います。遊びまわっていた被告訴人OKNが、確か250ccのバイクにまたがり、大阪へ行くと旅立っていったのは、昭和60年の11月ぐらいだったように思います。
東力のアパートの前で、私と一緒にいた結婚する前の前妻に旅立ちの挨拶をして走り去っていきました。いささか哀愁と決意を感じさせるような旅立ちが印象的な場面でもありました。
彼が大阪に向かった一番の目的は、二つ年下の彼女が高校を卒業して大阪に働きに出たのを追いかけるものではなかったかと考えられます。私の同級生は昭和58年に高校を卒業しているので、やはり昭和60年の卒業と言うことになりそうです。4月を就職の時期と考えると、彼が大阪にむかったのは、
もっと早い秋口のような時期だったのかもしれないのですが、私のなかには木枯らしが吹く、晩秋、あるいは12月頃ではなかったかというイメージが残っていました。そのほかの友人関係の状況をあわせると、やはり冬が近づく時期になっていたという気もします。
もう少し時代を巻き戻して思い出しながら事実を追いたいと思います。昭和59年の夏の前後であったぐらいにしか特定できないのですが、観音堂の珠洲のYHの部屋でちょくちょく顔を合わせていたUが、西念町の古いアパートに住んでいると知って、遊びに行くようになりました。
珠洲のYHもその近くのアパートではないですが、ちょっとしたビルの3階あたりに住んでいて、そこにもちょこちょこ遊びに行くことがあったのですが、Uとの出会いは別であったように思います。少なくともUのアパートでYHの姿を見ることも、YHの部屋でUの姿をみることもなかったと思います。
初めは私が被告訴人OKNを一緒にUのアパートに連れて行くという感じだったと思います。まもなくそこで羽咋郡富来町出身のOTと金沢生まれで三重県育ちだったようなHMと知り合い、全員が同じ年でもあったのですが、またたくまに親密な間柄になりました。
西念町は金沢中央市場と同じ住所でもあったと思いますが、わりあい広い範囲で、Uのアパートもそう近い距離ではありませんでした。OTは広岡町のしゃれたワンルームマンションで年下の少女と同棲していました。HMも北安江のマンションで少し年下の女と同棲していました。
三人とも仕事はしていなかったと思います。OTは一度、金沢市場輸送で仕事をしたのですが、一回か二回の運行ですぐにやめていました。私は長距離の仕事をしている時間が長かったので、一緒にいる時間も少なかったのですが、彼らは四六時中に近いぐらい一緒に遊び回っていたようです。
Uは個人的に深刻な問題を抱えていたので暗い感じがありましたが、それでも女遊びは人一倍やっていたようです。すごい数の女の子の電話番号を書いた分厚いメモ帳のようなものも持っていました。私はその後、Uと会う機会も少なかったと思います。
プライバシーの問題もあるので詳細はさけないですが、Uは少年時代に大きな交通事故を起こし、多額の賠償金を背負っていると聞いていました。内灘の家も一度遊びに行ったことがありましたが、賠償のため手放し、あの西念町の古いアパートの住むようになったと聞いていました。 Uと最後に会ったのは平成9年の8月か9月のことでした。怪我をしていて野々市の赤十字病院に入院していたところを、HMと一緒に見舞いにいった時のことです。その後もちらほら近況を伝え聞くことがあったのですが、小さな自動車修理工場を経営し、何かのレースに出場することもある、
という話を聞きました。今考え直すと、OYが片町で薬物事件で逮捕されたというのは、あるいはこの平成9年頃のことであったのかもしれません。しかしそうなると当時の年齢が30歳を超えていることになるはずなので、そのあたりも記憶にはそぐわないのです。
OYの薬物事件とは別になると思うのですが、平成2年頃も、なんどか新聞で片町の薬物事件が大きく報道されることがありました。その主犯格で片町でずいぶん有名だったという人物とは、福井刑務所の工場で同じ班になり、その人物が班長でした。これも偶然ではないと思います。
いまでもフルネームを憶えていますが、ここで書けるはずもありません。まもなく班長と娑婆で親しい関係であったという金沢の元暴力団員YKが同じ班に入ってきました。二人が一緒だった時期はそんなに長くはなかったと思います。まもなく班長のTKが仮釈放で出て行くと、次にYKが班長になりました。
TKとOYは、ともに金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKのことをよく知っているような口ぶりで話していましたが、あまり具体的な話は教えてくれなかったように思います。どちらも裏の世界で相当長い間、キャリアを積んだ人間という感じでもありました。
どちらか、あるいはどちらもであったかは忘れましたが、同じ片町でバーテンをしていた被告訴人YSNの名前は知らないかと尋ねたところ、すぐに知らないという返事が返り、本当は知っていそうだな、という印象は受けていました。
賞味期限の分からなくなった残り物の白菜の漬け物を食べていたら、ふと閃くようにおもいだしたのですが、下の名前は「かつとし」だったと思います。プライバシーに配慮して、このあたりにとどめておきます。
もうひとつより重要度が高いかもしれないと考え直すことがあったので先に書いておきます。それは平成11年の2月頃のことです。被告訴人OKNが住宅のリフォームや建て売り住宅のセールスを口実に、積極的な罠を仕掛けてきた時期でした。
ある日、なにかを理由に金沢市役所につれていかれることがありました。なにかの調査のような話であったような気もするのですが、現在ははっきり思い出せなくなっています。かなり詳しく説明を受けましたが、必要性も理解しがたいもので意図がつかみにくいものでした。
そういう疑問はその時が初めてではなく慣れていた部分もあったので、当時はそれほど深く考えることもなかったと思います。とにかく、かなり長い時間、金沢市役所のなかで、被告訴人OKNと一緒にいました。市役所は金沢市の中心部、片町や香林坊の近くでもあります。
なにかくどいぐらいの説明を受けていましたが、とにかく、以前、2トン車の持ち込む運転手として仕事をしていたこともある宇出津の川か河の字を含むK、と落ち合うことになっていきました。当時は既に携帯電話を使っていた思うのですが、直前の電話連絡で、駐車場のことを話していました。
つまりKの車が外車の大型車で大きすぎて駐車できる場所がないという話でした。アメリカ車ではなくヨーロッパ車で、ベンツではなくBMWという話だったような気がするのですが、BMWというのはそんなに大きな車だったのかという疑問も少しよぎりました。
Kに特段の疑いの目を向けるのが私の目的ではなく、むしろそのような目を私に向けさせ、知られなくないあるいは気づかれたくない事実を守りたいというのが、彼の真の目的であった可能性もあるとは考えています。それでなくても挙動不審でしたから。
被告訴人は中央公園の横の県庁の敷地に大きな車を駐車できる場所があるという説明をしていたと思います。たぶん県庁は元の県庁の跡地で、それほど離れていない近年に現在の金沢市鞍月あたりの新庁舎に移転していたと思います。
書いているうちに思い出したのですが、Kの用事は中小企業向けの融資の相談のような話であったと思います。かなり心配そうな顔をしていました。私のことはよく知っているはずと思っていましたが、まるで眼中にない様子でした。もともと性格的に真意や表情の読み取りにくいタイプにも思えていました。
なお、その時、被告訴人OKNが乗っていた車も古いものでしたがスウェーデンのボルボという外車だったと思います。特別大きいと感じる車ではなかったと思いますが、一般の国産車よりは大型であったと思います。その車は金沢市役所の中の駐車場に普通に駐車していたように思います。
黒い色のボルボだったと思います。かなり長い間乗務していたと思います。平成9年の7月から平成11年の春頃までの間、彼が他の車を自分の車として乗車していたというのは思い出せないです。なにか国産車に乗っていたような気もするのですが。
昭和62年か63年か記憶上いまのところ特定できないのですが、彼が当時住んでいた神戸市内で会ったときは、フランス製のシトロエンとかいう珍しい車に乗っていました。お盆休みに宇出津に帰省したときもその車に乗っていたような気もします。
私は金沢市場輸送で昭和62年の4月から昭和63年の12月の20日頃まで、イスズ自動車の「石7599」というナンバーの10トン保冷車に乗務していました。大型車です。その翌年辺りからナンバーが「石」から「石川」に変更されたことも憶えています。
当時は新車に乗務するまで長ければ入社して10年掛かるとも言われていました。古参の運転手から優先的に新車が与えられるからです。年功序列言うのも昭和の時代の世の習いでした。バブル景気に突入するちょっと前であったかもしれません。
2.1.2.4 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月30日    gblog
昭和61年の3月に結婚式を挙げ6月には長男が生まれていました。被告訴人YSNを頼って岐阜県海津町に行ってのは、長男が生まれて一週間か10日後ではなかったかと思います。ライスセンターの人数の関係で金沢市に戻ってきたのは8月の20日過ぎのことでした。
金沢市場輸送に電話を掛けたとき、応対に出たのは藤村という配車係でした。何かあったらすぐにやめてもらうという条件で、再び金沢市場輸送で仕事をするようになりました。仕事内容は前回の長距離ではなく、市内配達でした。
早朝に金沢中央市場から鮮魚を積み、マルエーというスーパーの松任店、根上店、寺井店に配送する仕事だったと思います。午前中10時か10時半ぐらいに中央市場に戻り、次は青果物の売り場で、仲買の人がもってくる青果や野菜を積み込んで配達する仕事です。
この時、自分が担当したのは片町・小立野コースと呼ばれるコースでした。一番面倒で難しくいやがられる仕事だと聞いたこともありますが、自分はこれ以外やることもなかったです。片町は金沢市内の中心部で県内で一番大きい繁華街です。路地も狭く、混雑もありました。
午前と午後の2回の配達があり、午前中の1便の出発は午前11時頃ではなかったかと思います。2便は午後の2時頃だったと思いますが、これは荷物も配達先も少ないことが多かったです。そういうこともあり、この時は、大口の荷物の積み合わせで、自分のコース以外の配達も多かったです。
この時も16時頃に仕事が終わることが多かったと思いますが、市場の連休明けなどになると荷物が普段の倍以上になり、運転手とトラックの数もその当時は少なかったので、まれに18時を過ぎるようなこともあったと記憶しています。朝は5時30分からだったかと思います。
この市内配達の仕事をしながら、金沢市観音堂から移転して年月も経っていなかった金沢市東蚊爪の運転免許センターに、大型免許の一発試験を受けに行っていました。ちょっと忘れてしまいましたが、最低でも7回、あるいは10回以上試験を受けて、相場より多めの回数でしたが合格しました。
合格当日の免許の交付だったと思うのですが、大型免許の公布日は昭和61年11月27日だったと思います。誕生日の翌日だったこともあり、憶えやすかったです。大型免許を取得したものの大型車の空きはありませんでした。それと翌年の1月ぐらいに免許の点数が満点になるまでは、長距離はするつもりは
なかったです。当時、長距離のトラックの仕事には重量オーバーがつきものでした。検問で捕まるということもありますが、高速道路でパトカーが荷物の重そうなトラックを見つけると、マイクで次のインターで降りるように言われ、インターにある台貫に乗せられるのです。
中西運輸商で大きな免停を受けることになったのもそれが多かったです。中国自動車道の新見インターの警官に目をつけられ、狙い打ちにされるとひとたまりもなかったです。どこの警察でもそこまでやることはなく、だいたいやる場所は決まってはいたのですが、事実上避けようのない場所です。
大型免許をとってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなりました。ポンコツの6トン保冷車で仕事をすることもあったと記憶していますが、ちょうどイワシの仕事の時期になっていたので、10トン平ボディ車でのミールの仕事がほとんどになりました。ミールとは主にイワシを原料にした魚粉です。
私がはじめにいた昭和59年当時はなかった仕事ですが、早ければその年の12月頃から始めた仕事のようでした。同じ石川県の珠洲市蛸島にある浜田漁業の仕事でした。浜田漁業金沢工場というミール工場が出来ていたのです。浜田漁業は蛸島丸という船団を所有していました。
昭和59年当時、金沢市場輸送の配車係は藤村と北浜という人のふたりでした。見た感じずいぶん年上に思えていたのですが、当時27歳とか28歳という年齢を聞いたような気がしないではないです。彼ももとは金沢市場輸送で運転手をしていたはずですが、珠洲市蛸島の出身でした。
昭和61年の8月に2回目の入社をしたときには姿はなく、前回に私がやめてまもなく蛸島に帰り、浜田漁業の配車係をしているとも聞いていました。詳しい話を聞いていたような気もするのですが、憶えていないです。それでも北浜がきっかけでミールの仕事をするようになった可能性は高いと思います。
浜田漁業金沢工場は金沢市内の外れでしたが、目立つ場所に工場がありました。金沢東インターから河北郡宇ノ気に出る農面道路の道沿いで、隣に屠殺もやっているという噂の食肉工場があり、他はほとんどが田んぼばかりで建物がほとんどなかったので、かなり目立っていたのです。 普通に金沢で生活している人は余り使う道でもなかったかもしれないですが、能登の宇出津の行き来には、よく使う道でした。宇ノ気の先の白尾インターから能登有料道路の乗り降りをすることが多かったからです。
浜田漁業金沢工場が出来た頃、イワシの仕事も規模が小さいものでした。初めはのちに「八戸軍団」とも呼ばれるようになった東北の出稼ぎのような白ナンバーの持ち込み運転手のグループが、直に仕事受けてやってきるような話でした。一人1台で5,6人ぐらいのグループでした。
7599号がイスズ自動車から新車で納入されたのは4月でしたが、その少し前にも同じイスズのトラックで、2台のダンプが新車で納入されていました。土砂積み禁止の普通ではないダンプでしたが、荷台の大きな頑丈そうなダンプでした。イワシ運搬専用の特別注文で設えたようなダンプでした。
昭和62年の春先のことですが、そのダンプに乗務した一人が金沢のMという人物です。告訴事件の重要な鍵を握り、事実ではないのに被害者と交際していた元彼氏という作り話の役割を演じた被告訴人YSKは、このMの愛人の息子という話でした。現在市場急配センターの社長になっている可能性の高い
Dという人物をイワシの仕事に招き入れたのもMだと聞いていました。金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKの口から直接聞いた話では、自分がヤクザの組長をやっていた頃、若い衆で組にいたけど、すぐにいなくなったという関係もあったようです。
総じてTSKの話というのは誇張と嘘くささがあり、どこまで本当なのか不明なのですが、そのような虚々実々を周囲にバリアのように張り巡らすのが、保身と安心につながっていたのかもしれないと、後になって考えるようになりました。謎と癖の強い人物であることは確かです。
Mは昭和40年代か仁義なき戦い、などのヤクザ映画が全盛の頃、映画の中からそのまま飛び出してきたような人物でした。今ではすっかり見かけなくなったタイプの人間ですが、昔はけっこういたような気もしますが、当時でも余りみないタイプの個性派という印象でした。
イワシの仕事というのは早い時期で12月の初めぐらい、遅い時期で翌年の4月ぐらいまでという期間でした。初めの方と終わりの方は、獲れるイワシの漁も少なく、仕事も少なくて、八戸軍団とダンプに限られていました。その後、全国的にイワシが捕れなくなり、ずいぶん前に浜田漁業金沢工場も閉鎖に
なっているはずです。浜田漁業金沢工場は一日に処理できるイワシの漁が600トンと聞いていたように思います。ほとんどがイワシですが、サバやアジも混じっていました。アンコウや大きなマスを見つけることもあり、それが楽しみでもありました。
イワシは金沢港の大きな堤防の先端付近でまとまって獲れることもあれば、魚群が見つからず、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡島の近くまで行くこともあると聞いていました。舞鶴港や珠洲市の飯田港までイワシを積みに行ったこともありました。
そういえばダンベと呼ばれる四角い水槽にイワシを積んで、石巻や三重県、四国の方に運ぶこともありました。養殖ハマチのエサとして冷凍加工するのが目的であったと思います。
ダンベは10トン平ボディ車に平積みで14個ぐらい乗るものであったと思います。いつの頃からか群馬から来たKという人物が、よくそのダンベの仕事をするようになっていました。もう一人は小松市に家があるという運転手でした。とっさに思い出したのですが、名前はすんなり出てきません。
名前に亀という字がある二文字だったと思います。群馬から来たKは、フルネームでしっかり憶えていますが、ありふれすぎたような上と下の名前の組み合わせで、偽名の可能性もあったのではないかと考えるようになっています。ある意味、謎の鍵を握る人物なのです。それに元警察官を詐称していた
可能性もあるので、あえて実名にしておきたいと思います。小林健二という名前だったと思います。小林には自信があるのですが、検事の方は95パーセントぐらいの記憶の自信です。まあ、ほぼ間違いはないと思っています。
なにより驚くのは、彼が最高裁判事の息子であると話していたことで、それも判事の父親がTSKとは盟友で、父親に社会勉強をするようにと、TSKの会社で働くことをすすめられた、というような話をしていたことでした。この話を聞かされたのは彼が市場急配センターの社員として、イワシの現場の
監督のようなことをするようになってからであったと思います。初めに彼の姿を見るようになったのは、まだ金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃でした。スポーツタイプではない大型のバイクの乗る姿をちょくちょく見かけていました。
2.1.2.5 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年8月31日    gblog
小林健一は初め10トン平ボディ車でローカルの仕事をしていたと思います。今少し思い出したのですが、金沢市内高柳陸橋の下にある運送会社と関わりのある仕事をしていたかもしれません。北陸通運という会社だったかも、これは別の人のことだったかもしれないですが、専属的に仕事を
やっていたように思います。彼は金沢市場輸送の事務所が西念町にある頃からいましたが、仕事が終わるとすぐに帰宅していたためか、事務所で顔を合わせた記憶というのはほとんどないです。会社の前の道路の向こう側で、話をしたことを記憶しています。
私は昔、昭和57年の9月から12月の年末まで、名古屋市港区でバイク屋の仕事をしていたことがあったのですが、一度客に、まるで白バイのようなバイクに乗ってきた人と話をしたことがありました。正統なバイクマニアという感じで、福島県の出身と言っていたことも印象的に憶えていました。
最初に会った頃の小林健一も正統なバイクマニアという感じで、どこか共通するものを感じていました。まあ、初めの頃は顔を合わす機会が少なく、存在自体を忘れかけた時期もあったかもしれません。会社の他の運転手とはかなり雰囲気が違っていました。育ちは良さそうな感じでした。
初めに聞いたのがいつ頃であったのか思い出せないのですが、言葉を交わすようになったすぐの頃かもしれません。小林健一は、前職が石川県警の交通機動隊員で白バイに乗っていたと話していました。いかにもそういう雰囲気であったので、その頃は疑うこともなかったです。
あれは昭和62年の5月の下旬頃ではと思います。山中温泉のキャッスルバーデンホテルで一泊の慰安会がありました。この時は一人一万円の実費であとは会社が負担するという話ではなかったかと思います。全員ではなかったと思いますが、ほとんどの社員が出席していました。
午後にホテルというか温泉旅館の送迎バスが、中央市場前の北國銀行の前あたりに迎えに来ていました。あまり大型でもないマイクロバスであったと思います。たまたま私はバスの一番後ろの方で小林健一とほぼ並んで座っていたのですが、彼はバスが出発してすぐに飲酒を始めたらしく、
北陸道の片山津インターを降りた頃には、すっかり酔っぱらっていました。それも尋常な酔いかたではなかったのですが、すこぶる陽気で笑い続けながら、多弁になにかを喋っていました。そのようなタイプの酔っぱらいというのは余り見た憶えもなかったので、珍しくもありました。 片山津インターを降りてしばらくした頃には、窓から小便をすると言いだし、あるいは、次に手に持っている袋に小便を入れると言い出したように思います。なにぶん昔のことなので、こまかいことは憶えていませんが、周囲を驚かせ、皆でなだめて大人しくさせようとしていたことは憶えています。
旅館というかホテルに着くと、ほとんどがすぐに大浴場に風呂を入りに行きました。なぜか脱衣所に若い女の子が3,4人いて、それも珍しく、目的や意味がつかみかねていました。その時点でも小林健一の普段と別人のような行動には、疑問と戸惑いが続いていました。
あれほどバスの中で大騒ぎしていた小林健一は、その後ホテルの中で姿を見かけることがありませんでした。その宿泊ではかなりの大きさの大部屋で大人数の布団がひいてあったことを憶えています。まるで修学旅行のような状態でした。とにかくホテルに着いてから小林健一が起きている姿は見なかったと
思います。部屋のなかで爆睡していたような記憶もあるのですが、これも記憶が不鮮明になっています。この慰安会では他の宿泊客との間でケンカ沙汰のようなトラブルもありました。それでよく憶えている顔ぶれもいます。
2.1.2.6 被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年9月1日    gblog
山中温泉に行ったのは5月の下旬であった可能性が高いです。この時点で金沢市場輸送の事務所がまだ西念町にあったということもはっきりしています。昭和59年の入社当時から事務所とは別に、会社の駐車場というのは中央市場から割と離れた場所にありました。住所は金沢市二口町です。
移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場 http://bit.ly/1e2TbVl のGoogleマップの地図で「移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場」とラベルをつけた場所が、移転後の金沢市場輸送の事務所の場所です。ここでURLは短縮に変換しました。
事務所は7月頃の移転だったと思います。平屋の住宅のような事務所でした。金石街道沿いの「オークラ」というパチンコ店の裏側の駐車場にも隣接していました。もともとあった田んぼの中の砂利の駐車場とも重なる敷地であったと思いますが、ずれた部分が大きい気もします。区画整理になっていました。
昔は丸北青果の間の道にはいると左手の方に駐車場があり、たんぼ道の交差点を右に曲がるとすぐに小林運送がありました。この小林運送は青果物の仕事をメインにしていました。私は昭和58年の2月から4月頃まで2ヶ月ほどの間でしたが、小林運送で長距離助手で働いたことがありました。
当時、金沢市の職安は金沢駅に近い芳斉にありました。職安に行くたびに、求人が出ていたので、ちょっと気が向いて面接に行ったところ採用されたのです。住み込みでしたが、古い個人病院の建物で部屋のベッドも病院にあるのと同じに見えたので、本当に元は病院の建物だったのかもしれないです。
平成3年の12月頃からは、市場急配センターで小林運送の仕事をよくやるようになっていました。私は他の運転手が嫌がる仕事を割り当てられることが多かったので、2,3回ぐらいしかやらなかったのですが、豊橋方面から野菜を積んでくる仕事でした。
金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した時期は、割としっかり憶えているのですが、年が昭和62年であったと思うものの、80パーセントぐらいの自信しか持てず、あるいは昭和63年になります。大型車に乗務するようになってから砂利の駐車場に止めていた記憶は少ないので、62年の可能性が高い
とは考えているのですが、今の記憶の状態では決め手がないところです。これは大事なことなのですが、移転してから一月ぐらいで、宇出津の河か川の字のつくK、と姫のNの姿を揃って見るようになったのです。被告訴人OKNから魚の行商をしていると聞いてから3ヶ月も経っていなかったように
思います。けっこう古い感じの2トンのトラックに乗っていました。そのトラックは個人所有のもので、市内配達を請け負っていると聞きました。こういうトラックの所有で仕事を請け負う形態を、「持ち込み」と呼んでいました。市内配達の持ち込みは、この二人が初めてだったと思います。
自分の記憶ではその半月後ぐらいに、初めて後に市場急配センターの社長となるMHKの姿を金沢市場輸送の事務所でみたのです。すぐに市内配達の新しい責任者であるように聞きました。この立場はけっこう長い間、不在でもあったのです。
昭和61年の8月、私が市内配達の仕事をするようになった頃は、高田という人物が現場で采配をする責任者のような立場でした。イメージ的には呉服店の番頭というような感じの人物でした。青果の配送の現場にもよく姿を見せていて、よく竹箒をもって売り場の中の掃除もしていました。
いわくつきの過去を持つような噂も小耳にしていたような気がしますが、内容は憶えていないです。はっきりしていることは何か問題を起こし、姿をくらましたということでした。ある日、西念町の旧事務所に、制服を着た右翼団体の若者が5,6人程か入ってきて、高田の所在を尋ねていたことがありました。
その時、配車係の椅子に座って受け答えしていたのが、後に金沢市場輸送の社長となる被告訴人MTKだったのも憶えています。あとで誰かが富山の右翼だと行っていましたが、口上を述べていた若者が威圧的ではなく、かなり気を遣って緊張しているようにも見えたことが印象的でした。
その時の被告訴人MTKの態度も堂々としていて慣れているとも感じたのですが、彼も富山とは縁の深いという人物でした。福井刑務所では富山で暴力団員をしていたという話も聞きましたが、余り具体性も感じられず、実際のことはわかりません。
福井刑務所では被告訴人TSKについて、高岡の大日本平和会だと即答を得たこともありました。山口組との抗争で全国的に名をはせた有名な団体だったと思いますが、富山県の高岡市に支部があるとか、そういう話は聞いたことがなく、新聞でも見なかったと思います。
私が被告訴人TSKの口から直接聞いた話では、東京にいた頃、「大日本青思会(大日本青年思想研究会)」に所属していたという話でした。これは平成2年か3年に聞いた話だと思います。それ以前は、東京の中央大学で空手部にいたということを、しきりに口にしていたという記憶があります。
被告訴人MTKは昭和59年当時、大型運転手でしたが、それも最古参の運転手という話でした。それでも7年目ぐらいだったと思います。1年ごとに給料の基本給が1万円ずつあがるというのも、当時の金沢市場輸送の特徴でした。
被告訴人MTKは金沢市に生まれ育ったものの十代の後半であったか早い時期に富山市に行き、そこで生活するようになり、数年のうちに繁華街で飲み屋を数点経営する社長になっていたと話していました。20代の後半という話であったようにも思います。カラオケというものを初めて導入したのも
自分のアイデアだといい自慢していました。結局、天狗になりすぎたということで、飲み屋の仕事はうまくいかなくなったと言いましたが、次に閃いたのはサラ金の経営で、これも時代を先取りしたアイデアだったと自慢していました。
人口等の諸条件を考えた上で、サラ金を始める場所を静岡市に選び、静岡に行ったと話していました。そして大きなものを相手に何か大きなことを仕掛けたらしく、詐欺で指名手配されるようになり、金沢市に流れてきて金沢市場輸送で長距離運転手をするようになったと話していました。
金沢に来て1年ぐらいという話だったでしょうか、警察に突き止められて逮捕され、刑務所に服役したという話でした。服役期間は1年か1年半というものだったので、ずいぶん短いという印象も受けました。そして当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが身元引受人となり、出所の向かいにも
来てくれたと話していました。静岡では家族で御殿のような家に住んでいたとも話していました。そういう昔話を詳しく聞いたのは昭和61年の12月頃のことでした。場所は北安江の焼き肉屋でした。平成元年の1月頃かに松波港で自殺した珠洲のTさんと3人でした。
Tさんは被告訴人YSNと水産高校の同級生でクラスメートでもあったはずかと思います。高校卒業後すぐに金沢市場輸送に入社したとも聞いていました。YSNも同じく卒業後は、中央市場のウロコ水産で半年ぐらい仕事をしていたとも聞いていました。
Tさんの自殺についてはプライバシーの問題もあるので、その他の接点など控えたいと思いますが、平成6年の1月頃か金沢地方検察庁の検事室で加藤検事が強い反応を見せたこともあったので、注視されてきたのではとは考えています。億の保険金の話は平成13年頃に金沢刑務所で聞いた話でした。
保険金にまつわる話は、他に耳にしたことが一切なかったので、真偽の程も不明ですが、一億円よりは大きな額で、2億円という額ではなかったと記憶しています。1億数千万の可能性が高いかと思いますが、以前掛け金についてネットで調べたことがあり、ずいぶんな金額だとは思いました。
その自殺は新聞で知ったのが最初かと思います。周囲から聞いた話では、松波港の岸壁の駐車場で、買ったばかりの赤い色の軽四を、3回転ほどぐるぐるさせてから、海に飛び込んだという話でした。目撃者がいたとは考えにくい場所とも想像し、新聞にそれらしい報道もなかったようには思いました。
被告訴人OSNは、このときずいぶんと嘆き悲しんでいたようですが、事実上の箝口令というか、まったく話題に出来ないような場の雰囲気も醸し出していたと記憶しています。能登の地元の友人、知人の間からは、ほとんど情報を受けることもなかったように思います。
2.1.2.7 被告発人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告発人OKNとの関係 2013年9月5日    gblog
時期がはっきりと思い出せないのですが、平成11年の春頃ではなかったかと思います。金沢市北安江のアルプラザ平和堂の大通りを挟んで向かい側の大通り沿いにソバ屋だと思います。それこで被告発人OKNに食事をおごってもらいました。何か用件があってその店に入ったような気もしますが、
現在細かいことは思い出せないです。重要なのは食事を終えて店を出た直後のことでした。時刻はすっかり夜で20時ぐらいではなかったかと思います。何かの会話の流れから、私はやや強引に、金沢市場輸送の社長であった被告発人TSKのことを憶えているかと、OKNに問いかけました。
すると彼はそくざに、ややあわてたような感じで、まるっきり知らないと否定しました。わざとらしく否定してこちらの反応を窺ったようにも思えなくはなかったですが、強く否定して会話はその先に進みませんでした。わざとらしいという問題だけでなく、本来は知らないはずがないという事実です。
そういえば市場急配センターの被告発人MHKが、被告発人OKNについて「いい男やな」と言っていたこともありました。時期がはっきりしないのですが、平成9年の春のことであったかもしれません。
被告発人OKNの方から、被告発人MHKについて「お客の引っ越しのためトラックを借りに行くこともある」と話したこともありました。探りを入れるような感じでもありました。これも平成9年の春頃だったように思うのですが、あるいは別の時期であったのかもしれません。
アルプラザの近くのソバ屋のことですが、いかにもサラリーマンが利用するような店でした。その時店に入ってのは初めてではなかったような気もするのですが、目立つ場所にもありそこに店があることはよく知っていました。隣沿いのすぐ近くに昔からやっている24時間の酒屋がありました。
まだコンビニという呼び名が世の中に出ていない頃だったようにも思います。昭和59年にはすでにあったように思います。サークルKとかが出てくる前だったと思いますが、店の内容は酒類がメインであるものの、ほぼコンビニのような品揃えになっていたと思います。昔はその店ぐらいしか
金沢市内で深夜に酒類の買える店はなかったように思います。うどんをメインにした弁当のチェーン店八幡のすしべん、には缶ビール程度はおいてあったような気もしますが。なお、ソバ屋もその24時間の酒店も住所は金沢市諸江だと思われます。北安江との境にもなっていると思いますが。
北安江というのは金沢駅の裏側、駅西とも呼ばれていますが、その東金沢側に位置する町内です。8号線バイパスの方向だと西念町にも隣接していると思います。中央市場自体も西念町ではないかと思いますが、その正門前の道路沿いにある前の金沢市場輸送の事務所の住所は西念町でした。
さらにいえば「金沢市西念町リの1」という番地だったような記憶も残っています。西念町というのはかなり広く、その外れの方に、「飛鳥(ひちょう)」という食堂がありました。すぐ近くには双葉湯という銭湯もありました。昭和59年当時のそのあたりは、田んぼや空き地も多かったと記憶しています。

2.2 事件の背景と経緯、事件の関与者及び関係者との関係について

この曲の共通点については何日か前にもツイートか何かで見た憶えがありますが、今回、「夢のいた場所に未練残しても 心寒いだけさ」の部分が特に目を引き考えさせられました。
調べていないのではっきりしたことは分からないですが、「セーラー服と機関銃」がヒットしたのは昭和57年か58年頃ではないかと思います。これはちょうど高校の同級生が高校を卒業し社会に出る時期とも重なっていたと思います。
また、当時の友達、知人の多くが当時は珠洲郡内浦町だった小木港の北洋の遠洋漁船に乗り組んでいた時期でもありました。現在の小木港は自分の生まれ住む宇出津と同じ能登町ですが、距離にして9キロぐらいしか離れていません。
宇出津も同じ漁港ではありますが、地場の漁がほとんどの港です。その宇出津ですら当時は漁業の関係者が町の人口の半数ぐらいだと聞いていました。当時の宇出津は鳳至郡能都町でしたが、能都町で内浦町小木と接する集落が能登町姫でした。
姫は小さな集落です。それでもテレビを見た感じでは「あまちゃん」の舞台の、岩手県袖ヶ浜よりは大きいかもしれません。姫は小木と同じく、北洋の遠洋漁船をやっている港でした。その姫の住宅新築率が石川県で一番高かったという話も聞いたことがありました。
この住宅の新築に象徴されるように、遠洋の漁業で町が潤い町の大工など他の職業の仕事も増えるという構造だったと聞きます。これに大打撃を与えたのが旧ソ連との国際問題、いわゆる200海里問題でした。小木、姫の漁船が次々と拿捕され、操業停止の処分を受けていると直に聞いたり、新聞などのニュースも見ていました。死人の出る事件もありました。
200海里問題がいつ頃起こったのか、正確な時期は調べていないので、今回はあえて現在の自分の記憶によってのみ説明をしております。
Date: 2013-11-07 11:00:27 JST
Author: 廣野秀樹
Org version 7.8.03 with Emacs version 23
Validate XHTML 1.0

2013年9月23日月曜日

被告発人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告発人OKNとの関係 2013年9月5日


時期がはっきりと思い出せないのですが、平成11年の春頃ではなかったかと思います。金沢市北安江のアルプラザ平和堂の大通りを挟んで向かい側の大通り沿いにソバ屋だと思います。それこで被告発人OKNに食事をおごってもらいました。何か用件があってその店に入ったような気もしますが、

現在細かいことは思い出せないです。重要なのは食事を終えて店を出た直後のことでした。時刻はすっかり夜で20時ぐらいではなかったかと思います。何かの会話の流れから、私はやや強引に、金沢市場輸送の社長であった被告発人TSKのことを憶えているかと、OKNに問いかけました。

すると彼はそくざに、ややあわてたような感じで、まるっきり知らないと否定しました。わざとらしく否定してこちらの反応を窺ったようにも思えなくはなかったですが、強く否定して会話はその先に進みませんでした。わざとらしいという問題だけでなく、本来は知らないはずがないという事実です。

そういえば市場急配センターの被告発人MHKが、被告発人OKNについて「いい男やな」と言っていたこともありました。時期がはっきりしないのですが、平成9年の春のことであったかもしれません。

被告発人OKNの方から、被告発人MHKについて「お客の引っ越しのためトラックを借りに行くこともある」と話したこともありました。探りを入れるような感じでもありました。これも平成9年の春頃だったように思うのですが、あるいは別の時期であったのかもしれません。

アルプラザの近くのソバ屋のことですが、いかにもサラリーマンが利用するような店でした。その時店に入ってのは初めてではなかったような気もするのですが、目立つ場所にもありそこに店があることはよく知っていました。隣沿いのすぐ近くに昔からやっている24時間の酒屋がありました。

まだコンビニという呼び名が世の中に出ていない頃だったようにも思います。昭和59年にはすでにあったように思います。サークルKとかが出てくる前だったと思いますが、店の内容は酒類がメインであるものの、ほぼコンビニのような品揃えになっていたと思います。昔はその店ぐらいしか

金沢市内で深夜に酒類の買える店はなかったように思います。うどんをメインにした弁当のチェーン店八幡のすしべん、には缶ビール程度はおいてあったような気もしますが。なお、ソバ屋もその24時間の酒店も住所は金沢市諸江だと思われます。北安江との境にもなっていると思いますが。

北安江というのは金沢駅の裏側、駅西とも呼ばれていますが、その東金沢側に位置する町内です。8号線バイパスの方向だと西念町にも隣接していると思います。中央市場自体も西念町ではないかと思いますが、その正門前の道路沿いにある前の金沢市場輸送の事務所の住所は西念町でした。

さらにいえば「金沢市西念町リの1」という番地だったような記憶も残っています。西念町というのはかなり広く、その外れの方に、「飛鳥(ひちょう)」という食堂がありました。すぐ近くには双葉湯という銭湯もありました。昭和59年当時のそのあたりは、田んぼや空き地も多かったと記憶しています。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 9月1日


山中温泉に行ったのは5月の下旬であった可能性が高いです。この時点で金沢市場輸送の事務所がまだ西念町にあったということもはっきりしています。昭和59年の入社当時から事務所とは別に、会社の駐車場というのは中央市場から割と離れた場所にありました。住所は金沢市二口町です。

移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場 http://bit.ly/1e2TbVl のGoogleマップの地図で「移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場」とラベルをつけた場所が、移転後の金沢市場輸送の事務所の場所です。ここでURLは短縮に変換しました。

事務所は7月頃の移転だったと思います。平屋の住宅のような事務所でした。金石街道沿いの「オークラ」というパチンコ店の裏側の駐車場にも隣接していました。もともとあった田んぼの中の砂利の駐車場とも重なる敷地であったと思いますが、ずれた部分が大きい気もします。区画整理になっていました。

昔は丸北青果の間の道にはいると左手の方に駐車場があり、たんぼ道の交差点を右に曲がるとすぐに小林運送がありました。この小林運送は青果物の仕事をメインにしていました。私は昭和58年の2月から4月頃まで2ヶ月ほどの間でしたが、小林運送で長距離助手で働いたことがありました。

当時、金沢市の職安は金沢駅に近い芳斉にありました。職安に行くたびに、求人が出ていたので、ちょっと気が向いて面接に行ったところ採用されたのです。住み込みでしたが、古い個人病院の建物で部屋のベッドも病院にあるのと同じに見えたので、本当に元は病院の建物だったのかもしれないです。

平成3年の12月頃からは、市場急配センターで小林運送の仕事をよくやるようになっていました。私は他の運転手が嫌がる仕事を割り当てられることが多かったので、2,3回ぐらいしかやらなかったのですが、豊橋方面から野菜を積んでくる仕事でした。

金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した時期は、割としっかり憶えているのですが、年が昭和62年であったと思うものの、80パーセントぐらいの自信しか持てず、あるいは昭和63年になります。大型車に乗務するようになってから砂利の駐車場に止めていた記憶は少ないので、62年の可能性が高い

とは考えているのですが、今の記憶の状態では決め手がないところです。これは大事なことなのですが、移転してから一月ぐらいで、宇出津の河か川の字のつくK、と姫のNの姿を揃って見るようになったのです。被告訴人OKNから魚の行商をしていると聞いてから3ヶ月も経っていなかったように

思います。けっこう古い感じの2トンのトラックに乗っていました。そのトラックは個人所有のもので、市内配達を請け負っていると聞きました。こういうトラックの所有で仕事を請け負う形態を、「持ち込み」と呼んでいました。市内配達の持ち込みは、この二人が初めてだったと思います。

自分の記憶ではその半月後ぐらいに、初めて後に市場急配センターの社長となるMHKの姿を金沢市場輸送の事務所でみたのです。すぐに市内配達の新しい責任者であるように聞きました。この立場はけっこう長い間、不在でもあったのです。

昭和61年の8月、私が市内配達の仕事をするようになった頃は、高田という人物が現場で采配をする責任者のような立場でした。イメージ的には呉服店の番頭というような感じの人物でした。青果の配送の現場にもよく姿を見せていて、よく竹箒をもって売り場の中の掃除もしていました。

いわくつきの過去を持つような噂も小耳にしていたような気がしますが、内容は憶えていないです。はっきりしていることは何か問題を起こし、姿をくらましたということでした。ある日、西念町の旧事務所に、制服を着た右翼団体の若者が5,6人程か入ってきて、高田の所在を尋ねていたことがありました。

その時、配車係の椅子に座って受け答えしていたのが、後に金沢市場輸送の社長となる被告訴人MTKだったのも憶えています。あとで誰かが富山の右翼だと行っていましたが、口上を述べていた若者が威圧的ではなく、かなり気を遣って緊張しているようにも見えたことが印象的でした。

その時の被告訴人MTKの態度も堂々としていて慣れているとも感じたのですが、彼も富山とは縁の深いという人物でした。福井刑務所では富山で暴力団員をしていたという話も聞きましたが、余り具体性も感じられず、実際のことはわかりません。

福井刑務所では被告訴人TSKについて、高岡の大日本平和会だと即答を得たこともありました。山口組との抗争で全国的に名をはせた有名な団体だったと思いますが、富山県の高岡市に支部があるとか、そういう話は聞いたことがなく、新聞でも見なかったと思います。

私が被告訴人TSKの口から直接聞いた話では、東京にいた頃、「大日本青思会(大日本青年思想研究会)」に所属していたという話でした。これは平成2年か3年に聞いた話だと思います。それ以前は、東京の中央大学で空手部にいたということを、しきりに口にしていたという記憶があります。

被告訴人MTKは昭和59年当時、大型運転手でしたが、それも最古参の運転手という話でした。それでも7年目ぐらいだったと思います。1年ごとに給料の基本給が1万円ずつあがるというのも、当時の金沢市場輸送の特徴でした。

被告訴人MTKは金沢市に生まれ育ったものの十代の後半であったか早い時期に富山市に行き、そこで生活するようになり、数年のうちに繁華街で飲み屋を数点経営する社長になっていたと話していました。20代の後半という話であったようにも思います。カラオケというものを初めて導入したのも

自分のアイデアだといい自慢していました。結局、天狗になりすぎたということで、飲み屋の仕事はうまくいかなくなったと言いましたが、次に閃いたのはサラ金の経営で、これも時代を先取りしたアイデアだったと自慢していました。

人口等の諸条件を考えた上で、サラ金を始める場所を静岡市に選び、静岡に行ったと話していました。そして大きなものを相手に何か大きなことを仕掛けたらしく、詐欺で指名手配されるようになり、金沢市に流れてきて金沢市場輸送で長距離運転手をするようになったと話していました。

金沢に来て1年ぐらいという話だったでしょうか、警察に突き止められて逮捕され、刑務所に服役したという話でした。服役期間は1年か1年半というものだったので、ずいぶん短いという印象も受けました。そして当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが身元引受人となり、出所の向かいにも

来てくれたと話していました。静岡では家族で御殿のような家に住んでいたとも話していました。そういう昔話を詳しく聞いたのは昭和61年の12月頃のことでした。場所は北安江の焼き肉屋でした。平成元年の1月頃かに松波港で自殺した珠洲のTさんと3人でした。

Tさんは被告訴人YSNと水産高校の同級生でクラスメートでもあったはずかと思います。高校卒業後すぐに金沢市場輸送に入社したとも聞いていました。YSNも同じく卒業後は、中央市場のウロコ水産で半年ぐらい仕事をしていたとも聞いていました。

Tさんの自殺についてはプライバシーの問題もあるので、その他の接点など控えたいと思いますが、平成6年の1月頃か金沢地方検察庁の検事室で加藤検事が強い反応を見せたこともあったので、注視されてきたのではとは考えています。億の保険金の話は平成13年頃に金沢刑務所で聞いた話でした。

保険金にまつわる話は、他に耳にしたことが一切なかったので、真偽の程も不明ですが、一億円よりは大きな額で、2億円という額ではなかったと記憶しています。1億数千万の可能性が高いかと思いますが、以前掛け金についてネットで調べたことがあり、ずいぶんな金額だとは思いました。

その自殺は新聞で知ったのが最初かと思います。周囲から聞いた話では、松波港の岸壁の駐車場で、買ったばかりの赤い色の軽四を、3回転ほどぐるぐるさせてから、海に飛び込んだという話でした。目撃者がいたとは考えにくい場所とも想像し、新聞にそれらしい報道もなかったようには思いました。

被告訴人OSNは、このときずいぶんと嘆き悲しんでいたようですが、事実上の箝口令というか、まったく話題に出来ないような場の雰囲気も醸し出していたと記憶しています。能登の地元の友人、知人の間からは、ほとんど情報を受けることもなかったように思います。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月31日


小林健一は初め10トン平ボディ車でローカルの仕事をしていたと思います。今少し思い出したのですが、金沢市内高柳陸橋の下にある運送会社と関わりのある仕事をしていたかもしれません。北陸通運という会社だったかも、これは別の人のことだったかもしれないですが、専属的に仕事を

やっていたように思います。彼は金沢市場輸送の事務所が西念町にある頃からいましたが、仕事が終わるとすぐに帰宅していたためか、事務所で顔を合わせた記憶というのはほとんどないです。会社の前の道路の向こう側で、話をしたことを記憶しています。

私は昔、昭和57年の9月から12月の年末まで、名古屋市港区でバイク屋の仕事をしていたことがあったのですが、一度客に、まるで白バイのようなバイクに乗ってきた人と話をしたことがありました。正統なバイクマニアという感じで、福島県の出身と言っていたことも印象的に憶えていました。

最初に会った頃の小林健一も正統なバイクマニアという感じで、どこか共通するものを感じていました。まあ、初めの頃は顔を合わす機会が少なく、存在自体を忘れかけた時期もあったかもしれません。会社の他の運転手とはかなり雰囲気が違っていました。育ちは良さそうな感じでした。

初めに聞いたのがいつ頃であったのか思い出せないのですが、言葉を交わすようになったすぐの頃かもしれません。小林健一は、前職が石川県警の交通機動隊員で白バイに乗っていたと話していました。いかにもそういう雰囲気であったので、その頃は疑うこともなかったです。

あれは昭和62年の5月の下旬頃ではと思います。山中温泉のキャッスルバーデンホテルで一泊の慰安会がありました。この時は一人一万円の実費であとは会社が負担するという話ではなかったかと思います。全員ではなかったと思いますが、ほとんどの社員が出席していました。

午後にホテルというか温泉旅館の送迎バスが、中央市場前の北國銀行の前あたりに迎えに来ていました。あまり大型でもないマイクロバスであったと思います。たまたま私はバスの一番後ろの方で小林健一とほぼ並んで座っていたのですが、彼はバスが出発してすぐに飲酒を始めたらしく、

北陸道の片山津インターを降りた頃には、すっかり酔っぱらっていました。それも尋常な酔いかたではなかったのですが、すこぶる陽気で笑い続けながら、多弁になにかを喋っていました。そのようなタイプの酔っぱらいというのは余り見た憶えもなかったので、珍しくもありました。
片山津インターを降りてしばらくした頃には、窓から小便をすると言いだし、あるいは、次に手に持っている袋に小便を入れると言い出したように思います。なにぶん昔のことなので、こまかいことは憶えていませんが、周囲を驚かせ、皆でなだめて大人しくさせようとしていたことは憶えています。

旅館というかホテルに着くと、ほとんどがすぐに大浴場に風呂を入りに行きました。なぜか脱衣所に若い女の子が3,4人いて、それも珍しく、目的や意味がつかみかねていました。その時点でも小林健一の普段と別人のような行動には、疑問と戸惑いが続いていました。

あれほどバスの中で大騒ぎしていた小林健一は、その後ホテルの中で姿を見かけることがありませんでした。その宿泊ではかなりの大きさの大部屋で大人数の布団がひいてあったことを憶えています。まるで修学旅行のような状態でした。とにかくホテルに着いてから小林健一が起きている姿は見なかったと

思います。部屋のなかで爆睡していたような記憶もあるのですが、これも記憶が不鮮明になっています。この慰安会では他の宿泊客との間でケンカ沙汰のようなトラブルもありました。それでよく憶えている顔ぶれもいます。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月30日


昭和61年の3月に結婚式を挙げ6月には長男が生まれていました。被告訴人YSNを頼って岐阜県海津町に行ってのは、長男が生まれて一週間か10日後ではなかったかと思います。ライスセンターの人数の関係で金沢市に戻ってきたのは8月の20日過ぎのことでした。

金沢市場輸送に電話を掛けたとき、応対に出たのは藤村という配車係でした。何かあったらすぐにやめてもらうという条件で、再び金沢市場輸送で仕事をするようになりました。仕事内容は前回の長距離ではなく、市内配達でした。

早朝に金沢中央市場から鮮魚を積み、マルエーというスーパーの松任店、根上店、寺井店に配送する仕事だったと思います。午前中10時か10時半ぐらいに中央市場に戻り、次は青果物の売り場で、仲買の人がもってくる青果や野菜を積み込んで配達する仕事です。

この時、自分が担当したのは片町・小立野コースと呼ばれるコースでした。一番面倒で難しくいやがられる仕事だと聞いたこともありますが、自分はこれ以外やることもなかったです。片町は金沢市内の中心部で県内で一番大きい繁華街です。路地も狭く、混雑もありました。

午前と午後の2回の配達があり、午前中の1便の出発は午前11時頃ではなかったかと思います。2便は午後の2時頃だったと思いますが、これは荷物も配達先も少ないことが多かったです。そういうこともあり、この時は、大口の荷物の積み合わせで、自分のコース以外の配達も多かったです。

この時も16時頃に仕事が終わることが多かったと思いますが、市場の連休明けなどになると荷物が普段の倍以上になり、運転手とトラックの数もその当時は少なかったので、まれに18時を過ぎるようなこともあったと記憶しています。朝は5時30分からだったかと思います。

この市内配達の仕事をしながら、金沢市観音堂から移転して年月も経っていなかった金沢市東蚊爪の運転免許センターに、大型免許の一発試験を受けに行っていました。ちょっと忘れてしまいましたが、最低でも7回、あるいは10回以上試験を受けて、相場より多めの回数でしたが合格しました。

合格当日の免許の交付だったと思うのですが、大型免許の公布日は昭和61年11月27日だったと思います。誕生日の翌日だったこともあり、憶えやすかったです。大型免許を取得したものの大型車の空きはありませんでした。それと翌年の1月ぐらいに免許の点数が満点になるまでは、長距離はするつもりは

なかったです。当時、長距離のトラックの仕事には重量オーバーがつきものでした。検問で捕まるということもありますが、高速道路でパトカーが荷物の重そうなトラックを見つけると、マイクで次のインターで降りるように言われ、インターにある台貫に乗せられるのです。

中西運輸商で大きな免停を受けることになったのもそれが多かったです。中国自動車道の新見インターの警官に目をつけられ、狙い打ちにされるとひとたまりもなかったです。どこの警察でもそこまでやることはなく、だいたいやる場所は決まってはいたのですが、事実上避けようのない場所です。

大型免許をとってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなりました。ポンコツの6トン保冷車で仕事をすることもあったと記憶していますが、ちょうどイワシの仕事の時期になっていたので、10トン平ボディ車でのミールの仕事がほとんどになりました。ミールとは主にイワシを原料にした魚粉です。

私がはじめにいた昭和59年当時はなかった仕事ですが、早ければその年の12月頃から始めた仕事のようでした。同じ石川県の珠洲市蛸島にある浜田漁業の仕事でした。浜田漁業金沢工場というミール工場が出来ていたのです。浜田漁業は蛸島丸という船団を所有していました。

昭和59年当時、金沢市場輸送の配車係は藤村と北浜という人のふたりでした。見た感じずいぶん年上に思えていたのですが、当時27歳とか28歳という年齢を聞いたような気がしないではないです。彼ももとは金沢市場輸送で運転手をしていたはずですが、珠洲市蛸島の出身でした。

昭和61年の8月に2回目の入社をしたときには姿はなく、前回に私がやめてまもなく蛸島に帰り、浜田漁業の配車係をしているとも聞いていました。詳しい話を聞いていたような気もするのですが、憶えていないです。それでも北浜がきっかけでミールの仕事をするようになった可能性は高いと思います。

浜田漁業金沢工場は金沢市内の外れでしたが、目立つ場所に工場がありました。金沢東インターから河北郡宇ノ気に出る農面道路の道沿いで、隣に屠殺もやっているという噂の食肉工場があり、他はほとんどが田んぼばかりで建物がほとんどなかったので、かなり目立っていたのです。
普通に金沢で生活している人は余り使う道でもなかったかもしれないですが、能登の宇出津の行き来には、よく使う道でした。宇ノ気の先の白尾インターから能登有料道路の乗り降りをすることが多かったからです。

浜田漁業金沢工場が出来た頃、イワシの仕事も規模が小さいものでした。初めはのちに「八戸軍団」とも呼ばれるようになった東北の出稼ぎのような白ナンバーの持ち込み運転手のグループが、直に仕事受けてやってきるような話でした。一人1台で5,6人ぐらいのグループでした。

7599号がイスズ自動車から新車で納入されたのは4月でしたが、その少し前にも同じイスズのトラックで、2台のダンプが新車で納入されていました。土砂積み禁止の普通ではないダンプでしたが、荷台の大きな頑丈そうなダンプでした。イワシ運搬専用の特別注文で設えたようなダンプでした。

昭和62年の春先のことですが、そのダンプに乗務した一人が金沢のMという人物です。告訴事件の重要な鍵を握り、事実ではないのに被害者と交際していた元彼氏という作り話の役割を演じた被告訴人YSKは、このMの愛人の息子という話でした。現在市場急配センターの社長になっている可能性の高い

Dという人物をイワシの仕事に招き入れたのもMだと聞いていました。金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKの口から直接聞いた話では、自分がヤクザの組長をやっていた頃、若い衆で組にいたけど、すぐにいなくなったという関係もあったようです。

総じてTSKの話というのは誇張と嘘くささがあり、どこまで本当なのか不明なのですが、そのような虚々実々を周囲にバリアのように張り巡らすのが、保身と安心につながっていたのかもしれないと、後になって考えるようになりました。謎と癖の強い人物であることは確かです。

Mは昭和40年代か仁義なき戦い、などのヤクザ映画が全盛の頃、映画の中からそのまま飛び出してきたような人物でした。今ではすっかり見かけなくなったタイプの人間ですが、昔はけっこういたような気もしますが、当時でも余りみないタイプの個性派という印象でした。

イワシの仕事というのは早い時期で12月の初めぐらい、遅い時期で翌年の4月ぐらいまでという期間でした。初めの方と終わりの方は、獲れるイワシの漁も少なく、仕事も少なくて、八戸軍団とダンプに限られていました。その後、全国的にイワシが捕れなくなり、ずいぶん前に浜田漁業金沢工場も閉鎖に

なっているはずです。浜田漁業金沢工場は一日に処理できるイワシの漁が600トンと聞いていたように思います。ほとんどがイワシですが、サバやアジも混じっていました。アンコウや大きなマスを見つけることもあり、それが楽しみでもありました。

イワシは金沢港の大きな堤防の先端付近でまとまって獲れることもあれば、魚群が見つからず、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡島の近くまで行くこともあると聞いていました。舞鶴港や珠洲市の飯田港までイワシを積みに行ったこともありました。

そういえばダンベと呼ばれる四角い水槽にイワシを積んで、石巻や三重県、四国の方に運ぶこともありました。養殖ハマチのエサとして冷凍加工するのが目的であったと思います。

ダンベは10トン平ボディ車に平積みで14個ぐらい乗るものであったと思います。いつの頃からか群馬から来たKという人物が、よくそのダンベの仕事をするようになっていました。もう一人は小松市に家があるという運転手でした。とっさに思い出したのですが、名前はすんなり出てきません。

名前に亀という字がある二文字だったと思います。群馬から来たKは、フルネームでしっかり憶えていますが、ありふれすぎたような上と下の名前の組み合わせで、偽名の可能性もあったのではないかと考えるようになっています。ある意味、謎の鍵を握る人物なのです。それに元警察官を詐称していた

可能性もあるので、あえて実名にしておきたいと思います。小林健二という名前だったと思います。小林には自信があるのですが、検事の方は95パーセントぐらいの記憶の自信です。まあ、ほぼ間違いはないと思っています。

なにより驚くのは、彼が最高裁判事の息子であると話していたことで、それも判事の父親がTSKとは盟友で、父親に社会勉強をするようにと、TSKの会社で働くことをすすめられた、というような話をしていたことでした。この話を聞かされたのは彼が市場急配センターの社員として、イワシの現場の

監督のようなことをするようになってからであったと思います。初めに彼の姿を見るようになったのは、まだ金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃でした。スポーツタイプではない大型のバイクの乗る姿をちょくちょく見かけていました。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月29日


さきほどGoogleマップで地図を作りました。→ 金沢市場輸送と市場急配センターに関する地図 https://mapsengine.google.com/map/edit?gl=jp&mid=zW8zvRyoSBg4.kL7nxxt6orVw

私が金沢市場輸送に初めに入社したのは昭和59年の1月のことでした。同じ宇出津の先輩が大型車に乗務しているので、採用してくれるかどうかきいてみればどうかと周囲にすすめられたのも動機でした。いきなり電話で面接を申し込んだように思いますが、職安に求人があったので職安を通したという

可能性もあるかと思います。いずれにせよ簡単に採用が決まり、4トン車に乗務することが決まりましたが、一月近くか比較的長い間、免許取り消し中だった先輩運転手を同乗させていました。当時はほとんどが長距離の仕事で、大型車より少し4トン車の方が多いぐらいだったと思います。

当時は運転手の出入りも多かったと記憶しています。私が初めに紹介したのが被告訴人OKNでした。彼はその年の春先ぐらいに、それまで住んでいた東京を引き払い石川県の方に戻ってきていました。細かいことは憶えていないですが、仕事をするようになったのは4月に入ってからではと思います。

一緒に仕事をするようになって一月もするかしないうちに、一緒にアパートを借りて住むことになりました。割とすぐに物件も決まり、住むようになったのが金沢市東力2丁目のアパートでした。これは現在でも私の本籍地になっているのではと思います。家賃は折半という約束だったと思いますが、

借り主の名義は私になっていました。平成4年の4月1日事件当日まだ住んでいたアパートで、次の土曜日に被告訴人OKN、被告訴人KYNが手伝ってくれると言うことで引っ越しも決まっていたアパートでした。新しいワンルームのマンションの契約で入居が出来るようになったのも4月1日当日でした。

元からいた宇出津の先輩はOKNが入社した頃やめていたか、入社してまもなくやめていました。当時の大型車の仕事は、一度出るとなかなか帰ってこないものがあったので、顔を合わせる機会というのも少なかったです。半年に一度ということもあると聞いていたように思います。

当時の大型車の仕事はいわゆるエサというものが多かったと聞いています。主に宮城県の石巻港から冷凍の小魚を満載にし、片道一週間ぐらい掛けて鹿児島や宮崎県など南九州のハマチの養殖場まで運ぶという仕事でした。私は時代が変わってから大型車に乗務するようになったのでやったことはなかったです。

後に金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKも当時は大型車の運転手でした。そして平成2年の秋頃に金沢市場輸送に現れ、策士参謀役を務めた可能性の高い七尾市の被告訴人TYNと出会い、親しくなったというのも、そのエサの運ぶ、大型フェリーの船内であったと、MTKは話していました。

宇出津の先輩ですが年は私より5つぐらい上だったと思います。それぐらい学年が離れると知らない人ばかりでしたが、名前の方は先輩たちの会話などからよく耳にしていました。その後、中西水産輸送でも一緒になりましたが、私が入ってすぐにやめていきました。

話が少し飛びますが、私が中西水産輸送に初めに入社したのは昭和59年の12月の下旬でした。年末に社長の家で忘年会があり、その席には宇出津の先輩の姿がありましたが、年が変わるとそのまま出てこなかったような気もします。先輩とはその後もたまに顔を合わすことがあり木材の運搬もやってました。

確か4月の下旬から半月か長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、午後に開かれる競りで金沢の中央市場から筍を運ぶ仕事がありました。東北の酒田と仙台、新潟県内と東京都内の行き先が多かったと思います。後には四国の缶詰工場にも運ぶことがけっこうありました。忙しい時期です。

次に6月から7月の初め頃ではなかったかと思いますが、金沢港から昼にスルメイカを運ぶ仕事が集中してありました。これも東北の酒田や仙台、東京、名古屋も多かったです。被告訴人OKNの兄、被告訴人OSNが金沢市場輸送に入社したのも、その金沢港の仕事が忙しい時期であったと思います。

かたちの上ではOSNも私の紹介ということになったいたようです。社長の夫人に感謝され、中身のことは憶えていないですが、少しお札の入った封筒のようなものをもらったような記憶も残っています。

書いているうちに思い出したのですが、被告訴人OSNが名古屋市内で街路樹に正面から激突し、4トン車を大破させたという話がありました。車体自体は廃車という話だったと思いますが、保冷車の箱の方はどうなったのかまで記憶にはありません。

当時はまだ保冷車の多い時代でしたが、その後平成ぐらいになると同じ保冷車でも冷凍機付きでないと仕事にならないような時代になっていたと思います。細かいことは記憶にないですが、車体と保冷の箱(荷台)は同じぐらいの値段だと聞いていたように思います。

会社としても相応の損害は出たものと考えるのが普通で、他の人の事故であればはるかに些細なものでも大騒ぎしていたと思うのですが、社長夫妻が何食わぬ顔の上機嫌のままで、社内でさほど話題にならなかったというのも不思議と言えば、不思議でした。OSNに危険なものを感じ刺激したくなかった、

という可能性はあると思いますし、実際に当時はそういう解釈で済ませたと記憶しています。弟の被告訴人OKNの方も、似ていると言えば似たようなことがありました。仕事外の問題になりますが、どうも職務上の災害のような扱いで、うまく処理をしてもらったように見えました。
怪我というのは地元、宇出津のあばれ祭りでのことです。現在は7月の第一、金土曜日になっていますが、当時は毎年7月7日と8日に決まっていました。私は仕事を休まず宇出津にも帰らなかったので、詳しいことは知らないのですが、キリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。
担いでいたキリコは宇出津の城野町のキリコであったとは聞いたように憶えています。彼の家の町内は、当時はまだ大橋組にいたと思うのですが、あるいはすでに音羽町の家に移っていたかもしれません。

その宇出津のあばれ祭りが終わった頃、私は一週間ほどの運行で、北海道の根室市花咲港まで行っていました。急な仕事の入り方だったような気もするので、あるいはOKNの怪我のことを知ったのも、北海道から帰ってきた後であったかもしれません。

まあ、次に合ったとき被告訴人OKNが会社にも近い、金石街道の中央市場入り口交差点付近の波多野整形外科という病院に入院していたことは間違いないと思います。今考えると、宇出津で怪我をしたのに金沢の病院まで、どうやって行ったのかという気もします。

彼が痛めたというのは腰でした。二度と立ち上がれないかもしれないと医者に言われたようなことをこの時も言っていたように憶えています。彼の場合、それがあながち嘘とは思えない事情もありました。というのも中学生の時、彼は能都中学校の古い第二体育館の天井裏で遊んでいたところ、

天井が抜けて乗っていた板ごと下に落ちたと聞いています。板に乗ったまま落ちたのが幸いしたものの腰の骨が折れ、二度と立ち上がれない可能性もあるというような話でした。まあ、入院していた病院が宇出津の持木病院だったので、それほど深刻な大怪我でもないだろうという思いもありました。

持木病院は学校の通学路のようなものでもあったので、数人の友人とよく病室に見舞いに行っていたことも憶えています。半年ぐらいの入院という話を聞いたような気もするのですが、留年もしていないですし、3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。

波多田整形外科に入院していたのは一月ぐらいではなかったかと思います。いつの間にか退院していて遊び回っていました。金沢市場輸送に復帰することもなく、自然消滅のようなかたちで会社を辞めたはずですが、さほど話題にもならなかったと記憶しています。

私は当時、黄色い色のトヨタカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、その年の春ぐらいかに60万円か70万円ぐらいで買ったものでした。ローンの組み替えをやったのでローン自体は150万円ぐらいでした。ボーナスなしの3年払いで月の支払いが5万7千円ぐらいだったような記憶もあります。

3台分の車のローンでした。長距離の仕事をしていたので車に乗る機会は少なかったです。それで頼まれて被告訴人OKNに車を貸していたのですが、ある日、事故を起こして廃車にしたので、これで許してくれと現金10万円を渡されたことがありました。

それはちょうど金沢市場輸送をやめた頃で、入社したのと同じ昭和59年の10月の中頃のことでした。ちょっとした事故処理のことで事務員ともめ、机を蹴飛ばしたことなど憶えているのですが、翌日から2,3日、出社しても社長らから無視され、そのまま行かなくなると言うやめ方でした。

はっきりいって、仕事と勤務態度の評価はすこぶる悪かったです。トラックの運転も暴走族の延長のようなつもりでやっていたということもありますが、サンダル履きで保冷車の中で魚を積む仕事をしたりしていました。まあ、それがかえって、別人のようによくなったという高評価にもつながったようです。

2度目の入社は昭和61年の8月でした。このいきさつも被告訴人YSNが絡んでいました。本来ならば9月から12月ぐらいの間、ライスセンターの仕事をするという条件で、その年の6月頃から岐阜県の海津町に行っていました。工務店の仕事で、ナマズがいるという川の草刈りも多かったです。

一種の出稼ぎですが仕切っていたのは珠洲市の当時45歳ぐらいの人でした。YSNは珠洲市の人間との付き合いもあり、その関係でライスセンターの仕事をするようになっていました。3ヶ月ほどの期間で110万円ぐらいのまとまった収入になり、その後出稼ぎ手帳で失業保険ももらえる、

という話でした。結局人数の調整がつかなくなったとかで、新参の私が外されることになったのですが、YSNは条件が違うといい、強く掛け合ってはくれていました。元々は3人で平屋の集会場のような家に住んでいたのですが、ライスセンターの仕事が近づく、他の参加者も珠洲から集まってきた頃

でした。岐阜から金沢に戻ってきたのは8月20日頃だったと思います。そのまま居座れば、ライスセンターの仕事に参加させてもらえていたのかもしれないですが、とにかく夜中に車を運転して帰ってきたことを憶えています。

それで金沢に戻って2,3日した頃に、ふと思い出して金沢市場輸送に使ってくれないかと電話を掛けたのです。岐阜に行くことになったのも120日と90日の免許停止を一度に受けたことが原因の一つでした。岐阜に行ったのは免停開けの直後だったとも思います。

たしか翌年の1月か2月まで、交通違反がなければ免許点数の15点が満額戻るという計算が大きいものでした。普通免許取得から3年でいよいよ念願の大型免許が取得できるという時期にもなっていました。

金沢市場輸送が支配配達の仕事を始めていると言うことも人伝に聞いていました。昭和60年のはずなので、今考えるとちょうど一年前ということにもなりそうですが、YSNが金沢市場輸送で市内配達を仕事をしていると、誰かの話で聞くことがあり、当時乗務していた中西水産輸送の9200の4トン車で、

午後に金沢市場輸送の会社の前に行き、トラックに乗ったままクラクションを鳴らし、2階にある事務所の窓から顔を出した人に、YSNのことを尋ねたところ、先日岐阜に仕事に行くということで、会社を辞めたばかりだと言われました。

ライスセンターの仕事というのは12月の10日過ぎまで、と聞いていたと思います。この仕事が終わると、YSNが私の東力のアパートにちょくちょく顔を出すようになっていました。なぜ金沢市場輸送に入社したのかも気になっていたので尋ねたはずですが、多くを語らず要領を得た回答はなかったと

思います。このあたりのことも引っ掛かりがありました。当時彼は、珠洲の友達が暴力団員になったという話もよくしていたと思います。フルネームは忘れましたが、呼び名と思われる下の名前は今も覚えています。先程のライスセンターの45歳ぐらいの人も上の名前は覚えています。

そのヤクザになったとか言う珠洲の友人の借り物だったと思いますが、フェアレディZという車に乗って遊びに来ることが多く、そのあとカマロというアメ車にも乗ってきていたと思います。ヤクザになってずいぶん人が変わったと感心するように繰り返し話していました。

当時は余り気にもとめずに聞いていたのですが、そのあたりの人間関係も、その後のYSNの仕事や生活に影響を与えていたことも考えられます。こまかいことは思い出せないですが、その後のYSNは片町でバーテンの仕事をするようになっていました。

なお、中西水産輸送というのは運転手の社員が所属する会社で、会社自体は配車の手配をメインとするような営業形態で、社名も中西運輸商となっていました。佐川急便の広島・九州便が主な仕事でしたが、もとは白ナンバーで冷凍物や魚を運ぶ仕事をしていました。

金沢市場輸送の社長は昔、中西運輸商の社長を助けてやったことがあるとも話していましたが、もともと話していることの真偽がとりとめもなく不明な人物でした。中西運輸商の評判は悪かったです。運転手を酷使しペナルティを含め過大の負担をかけることでも有名でしたが、噂を知った上で、

あえて飛び込んだ会社であり、鍛えられた面も強かったです。いろいろと未熟さもあったと思いますが、生死の危険も日常のようなことがっりました。仕事の少ない暇な時期もあったり、行きたいというと北海道の仕事をとって行かせてくれることもありました。

人の出入りの激しい会社でもあり、たいはんの社員は九州各地の人でした。その方が自宅に帰れる機会が多いとも言われていました。自分の場合、当時は4トン車だったので仕事の内容も大型車の人とは違っていました。4トン車は少数でした。

被告訴人との関係が最も密であったのは昭和58年のことです。同年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市観音堂の彼のアパートに居候し、食事などの面倒もほとんど彼にみてもらっていました。一日一食で、280円ぐらいの唐揚げかのり弁当、それに100円のうどんを一杯、というような

生活でもありました。実際、倒れて病院に行き、栄養失調と診断された少女もいたと聞いています。ちょっと変わった古い長屋のようなアパートでしたが、4室が、仲間同士のようなアパートでもありました。たまり場のアパートで、沢山の少年少女が出入りしていました。

当時は私も11月の誕生日前で18歳でしたが、二つ年上で12月生まれというYSNは、20歳になっていたことになりそうです。向かい合った奥の方の部屋には、同じく二つ年上の珠洲のYが住んでいました。その部屋にもよく遊びに行っていたのですが、そこによく女の子と遊びにきていたのが、

河北郡内灘町のUという男でした。年は同じでした。思えば、このUという男との出会いが、そののち被告訴人OKNの人生を方向付けたともいえるかもしれないです。偶然という要素も絡んでいたとは思いますが。

書いているうちに、10年以上ぶりにふと思い出したことがあります。Uとの再会が、いろいろな人間との出会いにつながったのですが、そのうちの一人にOYという男がいました。私は次第に距離をおくようになっていたこともあり、付き合いや会う機会も少なかったのですが、確か平成元年か2年頃、

片町を舞台にした違法薬物の摘発があり、それにOYが関与していたような話を聞いたと思います。新聞で名前を見たような記憶もありますが、10年以上忘れていたことでもあり、余りはっきりとは思い出せないです。下の方の名前も思い出しましたが、憶えやすい名前なのでたぶん間違っては

いないと思います。思い出せないのはそのOYとよく一緒にいた男でした。確か自宅が金沢市東力で、金沢市大額の方で居酒屋のような店を出したとか言う話があったり、一度はその店に行ったような気もするのですが、記憶が相当薄れています。

もしかすると日通の幹部社員の息子のような話もあったかもしれません。家がお金持ちでいい生活をしてきたような話は聞いていたと思うし、実際、そういう雰囲気の男でした。彼も年は同じだったと思います。

わりと大柄な体格でした。東力に家があるという点とその体格、多少の雰囲気の共通性で、平成4年になると被告訴人YSKと重ねて思い出すことも少なくなかったと憶えているのですが、その後今日まで長い間すっかり忘れていたので、名前の方も思い出せなくなっています。ありふれた名前だったような

気はします。日通というのも気になるキーワードになっていたような気がします。ヤクザの組長をしていたとも土建屋をやっていたとも聞く、金沢市場輸送の社長でしたが、昔、日通で働いていたこともあると聞いていたからです。日通と言えば当時日本最大の運送会社とも言われていました。

実際、昭和59年当時も日通の仕事は少なくなく、まだ新車の状態に近い日通カラーの10トン平ボディ車も2台いました。乗務員の一人はその後、中西運輸商に移り、売り上げか何かは忘れましたが、社内一の成績として表彰される姿も、同じ部屋で見ていた憶えがあります。

その後、中西運輸商をやめたあとだったと思いますが、平成元年頃でしょうか、群馬県の高崎市あたりの国道で追突事故で死んだという話も聞きました。中西運輸商から私の紹介というかたちで金沢市場輸送に来て配車係もしていたYTから聞いたように思います。

昨年になると思いますが、宇出津新港の堤防で釣りをしている人と話が弾んだところ、そのYTのことをよく知る人で、いろいろと話を聞くということもありました。その時点では、昔と同じように運送の仕事を経営者の立場でやっているような話でした。何月頃かは思い出せないですが、寒い時期では

なかったように思います。YTは同じ中西運輸商にいた頃、付き合いが多かったので、ライスセンターの仕事を終えた被告訴人YSNが遊びに来たとき、一緒になることもあり、昭和61年の12月か62年の1,2月の時点で顔見知りだったということにもなりそうです。

被告訴人YSNが一度だけ金沢西警察署に面会に来たときも、YTから被害者と付き合っていたのかと尋ねられ、「付き合っとったんじゃないか、とゆうてやった。」と押しつけがましいともとれる、口調で話していました。後で知ったことですが新聞には「半年前から交際」となっていたので、

やむなくそう答えたという可能性もあるのかもしれないですが・・・。YTの話を持ち出してきたのは被告訴人YSNの方でした。余り親しくないという口ぶりでしたが、どちらも社交的だったので、より深い付き合いというのもあるいはあったのかもしれないと考えることはありました。

そういえば半ば独立したかたちで運送の仕事をしていると聞いていたYTの仕事を手伝っていたのも被告訴人YSKでした。YSKの私に対する接近自体が仕組まれたものであった可能性が高く、供述調書には事実のすり替えのような明白な虚偽も含まれていました。

被告訴人YSKはYKに頼まれて、臨時で仕事を手伝っていると話していましたが、今考え直すと、正式な社員か運転手というかたちでYKのトラックに乗っていたのかもしれません。自分には珍しい日産ディーゼルの新型車に乗務していたこともあり、中央市場の青果売り場あたりを少し運転させて

もらったこともありました。しかし再びよく考えると、被告訴人YSKのメインの仕事は持ち込みダンプでのイワシの運搬であったとも考えられます。そういえばYSNが払い下げで購入したようなことを話していたポンコツのダンプは、元は日通カラーだったような気もしてきました。

ダンプと言っても土砂積み禁止の特殊なダンプで、大型車にしては小型にも見えるダンプでした。そういえば私が市場急配センターに移ってからしばらくの間は、駐車場でそのダンプを見かけていたのですが、どこへ持って行ったのか、その後ダンプの姿を見かけることはなかったように思います。

この被告訴人YSKも被告訴人OKNと接点がありました。本来は能都と金沢で地元も違い、年も6つ離れていたので、考えにくい接点でもありましたが、どうもよく理解できないかたちで、それらしい話を聞いていました。余り関心もなく、聞き流していたので、把握できずにいた点というのも

あるかもしれません。その前に時間を戻したところから説明をしておきたいと思います。遊びまわっていた被告訴人OKNが、確か250ccのバイクにまたがり、大阪へ行くと旅立っていったのは、昭和60年の11月ぐらいだったように思います。

東力のアパートの前で、私と一緒にいた結婚する前の前妻に旅立ちの挨拶をして走り去っていきました。いささか哀愁と決意を感じさせるような旅立ちが印象的な場面でもありました。

彼が大阪に向かった一番の目的は、二つ年下の彼女が高校を卒業して大阪に働きに出たのを追いかけるものではなかったかと考えられます。私の同級生は昭和58年に高校を卒業しているので、やはり昭和60年の卒業と言うことになりそうです。4月を就職の時期と考えると、彼が大阪にむかったのは、

もっと早い秋口のような時期だったのかもしれないのですが、私のなかには木枯らしが吹く、晩秋、あるいは12月頃ではなかったかというイメージが残っていました。そのほかの友人関係の状況をあわせると、やはり冬が近づく時期になっていたという気もします。

もう少し時代を巻き戻して思い出しながら事実を追いたいと思います。昭和59年の夏の前後であったぐらいにしか特定できないのですが、観音堂の珠洲のYHの部屋でちょくちょく顔を合わせていたUが、西念町の古いアパートに住んでいると知って、遊びに行くようになりました。

珠洲のYHもその近くのアパートではないですが、ちょっとしたビルの3階あたりに住んでいて、そこにもちょこちょこ遊びに行くことがあったのですが、Uとの出会いは別であったように思います。少なくともUのアパートでYHの姿を見ることも、YHの部屋でUの姿をみることもなかったと思います。

初めは私が被告訴人OKNを一緒にUのアパートに連れて行くという感じだったと思います。まもなくそこで羽咋郡富来町出身のOTと金沢生まれで三重県育ちだったようなHMと知り合い、全員が同じ年でもあったのですが、またたくまに親密な間柄になりました。

西念町は金沢中央市場と同じ住所でもあったと思いますが、わりあい広い範囲で、Uのアパートもそう近い距離ではありませんでした。OTは広岡町のしゃれたワンルームマンションで年下の少女と同棲していました。HMも北安江のマンションで少し年下の女と同棲していました。

三人とも仕事はしていなかったと思います。OTは一度、金沢市場輸送で仕事をしたのですが、一回か二回の運行ですぐにやめていました。私は長距離の仕事をしている時間が長かったので、一緒にいる時間も少なかったのですが、彼らは四六時中に近いぐらい一緒に遊び回っていたようです。

Uは個人的に深刻な問題を抱えていたので暗い感じがありましたが、それでも女遊びは人一倍やっていたようです。すごい数の女の子の電話番号を書いた分厚いメモ帳のようなものも持っていました。私はその後、Uと会う機会も少なかったと思います。

プライバシーの問題もあるので詳細はさけないですが、Uは少年時代に大きな交通事故を起こし、多額の賠償金を背負っていると聞いていました。内灘の家も一度遊びに行ったことがありましたが、賠償のため手放し、あの西念町の古いアパートの住むようになったと聞いていました。
Uと最後に会ったのは平成9年の8月か9月のことでした。怪我をしていて野々市の赤十字病院に入院していたところを、HMと一緒に見舞いにいった時のことです。その後もちらほら近況を伝え聞くことがあったのですが、小さな自動車修理工場を経営し、何かのレースに出場することもある、

という話を聞きました。今考え直すと、OYが片町で薬物事件で逮捕されたというのは、あるいはこの平成9年頃のことであったのかもしれません。しかしそうなると当時の年齢が30歳を超えていることになるはずなので、そのあたりも記憶にはそぐわないのです。

OYの薬物事件とは別になると思うのですが、平成2年頃も、なんどか新聞で片町の薬物事件が大きく報道されることがありました。その主犯格で片町でずいぶん有名だったという人物とは、福井刑務所の工場で同じ班になり、その人物が班長でした。これも偶然ではないと思います。

いまでもフルネームを憶えていますが、ここで書けるはずもありません。まもなく班長と娑婆で親しい関係であったという金沢の元暴力団員YKが同じ班に入ってきました。二人が一緒だった時期はそんなに長くはなかったと思います。まもなく班長のTKが仮釈放で出て行くと、次にYKが班長になりました。

TKとOYは、ともに金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKのことをよく知っているような口ぶりで話していましたが、あまり具体的な話は教えてくれなかったように思います。どちらも裏の世界で相当長い間、キャリアを積んだ人間という感じでもありました。

どちらか、あるいはどちらもであったかは忘れましたが、同じ片町でバーテンをしていた被告訴人YSNの名前は知らないかと尋ねたところ、すぐに知らないという返事が返り、本当は知っていそうだな、という印象は受けていました。

賞味期限の分からなくなった残り物の白菜の漬け物を食べていたら、ふと閃くようにおもいだしたのですが、下の名前は「かつとし」だったと思います。プライバシーに配慮して、このあたりにとどめておきます。

もうひとつより重要度が高いかもしれないと考え直すことがあったので先に書いておきます。それは平成11年の2月頃のことです。被告訴人OKNが住宅のリフォームや建て売り住宅のセールスを口実に、積極的な罠を仕掛けてきた時期でした。

ある日、なにかを理由に金沢市役所につれていかれることがありました。なにかの調査のような話であったような気もするのですが、現在ははっきり思い出せなくなっています。かなり詳しく説明を受けましたが、必要性も理解しがたいもので意図がつかみにくいものでした。

そういう疑問はその時が初めてではなく慣れていた部分もあったので、当時はそれほど深く考えることもなかったと思います。とにかく、かなり長い時間、金沢市役所のなかで、被告訴人OKNと一緒にいました。市役所は金沢市の中心部、片町や香林坊の近くでもあります。

なにかくどいぐらいの説明を受けていましたが、とにかく、以前、2トン車の持ち込む運転手として仕事をしていたこともある宇出津の川か河の字を含むK、と落ち合うことになっていきました。当時は既に携帯電話を使っていた思うのですが、直前の電話連絡で、駐車場のことを話していました。

つまりKの車が外車の大型車で大きすぎて駐車できる場所がないという話でした。アメリカ車ではなくヨーロッパ車で、ベンツではなくBMWという話だったような気がするのですが、BMWというのはそんなに大きな車だったのかという疑問も少しよぎりました。

Kに特段の疑いの目を向けるのが私の目的ではなく、むしろそのような目を私に向けさせ、知られなくないあるいは気づかれたくない事実を守りたいというのが、彼の真の目的であった可能性もあるとは考えています。それでなくても挙動不審でしたから。

被告訴人は中央公園の横の県庁の敷地に大きな車を駐車できる場所があるという説明をしていたと思います。たぶん県庁は元の県庁の跡地で、それほど離れていない近年に現在の金沢市鞍月あたりの新庁舎に移転していたと思います。

書いているうちに思い出したのですが、Kの用事は中小企業向けの融資の相談のような話であったと思います。かなり心配そうな顔をしていました。私のことはよく知っているはずと思っていましたが、まるで眼中にない様子でした。もともと性格的に真意や表情の読み取りにくいタイプにも思えていました。

なお、その時、被告訴人OKNが乗っていた車も古いものでしたがスウェーデンのボルボという外車だったと思います。特別大きいと感じる車ではなかったと思いますが、一般の国産車よりは大型であったと思います。その車は金沢市役所の中の駐車場に普通に駐車していたように思います。

黒い色のボルボだったと思います。かなり長い間乗務していたと思います。平成9年の7月から平成11年の春頃までの間、彼が他の車を自分の車として乗車していたというのは思い出せないです。なにか国産車に乗っていたような気もするのですが。

昭和62年か63年か記憶上いまのところ特定できないのですが、彼が当時住んでいた神戸市内で会ったときは、フランス製のシトロエンとかいう珍しい車に乗っていました。お盆休みに宇出津に帰省したときもその車に乗っていたような気もします。

私は金沢市場輸送で昭和62年の4月から昭和63年の12月の20日頃まで、イスズ自動車の「石7599」というナンバーの10トン保冷車に乗務していました。大型車です。その翌年辺りからナンバーが「石」から「石川」に変更されたことも憶えています。

当時は新車に乗務するまで長ければ入社して10年掛かるとも言われていました。古参の運転手から優先的に新車が与えられるからです。年功序列言うのも昭和の時代の世の習いでした。バブル景気に突入するちょっと前であったかもしれません。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月28日


被告訴人OKNとは小学校時代からの友人のひとりでしたが、小学校低学年あるいは幼稚園の頃から中学生の頃の関係は、一時的にしばらくの間つきあいが続いたという感じでした。他に色々友達がいたのと部活で忙しい時期もあったので、いわば気まぐれな関係で特に親しいわけでもなかったです。

それでも中学生の頃は、何度か泊まりがけで彼の家で一緒に徹夜の勉強をしたり、グループみたいな多数でしょうちゅう彼の家に遊びに行くことも多かったです。彼の家はだいぶん前に取り壊しになっていますが、当時の面影というものも現在はほとんどなくなっていると感じます。

初めに共同生活も多いいわば身内のような関係になったのは彼の兄の被告訴人OSNの方でした。昭和56年の6月頃からのことです。そういう関係は昭和58年の夏頃ぐらいまで続きましたが、暴力団を巻き込んだトラブルのようなこともあり、疎遠にはならなかったものの会うことは減っていきました。

同じ暴走族でリーダー格だった被告訴人OSNがほとんど断りもなしに暴力団員との関係を結んだのが離散の原因だったのですが、当時私は金沢市の浅野本町に住んでいたこともあり、知らないこと知らされていないことも多かったと思います。浅野本町にいたのも短い期間でした。

印象的に憶えているのはその浅野本町のアパートで就寝中に起こされたところ、部屋一杯に特攻服の少年が集まっていたことです。そこで被告訴人OSNから、特攻服を持っているかといわれ、ここにはないと答えると、そのまま踵を返して帰って行きました。声を発したのも彼一人だったと思います。

起きてからも夜中の出来事が夢か現か確信が持てませんでした。少し前まで彼も金沢市内の自動車修理工場に住み込みで働いていたのですが、それをやめ、宇出津の家の自動車修理工場の仕事を手伝っていた頃です。どちらも規模は小さかったですが、彼ら兄弟の家は自動車修理工場とプロパンガスの販売

をやっていました。昼休みの時か、仕事をしているはずの被告訴人OSNのところに電話を掛けたところ、夜中のことは本当のことで金沢刑務所でヤクザの出所祝いに参列してきたと聞きました。

今思えば、この夜中のことが原因だったのかもしれないですが、アパートから徒歩1分もなかったような近場の、勤める小さな自動車修理工場の主人から暴走族をやめるか工場をやめるか決断を迫られ、工場をやめてアパートを引き払い、宇出津に戻ることになったのです。

浅野本町から宇出津に戻ったのは昭和57年の4月頃だったと思いますが、あるいはまだ3月中だったのかもしれません。私は一度も出所祝いに行ったことはなかったのですが仲間の話では3,4回あったような話も聞いたように憶えています。かなり短期間に集中したような話でしたが記憶に自信はないです。

もともと暴力団やヤクザに対しては拒絶性の高い地域性でもありました。被告訴人OSNの同級生で兄弟分ともいう関係の被告訴人HTNも金沢市で暴力団組員であった時期、一度も地元には帰られなかったとも聞いていました。

被告訴人HTNは同じ高校の一つ先輩でもありましたが、2年生に進学してまもなく退学処分となり、すぐに金沢市に出てガソリンスタンドの店員として働いたものの、まもなくある問題で暴力団員になったと聞いていました。

被告訴人は学業に専念していて退学は実に不本意なものであったと聞いています。同じく暴力団組員になったのも不本意な成り行きであったと聞いていますが、プライバシーの問題でもあるので、ここでは書かないです。事実関係で必要な範囲最低限のことを書いています。

被告訴人HTNが退学になったのは昭和55年の5月か6月だと思います。春の遠足が赤崎海岸であり、それが退学の原因にもなりました。被告訴人KYNは私の同級生で当時クラスメートでしたが、彼も同じ問題で停学処分を受けていたと思います。処分者は25人ぐらいいたようにも聞いた憶えがあります。

はっきりしたことは分かりませんが被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年の夏から秋頃ではと思います。当時未成年者でしたが、何か組の若頭のような立場になったようなこととも聞き、その界隈で相当の顔役になっているような話も聞きましたが、直接会うことは少なかったです。

昭和56年の秋、金沢市入江のアパートに被告訴人HTNが姿を見せたことは憶えているのですが、たまたまその場に被告訴人YSNがいたような気もするのですがこれは現在記憶がはっきりしなくなっています。女友達が鍵を預かっているという服役中の暴力団員のアパートと聞いた憶えがあります。

被告訴人YSNは私より二つ年上でした。彼も同じ能都町(現在の能登町の一部)でしたが鵜川という地区で中学校も違っていました。石川県立水産高校の漁業科で卒業しているはずです。水産高校は宇出津にありますが現在は能登高校になっています。

被告訴人OSNも水産高校に入学しましたがすぐに中退したと聞いています。当時のOSNの家は大きなたまり場になっていましたが、OSNも出入りしていたと聞いています。O兄弟の家は旅館のような大きな家で、私より二つ年下の妹もリーダー的な存在で、人の出入りがとても多い24時間営業の

旅館のような家で、とても開放的でもありました。中学時代の被告訴人OKNは、学業と極真空手に専念し兄に反発、軽蔑するような一面が強くありました。趣味と方向性を同じくするようになったのは昭和56年の夏頃かと思います。元はといえば余り仲の良い兄弟ではなく、

すぐにうち解けた訳でもなかったかと思います。昭和56年の8月28日の早朝、シンナーの吸引とかで金沢中警察署に補導されたのですが、前夜にたまたま遊びに来ていたOKNは当時、金沢高校の学生で、この補導の件で退学処分になったと聞きます。男女13人の補導で新聞にも大きく出ていました。

13人中、私とOSNを含めた少年4人と少女1人が、金沢中警察署で取り調べを受けた後、家庭裁判所に連れて行かれ、そのまま小立野の金沢少年鑑別所に入りました。私が試験観察の処分を受け鑑別所を出たのは9月の23日ぐらいではと思います。26日か28日いたはずですが、長く感じられました。

試験観察にはなりましたが割と早く3ヶ月か長くて半年ぐらいで不処分となり保護観察を受けることはなかったです。OKNの方は保護観察がかなり長い間続いていたような憶えがあり、19歳の頃まで続いていたような気もするのですが、これも記憶がややあいまいになっています。補導時は16歳でした。

その試験観察中、家裁の調査官に会うため七尾市の家裁に行ったとき、待合室でYSNと会うことがありました。その時すいぶんと不健康そうな様子に見えたのですが、それからまもなくシンナーを吸引中発狂して金沢の精神病院に入院したと聞きました。

YSNはその後も精神病院に入ったことが原因で、かっての仲間内から疎遠にされるようになり、孤独を感じている様子にも見えました。単に精神病院に入っただけではなく、いきなり他人の家に駆け込んで就寝中の婦人の首を締め上げたという、話も大きく、周囲に危機感を与えていたのかもしれません。

首を絞められたという婦人の夫は、仲間内の離散にもなった暴力団員の舎弟と聞く人物でした。会った機会もあったので顔はよく覚えていたのですが、当時金沢市西念町にあった金沢市場輸送の社長室から出てくる姿を見たことがありました。昭和61年の秋だったような気もするのですが、

現在時期ははっきり思い出せないです。暴力団員の舎弟というあいまいな表現になりましたが、同じ正式な組員であると聞いていました。なお、出所祝い用に支給されたと聞く特攻服には「福島組」という当時石川県内最大勢力とも言われた組の名前の刺繍がありました。自分は支給を受けていないです。

関係者のプライバシーのこともありここでは細かく書かないですが、YSNが飛び込んだ家で婦人の首を絞めた件と、OSNの間には別の接点もありました。大怪我をしたような話は聞いていないです。飛び出した後、「カラスが鳴いている」などと口走ったか叫んだとは聞きましたが、真偽の程は不明です。

昭和57年の1月頃かと思いますが、同級生の友達と3人で、金沢市小立野の精神病院にYSNの面会に行ったこともありました。一人が弟だと嘘を言ったのですが閉鎖病棟に簡単に入れてくれました。YSNは正常だと訴えていましたが、言動には異常性が感じられ、独房でお仕置きを受けることもあるなど、

不遇というか不満を訴えていました。彼との長いつきあいで、言動に異常性を感じたのはその時ぐらいで、さほどの問題もなく社会生活を送っていたようです。時にやることが大胆でどうかと思うことはあり、車の運転に同乗していて身の危険を感じたこともありました。

彼が初めに精神病院に入院したのは昭和56年の12月ではないかと推定されます。その少し前、珠洲市飯田のシーサイドの通りの急カーブで自分の所有するブルーバード510を横転させ、横転直後の静寂を破り、突如、「ギンギラギンにさりげなく、それが俺の生き方」などと当時の流行歌を歌い出した、

とも聞いています。恐怖体験のように同乗していたという一つ年上の女の人から聞きました。OSNとも関係性の強い女の人です。夫妻そろってOSNとは強い結びつきがあり、自分も親しくしていて、金沢でもアパートに遊びにいくことがありました。

彼女にはとても親しい同級生の女の人がいて、いつも一緒にいることが多かったです。当時は未成年者の少女で年も一つだけ年上でしたが、姉御肌のような一面もあり、ずいぶんしっかりした大人の人というイメージが残っています。

二人の女性に最後に会ったのは平成3年の12月21日の夜でした。被告訴人HTNに連れて行かれた金沢市の繁華街、片町のスナックのような飲み屋でした。片町に来て、最初に入ったのがその店だったような気もするのですが、現在細かいことは思い出せなくなっています。

その夜、HTNに連れられて4軒の店に行ったと思います。一つは旧大和デパートの裏側辺りの場所で、屋台が集まるような場所になっていました。観光都市の金沢は屋台が禁止になっているとも聞いていたのですが、博多の中洲を思い起こすような雰囲気もあり、屋台と言うよりは建物がしっかり固定

されている感じで仮設の店舗という感じでした。順番としてはその屋台のような店が2軒目で、3軒目が同じスクランブル交差点より内側の一角で余り大きくないビルの上の方にあるスナックのような店でした。ここには事前に連絡を受けていた被告訴人OSNも姿を見せたと思います。もう一人同伴者の人

がいたような気がします。同じ宇出津の5,6歳以上年の離れた人で名前はよく聞く知られた人でした。以前別の先輩の車で軟禁状態に巻き込まれた記憶もある人物と記憶していますが、その時とは別人のような雰囲気で、おとなしくお酒を楽しんでいるという感じだったと思います。
かなり年の離れた人で6歳ぐらいは年上だったと思いますが、今思えば宇出津のKという人物と年も同じぐらいで、つきあいがあったのかもしれません。宇出津のKという人は今でも名前を覚えていますが、感じの一部が河なのか川なのかは不明のままです。一見するとおとなしい人物ではありました。

しかし被告訴人OKNと同じく上昇志向が人一倍強い商売人タイプの人でもあったようです。これは被告訴人HTNにも通じるところがあり、気の合うところであったと思います。被告訴人OSNも金銭欲は強い方だったと思いますが、義理人情を大事にこだわるようなところも強かったと思います。

はじめに宇出津のKの話を聞くようになったのは昭和63年の春か夏頃かと思います。この辺りは今一度記憶の整理が必要なのですが、とりあえずそういう時期の設定にしておきます。能都町姫のNという先輩と二人で、魚の行商のようなことをやっているとOKNが私に話していました。宇出津のKという

人物は私としては全く心当たりのない人物だったのですが、なにか知っていることを仮の前提にしたというか当たりを窺うような調子で話をしているようにも見えたのが少し印象に残っていました。突っ込んだ言い方をすれば、探りを入れて反応を窺っているような不自然さもなくはなかったのです。

姫のNはよく知る人物でした。直接の友人という関係ではなかったですが、共通の友人が多く、一緒に遊び、行動する機会が多かったからです。それだけ彼が遊び回り車を乗り回していたということもあるのですが、スカイラインのジャパンにはよく同乗させてもらっていました。

姫のNは、昭和56年12月頃と思われる頃、YSNがシンナー遊びで発狂したとき一緒にいたと聞く全部で4人のうちの一人であるとも聞いていたように思います。なお、YSNは松波駅付近で保護され、後日本人から聞いた話だと一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたそうです。