つまり、裁判官は、自分の感情と証拠評価を分離する訓練ができているのです
<元検弁護士のつぶやき>
裁判員制度と安田弁護士的弁護
光市母子殺害事件における安田弁護士の弁護活動についてはさまざまな観点からの批判的意見が多いのですが、私は弁護人抜き裁判法案成立の危惧の観点から意見を述べています。
さらにもっと現実的問題として、施行が目前に迫っている裁判員制度との関係について重要な指摘がありました。
Springさんが「40代の私にとっての最新情報・重要ニュース」で述べられている
私が、もし裁判員だったら、このような態度をとる弁護士がついた被告に対して、ニュートラルな判断が出来るかどうか自信がありません。
という指摘です。
裁判官というのは、一応プロフェッショナルですから、被告人が責任逃れ的言動を取ることには慣れていてある意味当然のことと認識していますし、弁護人の対応が気に入らないからと言って、事実認定や量刑判断において証拠から逸脱する判断をすることは、絶無とはいいませんが少ないと思います。
なお、弁護人の言動はいかなる意味においても証拠ではありません。
弁護人の言動から推認される被告人の姿勢は証拠になる可能性はありますが。
つまり、裁判官は、自分の感情と証拠評価を分離する訓練ができているのです。
しかし、裁判の素人である裁判員はそうはいきません。
感情、気分、先入観、事前情報の影響を、少なくとも裁判官よりはるかに受けやすいということは言えると思います。
Springさんの言葉は、そのような問題を自分のこととして端的に述べられたものと理解できます。
私なりにもっとストレートな言い方をしますと
不誠実な弁護士の言うことは信用できない。
そんな弁護士を依頼している被告人の言うことも信用できない。
そん被告人が口では反省の言葉を述べていても信用できない。
ということになります。
ただし、誤解のないように申し添えますが、私自身は、安田弁護士が人格的に不誠実であるとは思っておりません。
少なくとも依頼者たる被告人に対しては最大限の誠意と努力をもって、自分への強い批判が生じることもやむを得ないものとして弁護活動をしておられると思います。
しかしその努力は、裁判員制度を前提にすると必ずしも有効とは言えない、ということを裁判員予備軍の方から指摘されたということを、安田弁護士およびその支持者の方たちはよく考えるべきなのではないでしょうか。
一般市民から支持されない弁護活動は有効な弁護活動にならない、という可能性があるわけです。
そして、この問題は、安田弁護士が担当する個々の弁護事件だけにとどまらない危険をはらんでいます。
その危険というのは、ネットで目にする反応の相当多数に、「安田弁護士」の弁護活動に限定した批判ではなく、「およそ刑事事件の弁護士は」とか、さらには「弁護士というものは」というように、弁護士全体に一般化した批判があることです。
Springさんの
日弁連はこのような、無意味な引き伸ばしをやめないと、弁護士の信頼と権威と品格に傷が付くことをもっと理解すべきだと思いました。
というご意見は、市民感覚として当然のことであろうと思います。
司法の民主化というのは、弁護士に対しても市民感覚を無視できないことを自覚させるものだと思います。
言い換えれば、それを自覚できない人は、司法の民主化を論じても説得力がないと言えそうです。
モトケン (2006年3月19日 10:02) | コメント(9) | トラックバック(3) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:裁判員制度と安田弁護士的弁護 - 元検弁護士のつぶやき
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