2014年6月24日火曜日
市場急配センターの会社裏駐車場に彼女が自分の軽自動車を駐車するようになっ た行動_2014年6月21日
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被害者AAさんが会社裏駐車場の駐車を始めるようになったのは繰り返しますが平成3年11月30日土曜日の午後が始まりでした。記憶が薄れていますが、それが彼女の意思表示であり何かを訴えかける行動であることに、気がつくまで3日から長くて一週間ほど掛かったのではと思います。
車の駐車場所を変えたのと同時に、彼女は自宅の電話にまったく出なくなりました。平成3年11月25日の夜の電話では、初めて正式に自宅に電話をかけてくることを、「いいよう。ぜんぜんだいじょうぶや」と了承した上での行動です。
Picasaウェブアルバム) ファイル名: 市場急配センター:Googleマップ2013年09月05日00時55分54秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942952371719892898
上記写真が市場急配センターの事務所建物と、その前の駐車場です。決まりとして告知があったわけでもないですが、常識的に事務員は会社前に乗用車を駐車していました。これは仕事中の用事で車を出入りすることも多かったからです。
特にAAさんの場合、パソコンのデータ入力で毎日、金沢市場輸送の事務所に行っていました。市場急配センターの事務所にはパソコンはなかったのです。
こまかく言えば平成4年の3月ころに、市場急配センターの事務所にパソコンが入り、業者のような人がAAさんに説明をしていたことがあったのですが、導入には至らなかったのか、そのあと会社でパソコンを見ることはなかったと記憶しています。
平成3,4年当時のパソコンですから現在のものとはずいぶんと違っていますし、一般には馴染みのないもので、どれぐらいの値段がするものかも聞いたことがなかったですが、相当高額であったとは思います。
金沢市場輸送の事務所には平成元年ころからパソコンはあったと思います。あるいは平成2年に入ってからですが、いつの間にかあったという記憶です。
誰がそのパソコンの操作をしていたのかも私の記憶には残っていないのですが、とても印象的なことがひとつありました。その事実は時期を確認する上でも、とても参考になるものです。
元石川県警察の機動隊員でもあり、最高裁判事の息子という小林健一が、金沢港でイワシの運搬の仕事の現場監督のようなことをやったいたことについては、本書で繰り返し書いてきたことかと思います。
私自身イワシの運搬の仕事をやったのは2シーズンだけでしたが、小林健一は1シーズンだけでした。金沢港周辺でまとまった量のイワシが採れる時期に合わせた仕事でした。
12月の初めから4月の初めころまでと聞いていましたが、初めと終わりの方の時期はイワシの漁獲量も少なく、金沢市場輸送ではダンプだけの仕事になっていました。フル稼働は12月の下旬から2月いっぱいではなかったかと思います。
3月中もまだダンプ以外のイワシの仕事はあったような気もしますが、余り記憶もはっきりしません。まだそれなりに忙しい時期ではあったと思いますが、私はイワシの仕事から離れていたようにも思います。
4月になるとダンプでもイワシの仕事が入るのは稀で、仕事自体がとても暇になって残っているのはごく一部だったと思います。ちょうどそんな頃だったと思いますが、会社で暇を持て余す小林健一の姿をよく見るようになりました。
平成2年の4月と思われる時期のことです。私は石川88の108号という冷凍機付きの保冷車に乗務していました。冷凍機付きのナンバーは88になります。長距離乗務です。
当時の行き荷は、トナミ運輸や日通の雑貨が多くなっていたと思います。夕方6時とか7時からのホーム作業で積み荷を始めるという仕事でした。
午後は会社で時間を潰していることも多かったと思いますが、そんな時、何度か小林健一と近くのラーメン屋に行くことがありました。パチンコオークラの近くにあるまるで屋台のような小さい建物のラーメン屋でした。店内はカウンターのみで8席ぐらいあったのかなと記憶しています。
今思えば30代ぐらいだったのかと思いますが、割と若い感じの女の人がやっている店でした。私もちょくちょく利用していましたが、他の運転手も行っていたと思いますし、昼から酒を飲んでいるような人もいたかと思います。
2014-06-21-110823パチンコオークラの近く小さなラーメン屋があった辺り.jpg pic.twitter.com/JEaviVZiV6
Googleストリートビューでスクリーンショットを撮ったのが上記の画像です。屈折というか歪みを感じますが、現実に近い撮影かと思います。
ここは金石街道から中央市場の方に入ってすぐのあたりです。左手にパチンコ屋の駐車場とその出入口が見えますが、平成4年当時は道路と駐車場のつながりがなく、何か別の建物がたっていたように思います。
この画像の道路の左手に2階建てのアパートのようなものが見えますが、小さいラーメン屋があったのは、だいたいその辺だったと思います。この中央市場に向かう道路に面していました。
もう少し先に行くと左手に「市川タイヤ」があって、そこを左折すると30メートルぐらいでパチンコオークラの駐車場と、右折してすぐに金沢市場輸送の会社がありました。
「市川タイヤ」に関しては書いておきたいことが2つあります。ひとつは被害者AAさんが自分の軽四で私を迎えに来てくれたこと、もう一つはミールの清水倉庫での被告訴人安田敏のタイヤの爆発問題です。そういえば工事現場突入の件もまだ中途でした。
私は今まで「清水倉庫」と書いてきたように思いますが、Googleマップで調べてみたところ、「水島倉庫」が正しいのではと思います。8号線バイパスで手取川よりは手前の辺り松任市の外れと記憶していましたが、水島という地名を見つけました。そういえばという気もしました。
小林健一とパソコンの話からずれてしまいましたが、小さなラーメン屋で何度か一緒に食事をする頃になると、彼はしきりに会社に対する不平不満を口にして語るようになりました。それは被告訴人松平日出男個人に向けた不満や批判とも言える内容だったと思います。
被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長でしたが、小林健一も金沢市場輸送ではなく市場急配センターの社員として、金沢港のイワシの運搬の仕事に来ていると聞いていました。
そもそもイワシの運搬は市場急配センターの仕事で、ダンプやトラックでの運搬は金沢市場輸送にやらせているという契約になっているとか聞きました。茨城県古河市の山三青果の仕事も初めは同じように聞いていたと思います。
やたらと被告訴人松平日出男や会社の不満や悪口のようなことも口にしていたと思いますが、なにか話に具体性は感じられず、真剣さも伝わらなかったことが印象に残っています。
そんな不満の一つに、小林健一は、他に誰も出来る人がいないので頼まれて事務所のパソコンのデータ入力をやらされている、というものがありました。
なお、小さなラーメン屋でも小林健一は昼間から、焼酎を注文して飲んでいたような気がします。当時はまだ焼酎というのは一般的ではなかたっと思いますが、すでに酎ハイというのは若者の間にも広まっていたと思います。
むしろ焼酎というのはといえばレモンジュースのような炭酸飲料で割ったイメージが強かったので、そうでないスタイルで焼酎を飲む、小林健一の姿というのも私には珍しく映っていたのです。
その小さなラーメン屋では、銅かアルミの取っ手がついた割と細長いカップで焼酎を出していた記憶もあるのですが、それも私の目には他に見たことのない珍しいものだったと記憶しています。
同行者を含め、その小さなラーメン屋で焼酎を注文していたのは小林健一以外には考えられないのですが、確実な場面の記憶というのは残っていません。
より鮮明に記憶しているのは、ウサギの絵を描いたポンコツのワゴン車に、大きなペットボトルの焼酎がおいてあり、小林健一がそれを飲んでいたことです。コップや水のようなものを見た記憶はないので、ストレートでラッパ飲みをしていたのだと思いますし、そんな場面も微かに記憶にあります。
時刻は6月22日10時12分になっています。昨日は被害者AAさんの事務員としての所用の外出について書いていたところ、小林健一に関する説明にポイントが移動したかと思います。
小林健一は気になるというか不思議な存在感がありましたが、男女の違い、容姿容貌の違いがあるものの、どこかに共通点のようなものもあって、私はそれを長く引きずってきたと思います。うまく説明ができずもどかしくもありますが、不信感と言い換えてもいいかもしれません。
ほかに共通点といえば、性格的に真面目で仕事もそつなくこなしていた、ということが挙げられるでしょうか。育ちの良さや品の良さのようなものも共通しており、身だしなみもしっかりしていたという印象があります。
会社の雰囲気自体がベースにあったので、異分子のような違和感もあったのかと思いますが、どこか新鮮でもあり、不思議さも感じられるような存在でした。
被害者AAさんに関しては、ラフな服装も多かったと記憶しています。ジーパンを履いていることも多く、スカートを履いている場合でも、上には市場急配センターの作業服のジャンバーを羽織っている姿をよく見かけたと印象に残っています。
プライベートでは未知の部分が多かったのは被害者AAさんでした。余り話題にされにくいようなタイプであったとも考えられますが、基本的に無口で近寄りがたいようなところもあったかと思います。
彼女は平成2年の春頃から金沢市場輸送に出入りしていました。パソコンのデータ入力に来ていたのだと思いますが、市場急配センターの事務員であるということに気がついたのは、初めに姿を見かけるようになってからずいぶんと後のことであったと思います。
誰かの口から市場急配センターの事務員だと聞いたという記憶も私にはありません。金沢市場輸送の運転手の間で、話題になることもまったくなかったと思います。割とシャイな人が多かったということもあるかと思いますが、彼女の性格、存在感というのもあったのだろうと思います。
金沢市場輸送の運転手をしていた当時、市場急配センターの事務所に入ったのは一回だけだったと記憶しています。その時に机に向かって仕事をする被害者AAさんの姿を見たような記憶が微かに残っていますが、全く縁のない遠い存在なのだとぼんやりと考えていたような気もします。
被告訴人本恒夫との衝突で金沢市場輸送をやめることになり、被告訴人安田繁克の50万円の借金の保証人になっていたことで、被告訴人松平日出男に 話をしに行ったのが、2度めの市場急配センターの事務所に入った時だったと思います。
平成4年、拘置所に入った頃の私の記憶では、5月下旬のことだったのですが、その後入手した金沢市場輸送の運行表で6月下旬であったとわかりました。6月の20日ころまでは金沢市場輸送で長距離の運行をしていたという記録があったからです。
月の下旬であったということははっきりしています。市場急配センターの給料は月末25日締めの翌月5日払いでした。私は初め被告訴人松平日出男に一日1万5千円のアルバイトとして誘われ、その条件で仕事をすることになったのです。
アルバイト言うことでしたが、2,3日もしないぐらいで市場急配センターの社員になることが決まったと記憶しています。アルバイトとして仕事をしたのは3日分だけでした。
今、Linuxのcalコマンドで調べたところ平成3年の6月23日が日曜日となっているようです。給料計算の始まりが26日だとすると、3日分の別枠というのは休みを一日挟むと6月22日の土曜日からの仕事であった可能性が高そうです。アルバイトの話が決まったのも前日の午後だったと思います。
時刻は6月23日9時7分です。
できるだけ項目の見出しと内容を一致させたいのですが、周辺の事柄の説明をしているとそれだけでもけっこうな分量になり、主題がわかりづらくなるとも気にかけています。
見出しに沿った内容に心がけ、周辺の事実や問題もなるべく独立した項目として配置をしていきたいと思います。裏駐車場のことが項目では見出しの主題なので、そちらに軸を移したいと思います。
Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場2007年07月21日18時09分05秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223878791236930
上記は、中央市場の立体駐車場から撮影したものです。裏側ですが市場急配センターの事務所建物との位置関係もわかりやすく、距離感も目の視界に近いものかと思います。残念ながらトラックは2トン車と4トン車ばかりで、10トン車というか大型車の姿はないようです。
Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場2007年07月21日17時59分24秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223118950956146
次は斜め前方から市場急配センターと中央市場が写った写真です。と、ここで気がついたのですが、Picasaウェブアルバムのリンクだといちいちリンクを開く必要もあって、わかりにくいと思います。
以前もやっていた方法と思いますが、非常上告-最高検察庁御中ツイッター(@shirono)に写真付きツイートしたものを使いたいと思います。
撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場2007年07月21日17時59分24秒.jpg pic.twitter.com/D0T7GEWBRk
上記が写真付きツイートです。わかりづらい部分もあるかと思うので、一覧の作業をキャプチャー動画にしました。YouTubeにアップロードしているところですが、処理が完了次第、説明をしたいと思いますが、独立の項目として書いておきたいと思います。
*非常上告 最高検察庁御中 ツイッター(@s hirono)に写真付きツイートする作業の紹介と記録_2014年06月23日
上記項目に写真付きツイートに関する説明を書きました。HTMLエクスポートだとページ内リンクになっていると思います。Emacs24のバージョンでエクスポートすると、項目のリンクに見出し名はなく、階層の連番になっていました。
資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google
上記も再掲になるかと思いますが、参考にしていただければと思います。トラックの姿が一台も見当たらないのも気になりますが、会社の所在地自体が移っているようです。
私は今年に入ってからそのことに気がついたように思いますが、事務所の建物自体は前のところにあって、そこで事務員が仕事をしているのかも不明です。
2014-06-23-113304市場急配センター(株)石川県金沢市駅西本町5丁目10−20.jpg pic.twitter.com/qv3jqT76V6
上記はGoogleマップのスクリーンショットですが、市場急配センターの新しい住所地であるものの、会社の住所地にリンクした写真が古いものになっているようです。
2014-06-23-114455市場急配センターの新しい配送センターと思われる場所.jpg pic.twitter.com/ma3H9V0R5N
一つ前の写真の真裏にあたると思われる場所のストリートビューが上記の写真です。今初めて気がついたのですが、青色の大型トラックには前方上部に大きく市場急配センターのロゴマークが描かれているようです。ボディのカラーが異なるのが気になるところです。
上記の写真だけ見てもどこなのか全くわかりません。次に角度を変えたものを撮影してアップします。中央市場の裏側、山水運輸の奥で隣り合っていることがわかります。
2014-06-23-120338市場急配センターの配送センターと思われる場所から中央市場方面.jpg pic.twitter.com/ELwU8GXSdS
上記写真でもわかりづらいかもしれませんが、一番奥というか向こう側に中央市場の立体駐車場が見えます。
2014-06-23-121438市場急配センターの配送センターと思われる場所から中央市場裏側.jpg pic.twitter.com/bHckl0Y1fP
これだと山水運輸の建物もわかりやすいと思いますが、山水運輸は中央市場の裏側の道路に面しています。私が金沢市で生活をしていた平成11年ころには既に新しい建物があったと思いますが、いつ頃に出来たのかはわかりません。
平成4年当時にもあったような気がしないではないのですが、建設中の建物を見たという記憶もないです。
以前は中央市場の敷地内で裏側の道路に面した端に大型車を横付けにして、山水運輸はは鮮魚の中継の仕事をしていました。そこで珠洲のYHと話をしていたことも記憶にあるのですが、時期がはっきりしません。最後は平成3年の秋であったような気もするのですが、はっきりとは思い出せません。
時間もそう遅くない時間で夜の23時ころだったような気もします。その時間帯にゆっくりと話をしていたというのも珍しいのですが、なんにしても記憶が曖昧模糊になっています。YHと会って話をしたのもそれが最後だったとは思います。
平成3年の秋から平成4年の3月の間だったとすれば、被告訴人安田敏のことも話題になったとは思うのですが、それも含めて残念ながら思い出すことが出来ないです。その場所は本来、青果物の売り場の方だったと思います。
私の記憶では裏門と同じ位置に、売り場の建物の通路があって、それが鮮魚と青果の売り場の境にもなっていました。ちなみに金沢の市場の鮮魚は競りが3時半からと早く、それだけ早い時間の競りは日本で2つだけと聞いたこともありました。
現在のことは知りませんが、鮮魚は石川中央魚市とウロコ水産にわかれ、青果は石川丸果だけになっていました。全国的にそうだったと思いますが、鮮魚というのは荷受の時間も22時以降とか決まっていることが多かったと思います。
荷物というか市場での品物の扱いにも大きく二通りがあって、売り場への直降ろしと、パレット降ろしがありました。直降ろしの方が少なかったと思いますが、金沢の中央市場ではほとんどが直降ろしになっていたと思います。
直降ろしだと荷受の指示に従い荷降ろしをすることになります。パレット降ろしだと運転手がフォークリフトを運転手て自分で荷物を降ろし、最後に検品だけをうけて受領書のサインをもらうというパターンが多かったと記憶しています。
直降ろしだと順番で長い時間待たされることもありました。石川丸果では直降ろし場合とパレット降ろしの場合があったと思いますが、青果の場合は、ほとんどの市場で荷受の時間に制限というのは余りなかったと思います。
市場急配センターでの山三青果の仕事では、土曜日の夜に荷受けをしてもらうこともありました。日曜日は市場が休みなので、ほかでは余り経験のないパターンでした。出荷する側も土曜日ではなく、日曜日に出していたと思われます。
当時は外食も多かったので野菜の鮮度なども気にすることがなかったと思いますが、直降ろしの青果物というのは野ざらしのような状態になっていました。風通しもよくひんやりとはしていたと思いますが、出荷する側もなるべく鮮度を保ちたいと思うのが、常識かとも思いました。
レタスなどの高原野菜は昭和62年ぐらいから冷凍機付きの保冷車で温度を5度に設定するというのが一般化されていたと記憶していますが、冬場だと特に問題はなかったのかもしれません。
土曜日の夜の荷降ろしということで平成4年2月1日のことを思い出しましたが、重要な事実関係の一つでありながら、本書ではまだ書いていなかったと思います。これも項目を別に立てますが、本筋から離れてしまったついでに、そちらを先に書いておこうかと思います。
時刻は6月24日8時1分になっています。
やはり、裏駐車場のことよりさきに書いておきたいというか、より集中できそうなことがあるのでそれを先に書いておきたいと思います。とりあえず2月1日のことを中心に書くので、裏駐車場の行動の終わりという事実もあります。
本人から話が聞けない以上、想像というか推測になりますが、事実に則して事実を根拠に書いていくので、合理性は十分あると考えています。結論から言えば裏駐車場の駐車の始まりも終わりも、被告訴人池田宏美らの指示を受けた行動だったということです。
裏駐車場に関してはまだまだ書いておくことがあります。自宅の電話に出なくなったのと同時に始まった行動ですが、それは退社のタイミングで直接声を書けてほしいという意思表示であり、その機会を作ってくれているものと考えることが出来ました。
すぐにそう思ったわけではなく、慎重に彼女の行動を見ていましたが、いよいよそれ以外にないと考え、実際に声を書けたのは年が明けた平成4年1月になってからでした。1月中には3回、声を掛け、話をしました。
正確に言うと、いきなり声を書けたのは初めの一回だけだったかもしれません。駐車してある私の担当の大型トラック3068号の助手席に乗ってもらい話をしましたが、「今日は美容院にいかんといけん、また今度」と言われたこともありました。
初めに裏駐車場で声を掛けたのは平成4年1月の10日ころではなかったかと思います。外はすっかり暗くなっていたことも他の時に共通していました。
事務員である被害者AAさんの退社時間というのは17時から17時半の間でした。18時以降に会社にいたころもありますが、それはかなりの例外で、残業という感じではなかったと思います。
その17時から17時半という時間帯は、会社にいる人も少ない時間帯でした。市内配達の運転手のほとんどは16時から16時半ころの間には帰っていなくなっていたと思います。朝の仕事の始まりは5時半か6時ぐらいだったと思います。
日照時間というのは地域的な違いもあるかと思いますが、冬至が確か12月の下旬で、一番日が短い、ということになっていると思います。17時ちょうどだとまだ薄暗さが残っているかと思いますが、17時半となると夜と同じ暗さではなかったかと思います。
17時が退社時間だったと思いますが、17時を過ぎてすぐに退社するということも彼女の場合は少なかったと思います。17時半までいるというのも少なかったと思いますが、その30分の間がほとんどだったとは思います。
例外だったのは平成3年10月12日と思われる土曜日。calコマンドで確認したところやはり土曜日でした。この日のことも独立した項目にしたほうがいいかと思いますが、迷うところです。書き出すと長くなるとは思います。
そして平成3年11月26日、その日は自分の27歳の誕生日だったので、日付ははっきり記憶していますが、前の夜の電話で彼女に自宅に電話をかけることの許可をもらったのです。初めに電話をしたのは同年10月5日の土曜日の夜でした。
その11月26日のことに関しては、被告訴人多田敏明のことも絡んでくるので、独立の項目として書きたいと思います。
裏駐車場に関する項目はこれが2つ目だと思いますが、しばらくの間中断をして、他のことを書き、また独立の項目として記述を再開したいと思います。
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