2013年9月23日月曜日

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 9月1日


山中温泉に行ったのは5月の下旬であった可能性が高いです。この時点で金沢市場輸送の事務所がまだ西念町にあったということもはっきりしています。昭和59年の入社当時から事務所とは別に、会社の駐車場というのは中央市場から割と離れた場所にありました。住所は金沢市二口町です。

移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場 http://bit.ly/1e2TbVl のGoogleマップの地図で「移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場」とラベルをつけた場所が、移転後の金沢市場輸送の事務所の場所です。ここでURLは短縮に変換しました。

事務所は7月頃の移転だったと思います。平屋の住宅のような事務所でした。金石街道沿いの「オークラ」というパチンコ店の裏側の駐車場にも隣接していました。もともとあった田んぼの中の砂利の駐車場とも重なる敷地であったと思いますが、ずれた部分が大きい気もします。区画整理になっていました。

昔は丸北青果の間の道にはいると左手の方に駐車場があり、たんぼ道の交差点を右に曲がるとすぐに小林運送がありました。この小林運送は青果物の仕事をメインにしていました。私は昭和58年の2月から4月頃まで2ヶ月ほどの間でしたが、小林運送で長距離助手で働いたことがありました。

当時、金沢市の職安は金沢駅に近い芳斉にありました。職安に行くたびに、求人が出ていたので、ちょっと気が向いて面接に行ったところ採用されたのです。住み込みでしたが、古い個人病院の建物で部屋のベッドも病院にあるのと同じに見えたので、本当に元は病院の建物だったのかもしれないです。

平成3年の12月頃からは、市場急配センターで小林運送の仕事をよくやるようになっていました。私は他の運転手が嫌がる仕事を割り当てられることが多かったので、2,3回ぐらいしかやらなかったのですが、豊橋方面から野菜を積んでくる仕事でした。

金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した時期は、割としっかり憶えているのですが、年が昭和62年であったと思うものの、80パーセントぐらいの自信しか持てず、あるいは昭和63年になります。大型車に乗務するようになってから砂利の駐車場に止めていた記憶は少ないので、62年の可能性が高い

とは考えているのですが、今の記憶の状態では決め手がないところです。これは大事なことなのですが、移転してから一月ぐらいで、宇出津の河か川の字のつくK、と姫のNの姿を揃って見るようになったのです。被告訴人OKNから魚の行商をしていると聞いてから3ヶ月も経っていなかったように

思います。けっこう古い感じの2トンのトラックに乗っていました。そのトラックは個人所有のもので、市内配達を請け負っていると聞きました。こういうトラックの所有で仕事を請け負う形態を、「持ち込み」と呼んでいました。市内配達の持ち込みは、この二人が初めてだったと思います。

自分の記憶ではその半月後ぐらいに、初めて後に市場急配センターの社長となるMHKの姿を金沢市場輸送の事務所でみたのです。すぐに市内配達の新しい責任者であるように聞きました。この立場はけっこう長い間、不在でもあったのです。

昭和61年の8月、私が市内配達の仕事をするようになった頃は、高田という人物が現場で采配をする責任者のような立場でした。イメージ的には呉服店の番頭というような感じの人物でした。青果の配送の現場にもよく姿を見せていて、よく竹箒をもって売り場の中の掃除もしていました。

いわくつきの過去を持つような噂も小耳にしていたような気がしますが、内容は憶えていないです。はっきりしていることは何か問題を起こし、姿をくらましたということでした。ある日、西念町の旧事務所に、制服を着た右翼団体の若者が5,6人程か入ってきて、高田の所在を尋ねていたことがありました。

その時、配車係の椅子に座って受け答えしていたのが、後に金沢市場輸送の社長となる被告訴人MTKだったのも憶えています。あとで誰かが富山の右翼だと行っていましたが、口上を述べていた若者が威圧的ではなく、かなり気を遣って緊張しているようにも見えたことが印象的でした。

その時の被告訴人MTKの態度も堂々としていて慣れているとも感じたのですが、彼も富山とは縁の深いという人物でした。福井刑務所では富山で暴力団員をしていたという話も聞きましたが、余り具体性も感じられず、実際のことはわかりません。

福井刑務所では被告訴人TSKについて、高岡の大日本平和会だと即答を得たこともありました。山口組との抗争で全国的に名をはせた有名な団体だったと思いますが、富山県の高岡市に支部があるとか、そういう話は聞いたことがなく、新聞でも見なかったと思います。

私が被告訴人TSKの口から直接聞いた話では、東京にいた頃、「大日本青思会(大日本青年思想研究会)」に所属していたという話でした。これは平成2年か3年に聞いた話だと思います。それ以前は、東京の中央大学で空手部にいたということを、しきりに口にしていたという記憶があります。

被告訴人MTKは昭和59年当時、大型運転手でしたが、それも最古参の運転手という話でした。それでも7年目ぐらいだったと思います。1年ごとに給料の基本給が1万円ずつあがるというのも、当時の金沢市場輸送の特徴でした。

被告訴人MTKは金沢市に生まれ育ったものの十代の後半であったか早い時期に富山市に行き、そこで生活するようになり、数年のうちに繁華街で飲み屋を数点経営する社長になっていたと話していました。20代の後半という話であったようにも思います。カラオケというものを初めて導入したのも

自分のアイデアだといい自慢していました。結局、天狗になりすぎたということで、飲み屋の仕事はうまくいかなくなったと言いましたが、次に閃いたのはサラ金の経営で、これも時代を先取りしたアイデアだったと自慢していました。

人口等の諸条件を考えた上で、サラ金を始める場所を静岡市に選び、静岡に行ったと話していました。そして大きなものを相手に何か大きなことを仕掛けたらしく、詐欺で指名手配されるようになり、金沢市に流れてきて金沢市場輸送で長距離運転手をするようになったと話していました。

金沢に来て1年ぐらいという話だったでしょうか、警察に突き止められて逮捕され、刑務所に服役したという話でした。服役期間は1年か1年半というものだったので、ずいぶん短いという印象も受けました。そして当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが身元引受人となり、出所の向かいにも

来てくれたと話していました。静岡では家族で御殿のような家に住んでいたとも話していました。そういう昔話を詳しく聞いたのは昭和61年の12月頃のことでした。場所は北安江の焼き肉屋でした。平成元年の1月頃かに松波港で自殺した珠洲のTさんと3人でした。

Tさんは被告訴人YSNと水産高校の同級生でクラスメートでもあったはずかと思います。高校卒業後すぐに金沢市場輸送に入社したとも聞いていました。YSNも同じく卒業後は、中央市場のウロコ水産で半年ぐらい仕事をしていたとも聞いていました。

Tさんの自殺についてはプライバシーの問題もあるので、その他の接点など控えたいと思いますが、平成6年の1月頃か金沢地方検察庁の検事室で加藤検事が強い反応を見せたこともあったので、注視されてきたのではとは考えています。億の保険金の話は平成13年頃に金沢刑務所で聞いた話でした。

保険金にまつわる話は、他に耳にしたことが一切なかったので、真偽の程も不明ですが、一億円よりは大きな額で、2億円という額ではなかったと記憶しています。1億数千万の可能性が高いかと思いますが、以前掛け金についてネットで調べたことがあり、ずいぶんな金額だとは思いました。

その自殺は新聞で知ったのが最初かと思います。周囲から聞いた話では、松波港の岸壁の駐車場で、買ったばかりの赤い色の軽四を、3回転ほどぐるぐるさせてから、海に飛び込んだという話でした。目撃者がいたとは考えにくい場所とも想像し、新聞にそれらしい報道もなかったようには思いました。

被告訴人OSNは、このときずいぶんと嘆き悲しんでいたようですが、事実上の箝口令というか、まったく話題に出来ないような場の雰囲気も醸し出していたと記憶しています。能登の地元の友人、知人の間からは、ほとんど情報を受けることもなかったように思います。

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