裁判員の日常と裁判の非日常<元検弁護士のつぶやき>
裁判員の日常と裁判の非日常
このエントリは「無罪推定の原則とネクタイ」の続編です。
ネクタイをきちんと締めている人は「真面目な勤め人に見える。」という日弁連の感覚はごく普通の犯罪などとは縁のない一般市民の日常的な感覚だろうと思います。
しかし、裁判員の前で展開される刑事法廷というのは日常世界ではありません。
身柄拘束中の被告人は、手錠をされて腰縄を結ばれて法廷に入ってきます。
たしかに初めてそのような姿を見る人(裁判員)にとっては衝撃的な光景だと思います。
昔、検察庁に出入りしていた保険外交員の人に、「初めて見たときはショックだった。」という話を聞いたことがあります。
そして、その被告人は検察官から犯罪者だと指弾されているのです。
それも万引きや喧嘩の類ではありません。人を殺した者と言われているのです。
そして、通常、すでに1か月以上、場合によって数か月以上自分の意思に反して身柄を拘束されているのです。
被告人にとっても非日常的なそのような状況は、被告人の心身に目に見える影響を及ぼす場合があります。
もし、その被告人が無実の冤罪被害者であったなら、その被告人が置かれている状況というのは不条理の極みというべき非日常世界です。
その被告人が真犯人であったとしても、正直に反省している被告人であるとは限りません。
あらゆる手段、つまり嘘八百や可能な限りの罪証隠滅工作を行って自己の罪を免れようとしているかも知れません。
被告人が、「私は無実だ!」と叫ぶとき、その被告人が冤罪被害者であるのか罪を免れようとしている狡猾な真犯人であるのかは、ネクタイをしているかどうかによって区別できるようなものではありません。
何が言いたいかといいますと、
日弁連は、本来的に非日常的な状況に、日常感覚を持ち込もうとしている誤りを犯しているのではなかろうかという危惧です。
非日常の世界を日常の基準に従って見てしまった場合、真相に迫ることは極めて困難になるだろうと思われます。
すでに、前エントリのコメント欄で指摘されているところですが、日常感覚の見た目を問題にするよりは、裁判員に対して裁判および被告人の置かれている状況というものは非日常の世界なのであるということを理解させることこそが重要なのではなかろうかということです。
そして日弁連の主張は、単に優先順位を誤っているだけでなく、裁判が非日常であるという最も重要な理解から裁判員を遠ざけてしまう危険があるように思われます。
私は全エントリの最後で
木を見て森を見ないような対策や、木ばっかり見ることによって森が見えなくなるような対策、または森を見えなくするための対策だったりすれば、そんな対策をとらなければならないということは裁判員制度などできる状況でないということです。
と書きましたが、それは何が木で何が森かを見定めないと、結果的に「森を見えなくするための対策」になってしまわないかということを恐れたからです。
モトケン (2008年3月21日 22:35) | コメント(23) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:裁判員の日常と裁判の非日常 - 元検弁護士のつぶやき
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