2013年9月23日月曜日

被告発人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告発人OKNとの関係 2013年9月5日


時期がはっきりと思い出せないのですが、平成11年の春頃ではなかったかと思います。金沢市北安江のアルプラザ平和堂の大通りを挟んで向かい側の大通り沿いにソバ屋だと思います。それこで被告発人OKNに食事をおごってもらいました。何か用件があってその店に入ったような気もしますが、

現在細かいことは思い出せないです。重要なのは食事を終えて店を出た直後のことでした。時刻はすっかり夜で20時ぐらいではなかったかと思います。何かの会話の流れから、私はやや強引に、金沢市場輸送の社長であった被告発人TSKのことを憶えているかと、OKNに問いかけました。

すると彼はそくざに、ややあわてたような感じで、まるっきり知らないと否定しました。わざとらしく否定してこちらの反応を窺ったようにも思えなくはなかったですが、強く否定して会話はその先に進みませんでした。わざとらしいという問題だけでなく、本来は知らないはずがないという事実です。

そういえば市場急配センターの被告発人MHKが、被告発人OKNについて「いい男やな」と言っていたこともありました。時期がはっきりしないのですが、平成9年の春のことであったかもしれません。

被告発人OKNの方から、被告発人MHKについて「お客の引っ越しのためトラックを借りに行くこともある」と話したこともありました。探りを入れるような感じでもありました。これも平成9年の春頃だったように思うのですが、あるいは別の時期であったのかもしれません。

アルプラザの近くのソバ屋のことですが、いかにもサラリーマンが利用するような店でした。その時店に入ってのは初めてではなかったような気もするのですが、目立つ場所にもありそこに店があることはよく知っていました。隣沿いのすぐ近くに昔からやっている24時間の酒屋がありました。

まだコンビニという呼び名が世の中に出ていない頃だったようにも思います。昭和59年にはすでにあったように思います。サークルKとかが出てくる前だったと思いますが、店の内容は酒類がメインであるものの、ほぼコンビニのような品揃えになっていたと思います。昔はその店ぐらいしか

金沢市内で深夜に酒類の買える店はなかったように思います。うどんをメインにした弁当のチェーン店八幡のすしべん、には缶ビール程度はおいてあったような気もしますが。なお、ソバ屋もその24時間の酒店も住所は金沢市諸江だと思われます。北安江との境にもなっていると思いますが。

北安江というのは金沢駅の裏側、駅西とも呼ばれていますが、その東金沢側に位置する町内です。8号線バイパスの方向だと西念町にも隣接していると思います。中央市場自体も西念町ではないかと思いますが、その正門前の道路沿いにある前の金沢市場輸送の事務所の住所は西念町でした。

さらにいえば「金沢市西念町リの1」という番地だったような記憶も残っています。西念町というのはかなり広く、その外れの方に、「飛鳥(ひちょう)」という食堂がありました。すぐ近くには双葉湯という銭湯もありました。昭和59年当時のそのあたりは、田んぼや空き地も多かったと記憶しています。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 9月1日


山中温泉に行ったのは5月の下旬であった可能性が高いです。この時点で金沢市場輸送の事務所がまだ西念町にあったということもはっきりしています。昭和59年の入社当時から事務所とは別に、会社の駐車場というのは中央市場から割と離れた場所にありました。住所は金沢市二口町です。

移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場 http://bit.ly/1e2TbVl のGoogleマップの地図で「移転後の金沢市場輸送の事務所と駐車場」とラベルをつけた場所が、移転後の金沢市場輸送の事務所の場所です。ここでURLは短縮に変換しました。

事務所は7月頃の移転だったと思います。平屋の住宅のような事務所でした。金石街道沿いの「オークラ」というパチンコ店の裏側の駐車場にも隣接していました。もともとあった田んぼの中の砂利の駐車場とも重なる敷地であったと思いますが、ずれた部分が大きい気もします。区画整理になっていました。

昔は丸北青果の間の道にはいると左手の方に駐車場があり、たんぼ道の交差点を右に曲がるとすぐに小林運送がありました。この小林運送は青果物の仕事をメインにしていました。私は昭和58年の2月から4月頃まで2ヶ月ほどの間でしたが、小林運送で長距離助手で働いたことがありました。

当時、金沢市の職安は金沢駅に近い芳斉にありました。職安に行くたびに、求人が出ていたので、ちょっと気が向いて面接に行ったところ採用されたのです。住み込みでしたが、古い個人病院の建物で部屋のベッドも病院にあるのと同じに見えたので、本当に元は病院の建物だったのかもしれないです。

平成3年の12月頃からは、市場急配センターで小林運送の仕事をよくやるようになっていました。私は他の運転手が嫌がる仕事を割り当てられることが多かったので、2,3回ぐらいしかやらなかったのですが、豊橋方面から野菜を積んでくる仕事でした。

金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した時期は、割としっかり憶えているのですが、年が昭和62年であったと思うものの、80パーセントぐらいの自信しか持てず、あるいは昭和63年になります。大型車に乗務するようになってから砂利の駐車場に止めていた記憶は少ないので、62年の可能性が高い

とは考えているのですが、今の記憶の状態では決め手がないところです。これは大事なことなのですが、移転してから一月ぐらいで、宇出津の河か川の字のつくK、と姫のNの姿を揃って見るようになったのです。被告訴人OKNから魚の行商をしていると聞いてから3ヶ月も経っていなかったように

思います。けっこう古い感じの2トンのトラックに乗っていました。そのトラックは個人所有のもので、市内配達を請け負っていると聞きました。こういうトラックの所有で仕事を請け負う形態を、「持ち込み」と呼んでいました。市内配達の持ち込みは、この二人が初めてだったと思います。

自分の記憶ではその半月後ぐらいに、初めて後に市場急配センターの社長となるMHKの姿を金沢市場輸送の事務所でみたのです。すぐに市内配達の新しい責任者であるように聞きました。この立場はけっこう長い間、不在でもあったのです。

昭和61年の8月、私が市内配達の仕事をするようになった頃は、高田という人物が現場で采配をする責任者のような立場でした。イメージ的には呉服店の番頭というような感じの人物でした。青果の配送の現場にもよく姿を見せていて、よく竹箒をもって売り場の中の掃除もしていました。

いわくつきの過去を持つような噂も小耳にしていたような気がしますが、内容は憶えていないです。はっきりしていることは何か問題を起こし、姿をくらましたということでした。ある日、西念町の旧事務所に、制服を着た右翼団体の若者が5,6人程か入ってきて、高田の所在を尋ねていたことがありました。

その時、配車係の椅子に座って受け答えしていたのが、後に金沢市場輸送の社長となる被告訴人MTKだったのも憶えています。あとで誰かが富山の右翼だと行っていましたが、口上を述べていた若者が威圧的ではなく、かなり気を遣って緊張しているようにも見えたことが印象的でした。

その時の被告訴人MTKの態度も堂々としていて慣れているとも感じたのですが、彼も富山とは縁の深いという人物でした。福井刑務所では富山で暴力団員をしていたという話も聞きましたが、余り具体性も感じられず、実際のことはわかりません。

福井刑務所では被告訴人TSKについて、高岡の大日本平和会だと即答を得たこともありました。山口組との抗争で全国的に名をはせた有名な団体だったと思いますが、富山県の高岡市に支部があるとか、そういう話は聞いたことがなく、新聞でも見なかったと思います。

私が被告訴人TSKの口から直接聞いた話では、東京にいた頃、「大日本青思会(大日本青年思想研究会)」に所属していたという話でした。これは平成2年か3年に聞いた話だと思います。それ以前は、東京の中央大学で空手部にいたということを、しきりに口にしていたという記憶があります。

被告訴人MTKは昭和59年当時、大型運転手でしたが、それも最古参の運転手という話でした。それでも7年目ぐらいだったと思います。1年ごとに給料の基本給が1万円ずつあがるというのも、当時の金沢市場輸送の特徴でした。

被告訴人MTKは金沢市に生まれ育ったものの十代の後半であったか早い時期に富山市に行き、そこで生活するようになり、数年のうちに繁華街で飲み屋を数点経営する社長になっていたと話していました。20代の後半という話であったようにも思います。カラオケというものを初めて導入したのも

自分のアイデアだといい自慢していました。結局、天狗になりすぎたということで、飲み屋の仕事はうまくいかなくなったと言いましたが、次に閃いたのはサラ金の経営で、これも時代を先取りしたアイデアだったと自慢していました。

人口等の諸条件を考えた上で、サラ金を始める場所を静岡市に選び、静岡に行ったと話していました。そして大きなものを相手に何か大きなことを仕掛けたらしく、詐欺で指名手配されるようになり、金沢市に流れてきて金沢市場輸送で長距離運転手をするようになったと話していました。

金沢に来て1年ぐらいという話だったでしょうか、警察に突き止められて逮捕され、刑務所に服役したという話でした。服役期間は1年か1年半というものだったので、ずいぶん短いという印象も受けました。そして当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが身元引受人となり、出所の向かいにも

来てくれたと話していました。静岡では家族で御殿のような家に住んでいたとも話していました。そういう昔話を詳しく聞いたのは昭和61年の12月頃のことでした。場所は北安江の焼き肉屋でした。平成元年の1月頃かに松波港で自殺した珠洲のTさんと3人でした。

Tさんは被告訴人YSNと水産高校の同級生でクラスメートでもあったはずかと思います。高校卒業後すぐに金沢市場輸送に入社したとも聞いていました。YSNも同じく卒業後は、中央市場のウロコ水産で半年ぐらい仕事をしていたとも聞いていました。

Tさんの自殺についてはプライバシーの問題もあるので、その他の接点など控えたいと思いますが、平成6年の1月頃か金沢地方検察庁の検事室で加藤検事が強い反応を見せたこともあったので、注視されてきたのではとは考えています。億の保険金の話は平成13年頃に金沢刑務所で聞いた話でした。

保険金にまつわる話は、他に耳にしたことが一切なかったので、真偽の程も不明ですが、一億円よりは大きな額で、2億円という額ではなかったと記憶しています。1億数千万の可能性が高いかと思いますが、以前掛け金についてネットで調べたことがあり、ずいぶんな金額だとは思いました。

その自殺は新聞で知ったのが最初かと思います。周囲から聞いた話では、松波港の岸壁の駐車場で、買ったばかりの赤い色の軽四を、3回転ほどぐるぐるさせてから、海に飛び込んだという話でした。目撃者がいたとは考えにくい場所とも想像し、新聞にそれらしい報道もなかったようには思いました。

被告訴人OSNは、このときずいぶんと嘆き悲しんでいたようですが、事実上の箝口令というか、まったく話題に出来ないような場の雰囲気も醸し出していたと記憶しています。能登の地元の友人、知人の間からは、ほとんど情報を受けることもなかったように思います。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月31日


小林健一は初め10トン平ボディ車でローカルの仕事をしていたと思います。今少し思い出したのですが、金沢市内高柳陸橋の下にある運送会社と関わりのある仕事をしていたかもしれません。北陸通運という会社だったかも、これは別の人のことだったかもしれないですが、専属的に仕事を

やっていたように思います。彼は金沢市場輸送の事務所が西念町にある頃からいましたが、仕事が終わるとすぐに帰宅していたためか、事務所で顔を合わせた記憶というのはほとんどないです。会社の前の道路の向こう側で、話をしたことを記憶しています。

私は昔、昭和57年の9月から12月の年末まで、名古屋市港区でバイク屋の仕事をしていたことがあったのですが、一度客に、まるで白バイのようなバイクに乗ってきた人と話をしたことがありました。正統なバイクマニアという感じで、福島県の出身と言っていたことも印象的に憶えていました。

最初に会った頃の小林健一も正統なバイクマニアという感じで、どこか共通するものを感じていました。まあ、初めの頃は顔を合わす機会が少なく、存在自体を忘れかけた時期もあったかもしれません。会社の他の運転手とはかなり雰囲気が違っていました。育ちは良さそうな感じでした。

初めに聞いたのがいつ頃であったのか思い出せないのですが、言葉を交わすようになったすぐの頃かもしれません。小林健一は、前職が石川県警の交通機動隊員で白バイに乗っていたと話していました。いかにもそういう雰囲気であったので、その頃は疑うこともなかったです。

あれは昭和62年の5月の下旬頃ではと思います。山中温泉のキャッスルバーデンホテルで一泊の慰安会がありました。この時は一人一万円の実費であとは会社が負担するという話ではなかったかと思います。全員ではなかったと思いますが、ほとんどの社員が出席していました。

午後にホテルというか温泉旅館の送迎バスが、中央市場前の北國銀行の前あたりに迎えに来ていました。あまり大型でもないマイクロバスであったと思います。たまたま私はバスの一番後ろの方で小林健一とほぼ並んで座っていたのですが、彼はバスが出発してすぐに飲酒を始めたらしく、

北陸道の片山津インターを降りた頃には、すっかり酔っぱらっていました。それも尋常な酔いかたではなかったのですが、すこぶる陽気で笑い続けながら、多弁になにかを喋っていました。そのようなタイプの酔っぱらいというのは余り見た憶えもなかったので、珍しくもありました。
片山津インターを降りてしばらくした頃には、窓から小便をすると言いだし、あるいは、次に手に持っている袋に小便を入れると言い出したように思います。なにぶん昔のことなので、こまかいことは憶えていませんが、周囲を驚かせ、皆でなだめて大人しくさせようとしていたことは憶えています。

旅館というかホテルに着くと、ほとんどがすぐに大浴場に風呂を入りに行きました。なぜか脱衣所に若い女の子が3,4人いて、それも珍しく、目的や意味がつかみかねていました。その時点でも小林健一の普段と別人のような行動には、疑問と戸惑いが続いていました。

あれほどバスの中で大騒ぎしていた小林健一は、その後ホテルの中で姿を見かけることがありませんでした。その宿泊ではかなりの大きさの大部屋で大人数の布団がひいてあったことを憶えています。まるで修学旅行のような状態でした。とにかくホテルに着いてから小林健一が起きている姿は見なかったと

思います。部屋のなかで爆睡していたような記憶もあるのですが、これも記憶が不鮮明になっています。この慰安会では他の宿泊客との間でケンカ沙汰のようなトラブルもありました。それでよく憶えている顔ぶれもいます。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月30日


昭和61年の3月に結婚式を挙げ6月には長男が生まれていました。被告訴人YSNを頼って岐阜県海津町に行ってのは、長男が生まれて一週間か10日後ではなかったかと思います。ライスセンターの人数の関係で金沢市に戻ってきたのは8月の20日過ぎのことでした。

金沢市場輸送に電話を掛けたとき、応対に出たのは藤村という配車係でした。何かあったらすぐにやめてもらうという条件で、再び金沢市場輸送で仕事をするようになりました。仕事内容は前回の長距離ではなく、市内配達でした。

早朝に金沢中央市場から鮮魚を積み、マルエーというスーパーの松任店、根上店、寺井店に配送する仕事だったと思います。午前中10時か10時半ぐらいに中央市場に戻り、次は青果物の売り場で、仲買の人がもってくる青果や野菜を積み込んで配達する仕事です。

この時、自分が担当したのは片町・小立野コースと呼ばれるコースでした。一番面倒で難しくいやがられる仕事だと聞いたこともありますが、自分はこれ以外やることもなかったです。片町は金沢市内の中心部で県内で一番大きい繁華街です。路地も狭く、混雑もありました。

午前と午後の2回の配達があり、午前中の1便の出発は午前11時頃ではなかったかと思います。2便は午後の2時頃だったと思いますが、これは荷物も配達先も少ないことが多かったです。そういうこともあり、この時は、大口の荷物の積み合わせで、自分のコース以外の配達も多かったです。

この時も16時頃に仕事が終わることが多かったと思いますが、市場の連休明けなどになると荷物が普段の倍以上になり、運転手とトラックの数もその当時は少なかったので、まれに18時を過ぎるようなこともあったと記憶しています。朝は5時30分からだったかと思います。

この市内配達の仕事をしながら、金沢市観音堂から移転して年月も経っていなかった金沢市東蚊爪の運転免許センターに、大型免許の一発試験を受けに行っていました。ちょっと忘れてしまいましたが、最低でも7回、あるいは10回以上試験を受けて、相場より多めの回数でしたが合格しました。

合格当日の免許の交付だったと思うのですが、大型免許の公布日は昭和61年11月27日だったと思います。誕生日の翌日だったこともあり、憶えやすかったです。大型免許を取得したものの大型車の空きはありませんでした。それと翌年の1月ぐらいに免許の点数が満点になるまでは、長距離はするつもりは

なかったです。当時、長距離のトラックの仕事には重量オーバーがつきものでした。検問で捕まるということもありますが、高速道路でパトカーが荷物の重そうなトラックを見つけると、マイクで次のインターで降りるように言われ、インターにある台貫に乗せられるのです。

中西運輸商で大きな免停を受けることになったのもそれが多かったです。中国自動車道の新見インターの警官に目をつけられ、狙い打ちにされるとひとたまりもなかったです。どこの警察でもそこまでやることはなく、だいたいやる場所は決まってはいたのですが、事実上避けようのない場所です。

大型免許をとってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなりました。ポンコツの6トン保冷車で仕事をすることもあったと記憶していますが、ちょうどイワシの仕事の時期になっていたので、10トン平ボディ車でのミールの仕事がほとんどになりました。ミールとは主にイワシを原料にした魚粉です。

私がはじめにいた昭和59年当時はなかった仕事ですが、早ければその年の12月頃から始めた仕事のようでした。同じ石川県の珠洲市蛸島にある浜田漁業の仕事でした。浜田漁業金沢工場というミール工場が出来ていたのです。浜田漁業は蛸島丸という船団を所有していました。

昭和59年当時、金沢市場輸送の配車係は藤村と北浜という人のふたりでした。見た感じずいぶん年上に思えていたのですが、当時27歳とか28歳という年齢を聞いたような気がしないではないです。彼ももとは金沢市場輸送で運転手をしていたはずですが、珠洲市蛸島の出身でした。

昭和61年の8月に2回目の入社をしたときには姿はなく、前回に私がやめてまもなく蛸島に帰り、浜田漁業の配車係をしているとも聞いていました。詳しい話を聞いていたような気もするのですが、憶えていないです。それでも北浜がきっかけでミールの仕事をするようになった可能性は高いと思います。

浜田漁業金沢工場は金沢市内の外れでしたが、目立つ場所に工場がありました。金沢東インターから河北郡宇ノ気に出る農面道路の道沿いで、隣に屠殺もやっているという噂の食肉工場があり、他はほとんどが田んぼばかりで建物がほとんどなかったので、かなり目立っていたのです。
普通に金沢で生活している人は余り使う道でもなかったかもしれないですが、能登の宇出津の行き来には、よく使う道でした。宇ノ気の先の白尾インターから能登有料道路の乗り降りをすることが多かったからです。

浜田漁業金沢工場が出来た頃、イワシの仕事も規模が小さいものでした。初めはのちに「八戸軍団」とも呼ばれるようになった東北の出稼ぎのような白ナンバーの持ち込み運転手のグループが、直に仕事受けてやってきるような話でした。一人1台で5,6人ぐらいのグループでした。

7599号がイスズ自動車から新車で納入されたのは4月でしたが、その少し前にも同じイスズのトラックで、2台のダンプが新車で納入されていました。土砂積み禁止の普通ではないダンプでしたが、荷台の大きな頑丈そうなダンプでした。イワシ運搬専用の特別注文で設えたようなダンプでした。

昭和62年の春先のことですが、そのダンプに乗務した一人が金沢のMという人物です。告訴事件の重要な鍵を握り、事実ではないのに被害者と交際していた元彼氏という作り話の役割を演じた被告訴人YSKは、このMの愛人の息子という話でした。現在市場急配センターの社長になっている可能性の高い

Dという人物をイワシの仕事に招き入れたのもMだと聞いていました。金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKの口から直接聞いた話では、自分がヤクザの組長をやっていた頃、若い衆で組にいたけど、すぐにいなくなったという関係もあったようです。

総じてTSKの話というのは誇張と嘘くささがあり、どこまで本当なのか不明なのですが、そのような虚々実々を周囲にバリアのように張り巡らすのが、保身と安心につながっていたのかもしれないと、後になって考えるようになりました。謎と癖の強い人物であることは確かです。

Mは昭和40年代か仁義なき戦い、などのヤクザ映画が全盛の頃、映画の中からそのまま飛び出してきたような人物でした。今ではすっかり見かけなくなったタイプの人間ですが、昔はけっこういたような気もしますが、当時でも余りみないタイプの個性派という印象でした。

イワシの仕事というのは早い時期で12月の初めぐらい、遅い時期で翌年の4月ぐらいまでという期間でした。初めの方と終わりの方は、獲れるイワシの漁も少なく、仕事も少なくて、八戸軍団とダンプに限られていました。その後、全国的にイワシが捕れなくなり、ずいぶん前に浜田漁業金沢工場も閉鎖に

なっているはずです。浜田漁業金沢工場は一日に処理できるイワシの漁が600トンと聞いていたように思います。ほとんどがイワシですが、サバやアジも混じっていました。アンコウや大きなマスを見つけることもあり、それが楽しみでもありました。

イワシは金沢港の大きな堤防の先端付近でまとまって獲れることもあれば、魚群が見つからず、京都府の舞鶴沖や新潟県の佐渡島の近くまで行くこともあると聞いていました。舞鶴港や珠洲市の飯田港までイワシを積みに行ったこともありました。

そういえばダンベと呼ばれる四角い水槽にイワシを積んで、石巻や三重県、四国の方に運ぶこともありました。養殖ハマチのエサとして冷凍加工するのが目的であったと思います。

ダンベは10トン平ボディ車に平積みで14個ぐらい乗るものであったと思います。いつの頃からか群馬から来たKという人物が、よくそのダンベの仕事をするようになっていました。もう一人は小松市に家があるという運転手でした。とっさに思い出したのですが、名前はすんなり出てきません。

名前に亀という字がある二文字だったと思います。群馬から来たKは、フルネームでしっかり憶えていますが、ありふれすぎたような上と下の名前の組み合わせで、偽名の可能性もあったのではないかと考えるようになっています。ある意味、謎の鍵を握る人物なのです。それに元警察官を詐称していた

可能性もあるので、あえて実名にしておきたいと思います。小林健二という名前だったと思います。小林には自信があるのですが、検事の方は95パーセントぐらいの記憶の自信です。まあ、ほぼ間違いはないと思っています。

なにより驚くのは、彼が最高裁判事の息子であると話していたことで、それも判事の父親がTSKとは盟友で、父親に社会勉強をするようにと、TSKの会社で働くことをすすめられた、というような話をしていたことでした。この話を聞かされたのは彼が市場急配センターの社員として、イワシの現場の

監督のようなことをするようになってからであったと思います。初めに彼の姿を見るようになったのは、まだ金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃でした。スポーツタイプではない大型のバイクの乗る姿をちょくちょく見かけていました。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月29日


さきほどGoogleマップで地図を作りました。→ 金沢市場輸送と市場急配センターに関する地図 https://mapsengine.google.com/map/edit?gl=jp&mid=zW8zvRyoSBg4.kL7nxxt6orVw

私が金沢市場輸送に初めに入社したのは昭和59年の1月のことでした。同じ宇出津の先輩が大型車に乗務しているので、採用してくれるかどうかきいてみればどうかと周囲にすすめられたのも動機でした。いきなり電話で面接を申し込んだように思いますが、職安に求人があったので職安を通したという

可能性もあるかと思います。いずれにせよ簡単に採用が決まり、4トン車に乗務することが決まりましたが、一月近くか比較的長い間、免許取り消し中だった先輩運転手を同乗させていました。当時はほとんどが長距離の仕事で、大型車より少し4トン車の方が多いぐらいだったと思います。

当時は運転手の出入りも多かったと記憶しています。私が初めに紹介したのが被告訴人OKNでした。彼はその年の春先ぐらいに、それまで住んでいた東京を引き払い石川県の方に戻ってきていました。細かいことは憶えていないですが、仕事をするようになったのは4月に入ってからではと思います。

一緒に仕事をするようになって一月もするかしないうちに、一緒にアパートを借りて住むことになりました。割とすぐに物件も決まり、住むようになったのが金沢市東力2丁目のアパートでした。これは現在でも私の本籍地になっているのではと思います。家賃は折半という約束だったと思いますが、

借り主の名義は私になっていました。平成4年の4月1日事件当日まだ住んでいたアパートで、次の土曜日に被告訴人OKN、被告訴人KYNが手伝ってくれると言うことで引っ越しも決まっていたアパートでした。新しいワンルームのマンションの契約で入居が出来るようになったのも4月1日当日でした。

元からいた宇出津の先輩はOKNが入社した頃やめていたか、入社してまもなくやめていました。当時の大型車の仕事は、一度出るとなかなか帰ってこないものがあったので、顔を合わせる機会というのも少なかったです。半年に一度ということもあると聞いていたように思います。

当時の大型車の仕事はいわゆるエサというものが多かったと聞いています。主に宮城県の石巻港から冷凍の小魚を満載にし、片道一週間ぐらい掛けて鹿児島や宮崎県など南九州のハマチの養殖場まで運ぶという仕事でした。私は時代が変わってから大型車に乗務するようになったのでやったことはなかったです。

後に金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKも当時は大型車の運転手でした。そして平成2年の秋頃に金沢市場輸送に現れ、策士参謀役を務めた可能性の高い七尾市の被告訴人TYNと出会い、親しくなったというのも、そのエサの運ぶ、大型フェリーの船内であったと、MTKは話していました。

宇出津の先輩ですが年は私より5つぐらい上だったと思います。それぐらい学年が離れると知らない人ばかりでしたが、名前の方は先輩たちの会話などからよく耳にしていました。その後、中西水産輸送でも一緒になりましたが、私が入ってすぐにやめていきました。

話が少し飛びますが、私が中西水産輸送に初めに入社したのは昭和59年の12月の下旬でした。年末に社長の家で忘年会があり、その席には宇出津の先輩の姿がありましたが、年が変わるとそのまま出てこなかったような気もします。先輩とはその後もたまに顔を合わすことがあり木材の運搬もやってました。

確か4月の下旬から半月か長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、午後に開かれる競りで金沢の中央市場から筍を運ぶ仕事がありました。東北の酒田と仙台、新潟県内と東京都内の行き先が多かったと思います。後には四国の缶詰工場にも運ぶことがけっこうありました。忙しい時期です。

次に6月から7月の初め頃ではなかったかと思いますが、金沢港から昼にスルメイカを運ぶ仕事が集中してありました。これも東北の酒田や仙台、東京、名古屋も多かったです。被告訴人OKNの兄、被告訴人OSNが金沢市場輸送に入社したのも、その金沢港の仕事が忙しい時期であったと思います。

かたちの上ではOSNも私の紹介ということになったいたようです。社長の夫人に感謝され、中身のことは憶えていないですが、少しお札の入った封筒のようなものをもらったような記憶も残っています。

書いているうちに思い出したのですが、被告訴人OSNが名古屋市内で街路樹に正面から激突し、4トン車を大破させたという話がありました。車体自体は廃車という話だったと思いますが、保冷車の箱の方はどうなったのかまで記憶にはありません。

当時はまだ保冷車の多い時代でしたが、その後平成ぐらいになると同じ保冷車でも冷凍機付きでないと仕事にならないような時代になっていたと思います。細かいことは記憶にないですが、車体と保冷の箱(荷台)は同じぐらいの値段だと聞いていたように思います。

会社としても相応の損害は出たものと考えるのが普通で、他の人の事故であればはるかに些細なものでも大騒ぎしていたと思うのですが、社長夫妻が何食わぬ顔の上機嫌のままで、社内でさほど話題にならなかったというのも不思議と言えば、不思議でした。OSNに危険なものを感じ刺激したくなかった、

という可能性はあると思いますし、実際に当時はそういう解釈で済ませたと記憶しています。弟の被告訴人OKNの方も、似ていると言えば似たようなことがありました。仕事外の問題になりますが、どうも職務上の災害のような扱いで、うまく処理をしてもらったように見えました。
怪我というのは地元、宇出津のあばれ祭りでのことです。現在は7月の第一、金土曜日になっていますが、当時は毎年7月7日と8日に決まっていました。私は仕事を休まず宇出津にも帰らなかったので、詳しいことは知らないのですが、キリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。
担いでいたキリコは宇出津の城野町のキリコであったとは聞いたように憶えています。彼の家の町内は、当時はまだ大橋組にいたと思うのですが、あるいはすでに音羽町の家に移っていたかもしれません。

その宇出津のあばれ祭りが終わった頃、私は一週間ほどの運行で、北海道の根室市花咲港まで行っていました。急な仕事の入り方だったような気もするので、あるいはOKNの怪我のことを知ったのも、北海道から帰ってきた後であったかもしれません。

まあ、次に合ったとき被告訴人OKNが会社にも近い、金石街道の中央市場入り口交差点付近の波多野整形外科という病院に入院していたことは間違いないと思います。今考えると、宇出津で怪我をしたのに金沢の病院まで、どうやって行ったのかという気もします。

彼が痛めたというのは腰でした。二度と立ち上がれないかもしれないと医者に言われたようなことをこの時も言っていたように憶えています。彼の場合、それがあながち嘘とは思えない事情もありました。というのも中学生の時、彼は能都中学校の古い第二体育館の天井裏で遊んでいたところ、

天井が抜けて乗っていた板ごと下に落ちたと聞いています。板に乗ったまま落ちたのが幸いしたものの腰の骨が折れ、二度と立ち上がれない可能性もあるというような話でした。まあ、入院していた病院が宇出津の持木病院だったので、それほど深刻な大怪我でもないだろうという思いもありました。

持木病院は学校の通学路のようなものでもあったので、数人の友人とよく病室に見舞いに行っていたことも憶えています。半年ぐらいの入院という話を聞いたような気もするのですが、留年もしていないですし、3ヶ月ぐらいの入院ではなかったかと思います。

波多田整形外科に入院していたのは一月ぐらいではなかったかと思います。いつの間にか退院していて遊び回っていました。金沢市場輸送に復帰することもなく、自然消滅のようなかたちで会社を辞めたはずですが、さほど話題にもならなかったと記憶しています。

私は当時、黄色い色のトヨタカリーナ1600GTという車に乗っていたのですが、その年の春ぐらいかに60万円か70万円ぐらいで買ったものでした。ローンの組み替えをやったのでローン自体は150万円ぐらいでした。ボーナスなしの3年払いで月の支払いが5万7千円ぐらいだったような記憶もあります。

3台分の車のローンでした。長距離の仕事をしていたので車に乗る機会は少なかったです。それで頼まれて被告訴人OKNに車を貸していたのですが、ある日、事故を起こして廃車にしたので、これで許してくれと現金10万円を渡されたことがありました。

それはちょうど金沢市場輸送をやめた頃で、入社したのと同じ昭和59年の10月の中頃のことでした。ちょっとした事故処理のことで事務員ともめ、机を蹴飛ばしたことなど憶えているのですが、翌日から2,3日、出社しても社長らから無視され、そのまま行かなくなると言うやめ方でした。

はっきりいって、仕事と勤務態度の評価はすこぶる悪かったです。トラックの運転も暴走族の延長のようなつもりでやっていたということもありますが、サンダル履きで保冷車の中で魚を積む仕事をしたりしていました。まあ、それがかえって、別人のようによくなったという高評価にもつながったようです。

2度目の入社は昭和61年の8月でした。このいきさつも被告訴人YSNが絡んでいました。本来ならば9月から12月ぐらいの間、ライスセンターの仕事をするという条件で、その年の6月頃から岐阜県の海津町に行っていました。工務店の仕事で、ナマズがいるという川の草刈りも多かったです。

一種の出稼ぎですが仕切っていたのは珠洲市の当時45歳ぐらいの人でした。YSNは珠洲市の人間との付き合いもあり、その関係でライスセンターの仕事をするようになっていました。3ヶ月ほどの期間で110万円ぐらいのまとまった収入になり、その後出稼ぎ手帳で失業保険ももらえる、

という話でした。結局人数の調整がつかなくなったとかで、新参の私が外されることになったのですが、YSNは条件が違うといい、強く掛け合ってはくれていました。元々は3人で平屋の集会場のような家に住んでいたのですが、ライスセンターの仕事が近づく、他の参加者も珠洲から集まってきた頃

でした。岐阜から金沢に戻ってきたのは8月20日頃だったと思います。そのまま居座れば、ライスセンターの仕事に参加させてもらえていたのかもしれないですが、とにかく夜中に車を運転して帰ってきたことを憶えています。

それで金沢に戻って2,3日した頃に、ふと思い出して金沢市場輸送に使ってくれないかと電話を掛けたのです。岐阜に行くことになったのも120日と90日の免許停止を一度に受けたことが原因の一つでした。岐阜に行ったのは免停開けの直後だったとも思います。

たしか翌年の1月か2月まで、交通違反がなければ免許点数の15点が満額戻るという計算が大きいものでした。普通免許取得から3年でいよいよ念願の大型免許が取得できるという時期にもなっていました。

金沢市場輸送が支配配達の仕事を始めていると言うことも人伝に聞いていました。昭和60年のはずなので、今考えるとちょうど一年前ということにもなりそうですが、YSNが金沢市場輸送で市内配達を仕事をしていると、誰かの話で聞くことがあり、当時乗務していた中西水産輸送の9200の4トン車で、

午後に金沢市場輸送の会社の前に行き、トラックに乗ったままクラクションを鳴らし、2階にある事務所の窓から顔を出した人に、YSNのことを尋ねたところ、先日岐阜に仕事に行くということで、会社を辞めたばかりだと言われました。

ライスセンターの仕事というのは12月の10日過ぎまで、と聞いていたと思います。この仕事が終わると、YSNが私の東力のアパートにちょくちょく顔を出すようになっていました。なぜ金沢市場輸送に入社したのかも気になっていたので尋ねたはずですが、多くを語らず要領を得た回答はなかったと

思います。このあたりのことも引っ掛かりがありました。当時彼は、珠洲の友達が暴力団員になったという話もよくしていたと思います。フルネームは忘れましたが、呼び名と思われる下の名前は今も覚えています。先程のライスセンターの45歳ぐらいの人も上の名前は覚えています。

そのヤクザになったとか言う珠洲の友人の借り物だったと思いますが、フェアレディZという車に乗って遊びに来ることが多く、そのあとカマロというアメ車にも乗ってきていたと思います。ヤクザになってずいぶん人が変わったと感心するように繰り返し話していました。

当時は余り気にもとめずに聞いていたのですが、そのあたりの人間関係も、その後のYSNの仕事や生活に影響を与えていたことも考えられます。こまかいことは思い出せないですが、その後のYSNは片町でバーテンの仕事をするようになっていました。

なお、中西水産輸送というのは運転手の社員が所属する会社で、会社自体は配車の手配をメインとするような営業形態で、社名も中西運輸商となっていました。佐川急便の広島・九州便が主な仕事でしたが、もとは白ナンバーで冷凍物や魚を運ぶ仕事をしていました。

金沢市場輸送の社長は昔、中西運輸商の社長を助けてやったことがあるとも話していましたが、もともと話していることの真偽がとりとめもなく不明な人物でした。中西運輸商の評判は悪かったです。運転手を酷使しペナルティを含め過大の負担をかけることでも有名でしたが、噂を知った上で、

あえて飛び込んだ会社であり、鍛えられた面も強かったです。いろいろと未熟さもあったと思いますが、生死の危険も日常のようなことがっりました。仕事の少ない暇な時期もあったり、行きたいというと北海道の仕事をとって行かせてくれることもありました。

人の出入りの激しい会社でもあり、たいはんの社員は九州各地の人でした。その方が自宅に帰れる機会が多いとも言われていました。自分の場合、当時は4トン車だったので仕事の内容も大型車の人とは違っていました。4トン車は少数でした。

被告訴人との関係が最も密であったのは昭和58年のことです。同年の8月の終わり頃から11月の10日頃まで、金沢市観音堂の彼のアパートに居候し、食事などの面倒もほとんど彼にみてもらっていました。一日一食で、280円ぐらいの唐揚げかのり弁当、それに100円のうどんを一杯、というような

生活でもありました。実際、倒れて病院に行き、栄養失調と診断された少女もいたと聞いています。ちょっと変わった古い長屋のようなアパートでしたが、4室が、仲間同士のようなアパートでもありました。たまり場のアパートで、沢山の少年少女が出入りしていました。

当時は私も11月の誕生日前で18歳でしたが、二つ年上で12月生まれというYSNは、20歳になっていたことになりそうです。向かい合った奥の方の部屋には、同じく二つ年上の珠洲のYが住んでいました。その部屋にもよく遊びに行っていたのですが、そこによく女の子と遊びにきていたのが、

河北郡内灘町のUという男でした。年は同じでした。思えば、このUという男との出会いが、そののち被告訴人OKNの人生を方向付けたともいえるかもしれないです。偶然という要素も絡んでいたとは思いますが。

書いているうちに、10年以上ぶりにふと思い出したことがあります。Uとの再会が、いろいろな人間との出会いにつながったのですが、そのうちの一人にOYという男がいました。私は次第に距離をおくようになっていたこともあり、付き合いや会う機会も少なかったのですが、確か平成元年か2年頃、

片町を舞台にした違法薬物の摘発があり、それにOYが関与していたような話を聞いたと思います。新聞で名前を見たような記憶もありますが、10年以上忘れていたことでもあり、余りはっきりとは思い出せないです。下の方の名前も思い出しましたが、憶えやすい名前なのでたぶん間違っては

いないと思います。思い出せないのはそのOYとよく一緒にいた男でした。確か自宅が金沢市東力で、金沢市大額の方で居酒屋のような店を出したとか言う話があったり、一度はその店に行ったような気もするのですが、記憶が相当薄れています。

もしかすると日通の幹部社員の息子のような話もあったかもしれません。家がお金持ちでいい生活をしてきたような話は聞いていたと思うし、実際、そういう雰囲気の男でした。彼も年は同じだったと思います。

わりと大柄な体格でした。東力に家があるという点とその体格、多少の雰囲気の共通性で、平成4年になると被告訴人YSKと重ねて思い出すことも少なくなかったと憶えているのですが、その後今日まで長い間すっかり忘れていたので、名前の方も思い出せなくなっています。ありふれた名前だったような

気はします。日通というのも気になるキーワードになっていたような気がします。ヤクザの組長をしていたとも土建屋をやっていたとも聞く、金沢市場輸送の社長でしたが、昔、日通で働いていたこともあると聞いていたからです。日通と言えば当時日本最大の運送会社とも言われていました。

実際、昭和59年当時も日通の仕事は少なくなく、まだ新車の状態に近い日通カラーの10トン平ボディ車も2台いました。乗務員の一人はその後、中西運輸商に移り、売り上げか何かは忘れましたが、社内一の成績として表彰される姿も、同じ部屋で見ていた憶えがあります。

その後、中西運輸商をやめたあとだったと思いますが、平成元年頃でしょうか、群馬県の高崎市あたりの国道で追突事故で死んだという話も聞きました。中西運輸商から私の紹介というかたちで金沢市場輸送に来て配車係もしていたYTから聞いたように思います。

昨年になると思いますが、宇出津新港の堤防で釣りをしている人と話が弾んだところ、そのYTのことをよく知る人で、いろいろと話を聞くということもありました。その時点では、昔と同じように運送の仕事を経営者の立場でやっているような話でした。何月頃かは思い出せないですが、寒い時期では

なかったように思います。YTは同じ中西運輸商にいた頃、付き合いが多かったので、ライスセンターの仕事を終えた被告訴人YSNが遊びに来たとき、一緒になることもあり、昭和61年の12月か62年の1,2月の時点で顔見知りだったということにもなりそうです。

被告訴人YSNが一度だけ金沢西警察署に面会に来たときも、YTから被害者と付き合っていたのかと尋ねられ、「付き合っとったんじゃないか、とゆうてやった。」と押しつけがましいともとれる、口調で話していました。後で知ったことですが新聞には「半年前から交際」となっていたので、

やむなくそう答えたという可能性もあるのかもしれないですが・・・。YTの話を持ち出してきたのは被告訴人YSNの方でした。余り親しくないという口ぶりでしたが、どちらも社交的だったので、より深い付き合いというのもあるいはあったのかもしれないと考えることはありました。

そういえば半ば独立したかたちで運送の仕事をしていると聞いていたYTの仕事を手伝っていたのも被告訴人YSKでした。YSKの私に対する接近自体が仕組まれたものであった可能性が高く、供述調書には事実のすり替えのような明白な虚偽も含まれていました。

被告訴人YSKはYKに頼まれて、臨時で仕事を手伝っていると話していましたが、今考え直すと、正式な社員か運転手というかたちでYKのトラックに乗っていたのかもしれません。自分には珍しい日産ディーゼルの新型車に乗務していたこともあり、中央市場の青果売り場あたりを少し運転させて

もらったこともありました。しかし再びよく考えると、被告訴人YSKのメインの仕事は持ち込みダンプでのイワシの運搬であったとも考えられます。そういえばYSNが払い下げで購入したようなことを話していたポンコツのダンプは、元は日通カラーだったような気もしてきました。

ダンプと言っても土砂積み禁止の特殊なダンプで、大型車にしては小型にも見えるダンプでした。そういえば私が市場急配センターに移ってからしばらくの間は、駐車場でそのダンプを見かけていたのですが、どこへ持って行ったのか、その後ダンプの姿を見かけることはなかったように思います。

この被告訴人YSKも被告訴人OKNと接点がありました。本来は能都と金沢で地元も違い、年も6つ離れていたので、考えにくい接点でもありましたが、どうもよく理解できないかたちで、それらしい話を聞いていました。余り関心もなく、聞き流していたので、把握できずにいた点というのも

あるかもしれません。その前に時間を戻したところから説明をしておきたいと思います。遊びまわっていた被告訴人OKNが、確か250ccのバイクにまたがり、大阪へ行くと旅立っていったのは、昭和60年の11月ぐらいだったように思います。

東力のアパートの前で、私と一緒にいた結婚する前の前妻に旅立ちの挨拶をして走り去っていきました。いささか哀愁と決意を感じさせるような旅立ちが印象的な場面でもありました。

彼が大阪に向かった一番の目的は、二つ年下の彼女が高校を卒業して大阪に働きに出たのを追いかけるものではなかったかと考えられます。私の同級生は昭和58年に高校を卒業しているので、やはり昭和60年の卒業と言うことになりそうです。4月を就職の時期と考えると、彼が大阪にむかったのは、

もっと早い秋口のような時期だったのかもしれないのですが、私のなかには木枯らしが吹く、晩秋、あるいは12月頃ではなかったかというイメージが残っていました。そのほかの友人関係の状況をあわせると、やはり冬が近づく時期になっていたという気もします。

もう少し時代を巻き戻して思い出しながら事実を追いたいと思います。昭和59年の夏の前後であったぐらいにしか特定できないのですが、観音堂の珠洲のYHの部屋でちょくちょく顔を合わせていたUが、西念町の古いアパートに住んでいると知って、遊びに行くようになりました。

珠洲のYHもその近くのアパートではないですが、ちょっとしたビルの3階あたりに住んでいて、そこにもちょこちょこ遊びに行くことがあったのですが、Uとの出会いは別であったように思います。少なくともUのアパートでYHの姿を見ることも、YHの部屋でUの姿をみることもなかったと思います。

初めは私が被告訴人OKNを一緒にUのアパートに連れて行くという感じだったと思います。まもなくそこで羽咋郡富来町出身のOTと金沢生まれで三重県育ちだったようなHMと知り合い、全員が同じ年でもあったのですが、またたくまに親密な間柄になりました。

西念町は金沢中央市場と同じ住所でもあったと思いますが、わりあい広い範囲で、Uのアパートもそう近い距離ではありませんでした。OTは広岡町のしゃれたワンルームマンションで年下の少女と同棲していました。HMも北安江のマンションで少し年下の女と同棲していました。

三人とも仕事はしていなかったと思います。OTは一度、金沢市場輸送で仕事をしたのですが、一回か二回の運行ですぐにやめていました。私は長距離の仕事をしている時間が長かったので、一緒にいる時間も少なかったのですが、彼らは四六時中に近いぐらい一緒に遊び回っていたようです。

Uは個人的に深刻な問題を抱えていたので暗い感じがありましたが、それでも女遊びは人一倍やっていたようです。すごい数の女の子の電話番号を書いた分厚いメモ帳のようなものも持っていました。私はその後、Uと会う機会も少なかったと思います。

プライバシーの問題もあるので詳細はさけないですが、Uは少年時代に大きな交通事故を起こし、多額の賠償金を背負っていると聞いていました。内灘の家も一度遊びに行ったことがありましたが、賠償のため手放し、あの西念町の古いアパートの住むようになったと聞いていました。
Uと最後に会ったのは平成9年の8月か9月のことでした。怪我をしていて野々市の赤十字病院に入院していたところを、HMと一緒に見舞いにいった時のことです。その後もちらほら近況を伝え聞くことがあったのですが、小さな自動車修理工場を経営し、何かのレースに出場することもある、

という話を聞きました。今考え直すと、OYが片町で薬物事件で逮捕されたというのは、あるいはこの平成9年頃のことであったのかもしれません。しかしそうなると当時の年齢が30歳を超えていることになるはずなので、そのあたりも記憶にはそぐわないのです。

OYの薬物事件とは別になると思うのですが、平成2年頃も、なんどか新聞で片町の薬物事件が大きく報道されることがありました。その主犯格で片町でずいぶん有名だったという人物とは、福井刑務所の工場で同じ班になり、その人物が班長でした。これも偶然ではないと思います。

いまでもフルネームを憶えていますが、ここで書けるはずもありません。まもなく班長と娑婆で親しい関係であったという金沢の元暴力団員YKが同じ班に入ってきました。二人が一緒だった時期はそんなに長くはなかったと思います。まもなく班長のTKが仮釈放で出て行くと、次にYKが班長になりました。

TKとOYは、ともに金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったTSKのことをよく知っているような口ぶりで話していましたが、あまり具体的な話は教えてくれなかったように思います。どちらも裏の世界で相当長い間、キャリアを積んだ人間という感じでもありました。

どちらか、あるいはどちらもであったかは忘れましたが、同じ片町でバーテンをしていた被告訴人YSNの名前は知らないかと尋ねたところ、すぐに知らないという返事が返り、本当は知っていそうだな、という印象は受けていました。

賞味期限の分からなくなった残り物の白菜の漬け物を食べていたら、ふと閃くようにおもいだしたのですが、下の名前は「かつとし」だったと思います。プライバシーに配慮して、このあたりにとどめておきます。

もうひとつより重要度が高いかもしれないと考え直すことがあったので先に書いておきます。それは平成11年の2月頃のことです。被告訴人OKNが住宅のリフォームや建て売り住宅のセールスを口実に、積極的な罠を仕掛けてきた時期でした。

ある日、なにかを理由に金沢市役所につれていかれることがありました。なにかの調査のような話であったような気もするのですが、現在ははっきり思い出せなくなっています。かなり詳しく説明を受けましたが、必要性も理解しがたいもので意図がつかみにくいものでした。

そういう疑問はその時が初めてではなく慣れていた部分もあったので、当時はそれほど深く考えることもなかったと思います。とにかく、かなり長い時間、金沢市役所のなかで、被告訴人OKNと一緒にいました。市役所は金沢市の中心部、片町や香林坊の近くでもあります。

なにかくどいぐらいの説明を受けていましたが、とにかく、以前、2トン車の持ち込む運転手として仕事をしていたこともある宇出津の川か河の字を含むK、と落ち合うことになっていきました。当時は既に携帯電話を使っていた思うのですが、直前の電話連絡で、駐車場のことを話していました。

つまりKの車が外車の大型車で大きすぎて駐車できる場所がないという話でした。アメリカ車ではなくヨーロッパ車で、ベンツではなくBMWという話だったような気がするのですが、BMWというのはそんなに大きな車だったのかという疑問も少しよぎりました。

Kに特段の疑いの目を向けるのが私の目的ではなく、むしろそのような目を私に向けさせ、知られなくないあるいは気づかれたくない事実を守りたいというのが、彼の真の目的であった可能性もあるとは考えています。それでなくても挙動不審でしたから。

被告訴人は中央公園の横の県庁の敷地に大きな車を駐車できる場所があるという説明をしていたと思います。たぶん県庁は元の県庁の跡地で、それほど離れていない近年に現在の金沢市鞍月あたりの新庁舎に移転していたと思います。

書いているうちに思い出したのですが、Kの用事は中小企業向けの融資の相談のような話であったと思います。かなり心配そうな顔をしていました。私のことはよく知っているはずと思っていましたが、まるで眼中にない様子でした。もともと性格的に真意や表情の読み取りにくいタイプにも思えていました。

なお、その時、被告訴人OKNが乗っていた車も古いものでしたがスウェーデンのボルボという外車だったと思います。特別大きいと感じる車ではなかったと思いますが、一般の国産車よりは大型であったと思います。その車は金沢市役所の中の駐車場に普通に駐車していたように思います。

黒い色のボルボだったと思います。かなり長い間乗務していたと思います。平成9年の7月から平成11年の春頃までの間、彼が他の車を自分の車として乗車していたというのは思い出せないです。なにか国産車に乗っていたような気もするのですが。

昭和62年か63年か記憶上いまのところ特定できないのですが、彼が当時住んでいた神戸市内で会ったときは、フランス製のシトロエンとかいう珍しい車に乗っていました。お盆休みに宇出津に帰省したときもその車に乗っていたような気もします。

私は金沢市場輸送で昭和62年の4月から昭和63年の12月の20日頃まで、イスズ自動車の「石7599」というナンバーの10トン保冷車に乗務していました。大型車です。その翌年辺りからナンバーが「石」から「石川」に変更されたことも憶えています。

当時は新車に乗務するまで長ければ入社して10年掛かるとも言われていました。古参の運転手から優先的に新車が与えられるからです。年功序列言うのも昭和の時代の世の習いでした。バブル景気に突入するちょっと前であったかもしれません。

被告訴人木梨松嗣弁護士を紹介した可能性の高い被告訴人OKNについて 2013年 8月28日


被告訴人OKNとは小学校時代からの友人のひとりでしたが、小学校低学年あるいは幼稚園の頃から中学生の頃の関係は、一時的にしばらくの間つきあいが続いたという感じでした。他に色々友達がいたのと部活で忙しい時期もあったので、いわば気まぐれな関係で特に親しいわけでもなかったです。

それでも中学生の頃は、何度か泊まりがけで彼の家で一緒に徹夜の勉強をしたり、グループみたいな多数でしょうちゅう彼の家に遊びに行くことも多かったです。彼の家はだいぶん前に取り壊しになっていますが、当時の面影というものも現在はほとんどなくなっていると感じます。

初めに共同生活も多いいわば身内のような関係になったのは彼の兄の被告訴人OSNの方でした。昭和56年の6月頃からのことです。そういう関係は昭和58年の夏頃ぐらいまで続きましたが、暴力団を巻き込んだトラブルのようなこともあり、疎遠にはならなかったものの会うことは減っていきました。

同じ暴走族でリーダー格だった被告訴人OSNがほとんど断りもなしに暴力団員との関係を結んだのが離散の原因だったのですが、当時私は金沢市の浅野本町に住んでいたこともあり、知らないこと知らされていないことも多かったと思います。浅野本町にいたのも短い期間でした。

印象的に憶えているのはその浅野本町のアパートで就寝中に起こされたところ、部屋一杯に特攻服の少年が集まっていたことです。そこで被告訴人OSNから、特攻服を持っているかといわれ、ここにはないと答えると、そのまま踵を返して帰って行きました。声を発したのも彼一人だったと思います。

起きてからも夜中の出来事が夢か現か確信が持てませんでした。少し前まで彼も金沢市内の自動車修理工場に住み込みで働いていたのですが、それをやめ、宇出津の家の自動車修理工場の仕事を手伝っていた頃です。どちらも規模は小さかったですが、彼ら兄弟の家は自動車修理工場とプロパンガスの販売

をやっていました。昼休みの時か、仕事をしているはずの被告訴人OSNのところに電話を掛けたところ、夜中のことは本当のことで金沢刑務所でヤクザの出所祝いに参列してきたと聞きました。

今思えば、この夜中のことが原因だったのかもしれないですが、アパートから徒歩1分もなかったような近場の、勤める小さな自動車修理工場の主人から暴走族をやめるか工場をやめるか決断を迫られ、工場をやめてアパートを引き払い、宇出津に戻ることになったのです。

浅野本町から宇出津に戻ったのは昭和57年の4月頃だったと思いますが、あるいはまだ3月中だったのかもしれません。私は一度も出所祝いに行ったことはなかったのですが仲間の話では3,4回あったような話も聞いたように憶えています。かなり短期間に集中したような話でしたが記憶に自信はないです。

もともと暴力団やヤクザに対しては拒絶性の高い地域性でもありました。被告訴人OSNの同級生で兄弟分ともいう関係の被告訴人HTNも金沢市で暴力団組員であった時期、一度も地元には帰られなかったとも聞いていました。

被告訴人HTNは同じ高校の一つ先輩でもありましたが、2年生に進学してまもなく退学処分となり、すぐに金沢市に出てガソリンスタンドの店員として働いたものの、まもなくある問題で暴力団員になったと聞いていました。

被告訴人は学業に専念していて退学は実に不本意なものであったと聞いています。同じく暴力団組員になったのも不本意な成り行きであったと聞いていますが、プライバシーの問題でもあるので、ここでは書かないです。事実関係で必要な範囲最低限のことを書いています。

被告訴人HTNが退学になったのは昭和55年の5月か6月だと思います。春の遠足が赤崎海岸であり、それが退学の原因にもなりました。被告訴人KYNは私の同級生で当時クラスメートでしたが、彼も同じ問題で停学処分を受けていたと思います。処分者は25人ぐらいいたようにも聞いた憶えがあります。

はっきりしたことは分かりませんが被告訴人HTNが暴力団員になったのは昭和55年の夏から秋頃ではと思います。当時未成年者でしたが、何か組の若頭のような立場になったようなこととも聞き、その界隈で相当の顔役になっているような話も聞きましたが、直接会うことは少なかったです。

昭和56年の秋、金沢市入江のアパートに被告訴人HTNが姿を見せたことは憶えているのですが、たまたまその場に被告訴人YSNがいたような気もするのですがこれは現在記憶がはっきりしなくなっています。女友達が鍵を預かっているという服役中の暴力団員のアパートと聞いた憶えがあります。

被告訴人YSNは私より二つ年上でした。彼も同じ能都町(現在の能登町の一部)でしたが鵜川という地区で中学校も違っていました。石川県立水産高校の漁業科で卒業しているはずです。水産高校は宇出津にありますが現在は能登高校になっています。

被告訴人OSNも水産高校に入学しましたがすぐに中退したと聞いています。当時のOSNの家は大きなたまり場になっていましたが、OSNも出入りしていたと聞いています。O兄弟の家は旅館のような大きな家で、私より二つ年下の妹もリーダー的な存在で、人の出入りがとても多い24時間営業の

旅館のような家で、とても開放的でもありました。中学時代の被告訴人OKNは、学業と極真空手に専念し兄に反発、軽蔑するような一面が強くありました。趣味と方向性を同じくするようになったのは昭和56年の夏頃かと思います。元はといえば余り仲の良い兄弟ではなく、

すぐにうち解けた訳でもなかったかと思います。昭和56年の8月28日の早朝、シンナーの吸引とかで金沢中警察署に補導されたのですが、前夜にたまたま遊びに来ていたOKNは当時、金沢高校の学生で、この補導の件で退学処分になったと聞きます。男女13人の補導で新聞にも大きく出ていました。

13人中、私とOSNを含めた少年4人と少女1人が、金沢中警察署で取り調べを受けた後、家庭裁判所に連れて行かれ、そのまま小立野の金沢少年鑑別所に入りました。私が試験観察の処分を受け鑑別所を出たのは9月の23日ぐらいではと思います。26日か28日いたはずですが、長く感じられました。

試験観察にはなりましたが割と早く3ヶ月か長くて半年ぐらいで不処分となり保護観察を受けることはなかったです。OKNの方は保護観察がかなり長い間続いていたような憶えがあり、19歳の頃まで続いていたような気もするのですが、これも記憶がややあいまいになっています。補導時は16歳でした。

その試験観察中、家裁の調査官に会うため七尾市の家裁に行ったとき、待合室でYSNと会うことがありました。その時すいぶんと不健康そうな様子に見えたのですが、それからまもなくシンナーを吸引中発狂して金沢の精神病院に入院したと聞きました。

YSNはその後も精神病院に入ったことが原因で、かっての仲間内から疎遠にされるようになり、孤独を感じている様子にも見えました。単に精神病院に入っただけではなく、いきなり他人の家に駆け込んで就寝中の婦人の首を締め上げたという、話も大きく、周囲に危機感を与えていたのかもしれません。

首を絞められたという婦人の夫は、仲間内の離散にもなった暴力団員の舎弟と聞く人物でした。会った機会もあったので顔はよく覚えていたのですが、当時金沢市西念町にあった金沢市場輸送の社長室から出てくる姿を見たことがありました。昭和61年の秋だったような気もするのですが、

現在時期ははっきり思い出せないです。暴力団員の舎弟というあいまいな表現になりましたが、同じ正式な組員であると聞いていました。なお、出所祝い用に支給されたと聞く特攻服には「福島組」という当時石川県内最大勢力とも言われた組の名前の刺繍がありました。自分は支給を受けていないです。

関係者のプライバシーのこともありここでは細かく書かないですが、YSNが飛び込んだ家で婦人の首を絞めた件と、OSNの間には別の接点もありました。大怪我をしたような話は聞いていないです。飛び出した後、「カラスが鳴いている」などと口走ったか叫んだとは聞きましたが、真偽の程は不明です。

昭和57年の1月頃かと思いますが、同級生の友達と3人で、金沢市小立野の精神病院にYSNの面会に行ったこともありました。一人が弟だと嘘を言ったのですが閉鎖病棟に簡単に入れてくれました。YSNは正常だと訴えていましたが、言動には異常性が感じられ、独房でお仕置きを受けることもあるなど、

不遇というか不満を訴えていました。彼との長いつきあいで、言動に異常性を感じたのはその時ぐらいで、さほどの問題もなく社会生活を送っていたようです。時にやることが大胆でどうかと思うことはあり、車の運転に同乗していて身の危険を感じたこともありました。

彼が初めに精神病院に入院したのは昭和56年の12月ではないかと推定されます。その少し前、珠洲市飯田のシーサイドの通りの急カーブで自分の所有するブルーバード510を横転させ、横転直後の静寂を破り、突如、「ギンギラギンにさりげなく、それが俺の生き方」などと当時の流行歌を歌い出した、

とも聞いています。恐怖体験のように同乗していたという一つ年上の女の人から聞きました。OSNとも関係性の強い女の人です。夫妻そろってOSNとは強い結びつきがあり、自分も親しくしていて、金沢でもアパートに遊びにいくことがありました。

彼女にはとても親しい同級生の女の人がいて、いつも一緒にいることが多かったです。当時は未成年者の少女で年も一つだけ年上でしたが、姉御肌のような一面もあり、ずいぶんしっかりした大人の人というイメージが残っています。

二人の女性に最後に会ったのは平成3年の12月21日の夜でした。被告訴人HTNに連れて行かれた金沢市の繁華街、片町のスナックのような飲み屋でした。片町に来て、最初に入ったのがその店だったような気もするのですが、現在細かいことは思い出せなくなっています。

その夜、HTNに連れられて4軒の店に行ったと思います。一つは旧大和デパートの裏側辺りの場所で、屋台が集まるような場所になっていました。観光都市の金沢は屋台が禁止になっているとも聞いていたのですが、博多の中洲を思い起こすような雰囲気もあり、屋台と言うよりは建物がしっかり固定

されている感じで仮設の店舗という感じでした。順番としてはその屋台のような店が2軒目で、3軒目が同じスクランブル交差点より内側の一角で余り大きくないビルの上の方にあるスナックのような店でした。ここには事前に連絡を受けていた被告訴人OSNも姿を見せたと思います。もう一人同伴者の人

がいたような気がします。同じ宇出津の5,6歳以上年の離れた人で名前はよく聞く知られた人でした。以前別の先輩の車で軟禁状態に巻き込まれた記憶もある人物と記憶していますが、その時とは別人のような雰囲気で、おとなしくお酒を楽しんでいるという感じだったと思います。
かなり年の離れた人で6歳ぐらいは年上だったと思いますが、今思えば宇出津のKという人物と年も同じぐらいで、つきあいがあったのかもしれません。宇出津のKという人は今でも名前を覚えていますが、感じの一部が河なのか川なのかは不明のままです。一見するとおとなしい人物ではありました。

しかし被告訴人OKNと同じく上昇志向が人一倍強い商売人タイプの人でもあったようです。これは被告訴人HTNにも通じるところがあり、気の合うところであったと思います。被告訴人OSNも金銭欲は強い方だったと思いますが、義理人情を大事にこだわるようなところも強かったと思います。

はじめに宇出津のKの話を聞くようになったのは昭和63年の春か夏頃かと思います。この辺りは今一度記憶の整理が必要なのですが、とりあえずそういう時期の設定にしておきます。能都町姫のNという先輩と二人で、魚の行商のようなことをやっているとOKNが私に話していました。宇出津のKという

人物は私としては全く心当たりのない人物だったのですが、なにか知っていることを仮の前提にしたというか当たりを窺うような調子で話をしているようにも見えたのが少し印象に残っていました。突っ込んだ言い方をすれば、探りを入れて反応を窺っているような不自然さもなくはなかったのです。

姫のNはよく知る人物でした。直接の友人という関係ではなかったですが、共通の友人が多く、一緒に遊び、行動する機会が多かったからです。それだけ彼が遊び回り車を乗り回していたということもあるのですが、スカイラインのジャパンにはよく同乗させてもらっていました。

姫のNは、昭和56年12月頃と思われる頃、YSNがシンナー遊びで発狂したとき一緒にいたと聞く全部で4人のうちの一人であるとも聞いていたように思います。なお、YSNは松波駅付近で保護され、後日本人から聞いた話だと一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよっていたそうです。



被告訴人である私選弁護人木梨松嗣弁護士選任の経緯について 2013年7月18日


はじめに母親から私選弁護人をつけるように薦められていたのは、まだ金沢西警察署の留置場にいる頃でした。京都の親戚の人が費用を工面してくれるのでお金の心配はいらないとも話していたと思います。それを断って国選でいいと言っていました。

なぜ国選にこだわったかというと、自分の事件のことを誰よりも知るのは被害者の家族だし、保身のために余計なお金を掛けるつもりかと受け止められると、ただでさえ決定的に悪くなった印象をさらに悪化させてしまうことをおそれたからです。

しかし、それほど深く考えていたわけでもなく、ただただ当時は金沢西警察署出頭直後の緊急搬送時に意識を失い、意識不明で植物人間になるかもしれない状態になっていると聞く被害者の容体の回復ばかりを考えていました。

刑事裁判や弁護士の役割に関する知識もほとんどなかったです。平成4年当時というのはパソコンすら個人的なものとして普及はしておらず、携帯電話も最近になって会社に一台導入した、という話を聞く程度でした。現物もみましたが、ずいぶんと大型なものだったと記憶しています。

長距離トラックの運転手をしていたこともありテレビを観る機会も少なく、弁護士が出てくるような裁判もののドラマを観ることは皆無ではないものの、かなり少なかったかと思います。

それでも鮮魚や青果の長距離輸送という仕事柄、現地に泊まり込んで時間を潰すことも多かったので、コンビニにおいてあるような週刊誌はよく読んでいました。泊まると言ってもほとんどの場合は、トラックの中で寝ていました。九州や東北が多かったです。

そんな週刊誌のなかが多かったように思いますが、弁護士と言えば悪徳弁護士という言葉をよく覚えていました。そういうイメージも少なからず影響はしていたと思います。何よりも被害者家族の理解を得ること、これが唯一の最善の道だと考え、疑いを持つこともなかったです。

経緯及び社会の反応/落合洋司弁護士(東京弁護士会)/非常上告-最高検察庁御中_ツイッターをブロックの可能性