2014年3月23日日曜日

添付資料 H04-10-26_事前準備書_私選弁護人木梨松嗣弁護士_01.jpg についてx test


ファイルはDVDとして提出しますが、インターナット上でも次のURLでご覧になれると思います。H04-10-26事前準備書私選弁護人木梨松嗣弁護士 http://ow.ly/mUtVP 拡張子にjpgもしくはjpegとあるものは、そのまま写真画像のファイル名です。

この写真はもともとだいぶん前に撮影したものだと思います。写りがあまりよくないですが、平成4年10月26日と弁護人 木梨松嗣、という文字が読み取れます。事前準備書の表題部です。

2014年3月13日木曜日

再審請求をやめ仕事に専念するか、会社を辞めるかの二択を迫った被告訴人 KYNの言動 2014年03月12日


既に大まかな流れは書いてきたと思いますが、見出しと内容の対応を重視する方針に転換したので、これまでの説明の流れがつかみづらいと思います。これからは見出しに付加された作成年月日を今まで以上に意味のあるものとして、念頭に置いて頂きたいと思います。

構成が変わったからと言って一から同じ説明を繰り返すのも無駄があるので、おさらいもしながらポイントを押さえつつも、これまでの記述の時系列に従って反復展開するかたちで、説明や事実の記述を進めていきたいと思います。

被告訴人KYNの設備工業での配管の仕事についてはこれまで紙面を割いてかなりの分量の説明を書いてきたと思いますが、まだまだ不十分なところがあります。15年以上の年月も経過しているので、当然記憶の劣化もありますが、大まかにポイントを押さえておきます。

まず彼のところで仕事を始めたのが平成9年の11月頃のことで、翌年つまり平成10年の1月頃にM君が入ってきました。その入社の経緯についてもより詳しく書いておく必要性を感じていますが、それは後回しにします。

その後、被告訴人KYNに長男が生まれました。上は女の子が二人でした。長女の方は平成2年頃の生まれではないかと思います。次女については生まれると聞いたこともなかったので、平成4年4月より後の出生であったことが考えられますが、それほど年の差があるようには見えなかったです。

長男の誕生に関しては喜びもひとしおだったと思いますが、不思議なぐらい長男のことを口にしたり、話題にすることもなかったと思います。静かに大事に育てているとは思いましたが、余り泣かない大人しい子どもでもあったのか、話題にもならず印象にも余り残ってはいません。

その長男の誕生のことでとても印象に残っていることがありました。秋の11月から仕事を始めたとして2回目か3回目ぐらいに給料をもらった頃であったようなその場の記憶もあるのですが、天気が良く暖かい感じの風景であったような場面の記憶も残っています。

あるいは仕事を初めてすぐの頃でまだ11月中のことであったのかもしれません。出産祝いということで祝儀を渡したのですが、これから世話になるということもあって5万円包んだような気がします。あるいは3万円かと思います。

被告訴人KYNはその時もあまり反応を示さずに祝儀を受け取っていました。身内の祝いという意識が強いようにも感じましたが、いくらか違和感は感じていました。彼は長男の誕生を力強く喜ぶとともに、なにか覚悟を決めて吹っ切れたようにも思えました。

今改めて考えると不思議にも思えることですが、被告訴人KYNの長男については妻がだっこしているような姿しか思い出すことがありません。半年ぐらいすれば、はいはいで動き回ったりするのではと思いますが、自ら座っているような姿も思い出すことがありません。

印象に残っていることと言うのは、弟子のような親子関係のようなつながりであったK君が、祝儀はおろか何もお祝いをしていないと、当然のように軽く笑いながら話をしていたことです。私の質問に対して答えたものであったと思います。玄関先でした。

それだけの親密な関係が築かれているのかと思うのと同時に、仕事の働きで十分に義理は果たしているような自信にも思えました。

K君の正確ですが、大人しくて人当たりも良い、口数は少ないタイプでしたが、意固地で譲らない一面もあると被告訴人KYNから聞いていましたし、私もできるだけ角の立たないように接していたこともあり、衝突は一度もなかったですが、わりと自意識の強い若者とは思っていました。

人に対する気遣いもよく出来ていたのではと思います。他の人と衝突するような姿をみたことがなく、M君のことも暖かく見守るような感じでした。しかたない、というような言葉も時々使っていたようにも思います。若い割には大人びていて、しっかりしている方だと思っていました。

K君は平成4年から被告訴人KYNのところで配管の仕事を始めたと聞いていました。不良という感じではなかったですが、高校を中退したと聞き、あるいは高校に行かなかったと聞いたかもしれません。もっと具体的な話を聞いたようにも思うのですが、忘れてしまいました。

平成4年の4月1日に私は逮捕され、平成9年の1月18日まで警察の留置場や刑務所にいました。被告訴人KYNに最後に会ったのは平成4年の3月の20日過ぎかと思いますが、細かいことは思い出せなくなりました。酔いつぶれて朝まで寝ていたことを憶えています。起きるとKYNの姿はなかったです。

起きたときKYNの姿がないことに意外性を感じたことも憶えているので、それは日曜の朝だった可能性が高いと思います。暦を確認すると3月22日の可能性が高いのかな、と思いましたが、今は自分の記憶のみでの事実の整理は難しいです。

起きると被告訴人KYNの妻と子どもだけだったので、すぐに帰りました。アパートに帰ってから近くのコインランドリーに洗濯に行ったと思います。午前中に市場急配センターに行き、シャッターがほとんど閉まって、誰もいないような状況でしたが、意外なことに被告訴人YSNの姿がありました。

シャッターは完全に降りてはおらず、人がかがんで通るぐらいに開いていたのではと思います。シャッターが降りていること自体、あまりなかったような気がするのですが、日曜日以外には考えにくく、日曜日でも市内配達で仕事に来る人の姿は、それまでにも少ないですが見かけていました。


Bloggerのブログにおけるエラーと制限について 2014年03月12日


本日、他1件と2014年1月1日から2月17日までの見出しをorg-googlecl-blogを使って「非常上告-最高検察庁御中Blogger http://hirono2013s.blogspot.jp/ 」に投稿しました。

毎日欠かさないように一つは項目を書くようにしてきたので、確認はしていませんが漏れがなければ全部で39件の投稿をしたのではと思います。これまでの経験でも一日に30件以上の投稿をAPIからすると、認証エラーがでて投稿が出来なくなっていました。

違うブログですが同じBloggerのブログです。一日辺りの回数に制限があるものと思われますが、頻度が関係していることも考えられます。具体的な基準があるのか調べてみたのですが、満足な情報は見つからなかったです。

同じGoogleのサービスであるGoogle+でも一日に投稿が200件を超えるとエラーのメッセージは出ないものの投稿を受け付けなくなっていました。これは12時間ほどで元に戻ったのですが、調べても具体的な制限はわからなかったです。

Bloggerのブログは英語関係の情報も多く、日本人の利用者もさほど多くないという印象があります。色々と癖もあって、仕様が把握しづらくもあり、ふいに仕様変更になる可能性も比較的高い方ではないかと見ています。

以前はBloggerのサービス自体がなくなることも考えていました。Googleのサービス全般にいえることですが、実際にGoogleリーダーのようになくなっているサービスもあります。そういうこともあり以前は本格的な活用にやや消極的でもありました。

ブログとしてはシンプルな使い方をしていると思うので、サービス自体がなくならない限り、仕様の変更で改善される点はあっても、不都合が生じる可能性は今後少ないだろうと、私は考えています。

Bloggerのブログとの連携再開と、見出しに対応した内容の記載に立ち戻る方針 変更について 2014年03月12日


これまで2014年1月1日から同年3月12日まで「年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄」という見出しというか項目に日付を付けて、雑多な記載をしてきましたが、これからは出来るだけ項目と内容を関連づけ、整理された書面の体裁を重視したいと思います。

理由として一つは書きながら思い出したことを説明したりしているうちに多岐亡羊のような状態に陥り、自分でもどこのことどこまで書いたのか把握するのが困難になってきたということがあります。書き漏らしを起こさないためにも確認しやすい状態を構成的にも維持したいと思いました。

もう一つは今テレビなどで取り沙汰されているSTAF細胞の論文撤回や過去の引用問題があります。元はと言えば研究成果の公表で大きな注目を集めたものの、資料の流用の可能性などを指摘され、時間の経過とともに大問題に至っている様を目の当たりにしたことです。

自分は研究論文を作成しているわけではありませんが、プライバシーの問題を含んだ刑事事件について公益上の観点と、個人の人権の救済を目的に、その必要性を根拠を示しながら社会に訴えかけているという側面があります。

事件の関係者の刑事告訴という手続きは実質的にも過去の自分の不当判決の撤回及び救済を求めるものであって、本来ならば再審請求という手続きを踏むべきところを、私は告訴事件と同一事実の対象に対して検察庁による非常上告の職権発動を求める基本方針です。

おそらくは全く前例のないことかと思いますが、実際に再審請求を繰り返し、その事実関係について新たな発見があったことで、これは憲法上保障された刑事裁判の権利を奪われ、踏みにじられた結果だと確信するに至りました。

その誤判の重大な原因を作ったのが控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士なのです。私が考える木梨松嗣弁護士の法的責任、罪となるべき事実等についてはまたの機会に別の項目で述べる予定にしています。

私は自分が書く内容、事実については相応の自信を持っていますが、客観的な評価や指摘を受ける機会があるやもしれません。いかなる展開にも的確、迅速に対応できるよう、予め書く内容についても整理しておく必要を感じた次第です。

本書において何度か書いていると思いますが、私は書いている内容の全てを、一行のツイートとしてTwitterに投稿するようにしています。

自分で取得したAPIアプリの認証と自分で作成したプログラムを利用しています。一般的ではないと思いますが、さほど特殊なことでもなく、高度な技術を使うものでもありません。

ただ、投稿の通信においてエラーが生じて失敗することはありがちなことだと思っていますし、それに似たことも何度か経験しています。確実な投稿という信頼性はおいていませんが、100回に1回もない程度のことだと思っているので、いちいち確認もしておりません。

これとは別に見出しの項目をタイトル、その内容を投稿内容としてブログに投稿するようにもしていました。最初の頃はミスもあったかもしれません。余り必要とも考えずにおまけのような感じでの投稿をやっていたようにも思います。

この投稿も独自の方法を用いています。とってもこの場合は自作のプログラムではなく、Emacsの追加機能として出回っているorg-googlecl-blogというコマンドを使っています。

カーソルのある行の見出しをタイトルと内容にわけて投稿してくれるものです。処理としては送信用の一時ファイルを作るとともに、googleclという外部コマンドを呼び出して実行しているようです。

情報量も少ないのでgoogleclも知られてはいないと思いますが、コマンド単体でPicasaウェブアルバムにも投稿できます。しかし、これにちょっと問題があって、同じパスの配下だと以前のアルバム名を使って追加投稿するようなことがありました。

要するに記録しておいたのとは別のアルバムに追加のファイルをアップロードしてしまうのです。気がついたもののリンクもあちこちに張っているので修正も困難と判断し、Googleで別のアカウントを作成しました。これも既に説明を書いているとは思います。

Picasaへの投稿はその後、Pythonというプログラム言語のAPIを使ってアルバムの作成と投稿、既に作成済みのアルバムへの追加投稿を出来るようにプログラムのスクリプトを作り直しました。

非常上告-最高検察庁御中Blogger http://hirono2013s.blogspot.jp/ ←本書の内容に対応させたブログです。内容は告発、告訴とまったく同じですが、手続き的な違いの観点を意識し、刑事司法のより大きな視点から検討して頂くため、このタイトルにしました。

これとは別の役割分担として2つのブログを用意していますが、一つはすでにいくつかURLの援用もしているかと思います。もう一つはあるいはまだかもしれないですが、内容的には最も膨大となっています。ブログとしては2013と2014にも分けていますが、Bloggerのブログでのことです。

なお、見出しの階層は4つになっていると思いますが、org-googlecl-blogで投稿されるのは最下層の4つめの見出しだけです。その他の階層の見出しは大分類、中分類という感じの方向性としてまとめるスタイルで行きたいと思います。これまでの構成に違いは多少あるかもしれませんが。

Twitterの方では全ての見出しを投稿するようにしています。その際、行頭に*のアスタリスクが半角文字でついているかと思いますが、これは数が多いほど下層の見出しであることを示すものであり、org-modeの処理としては自動で連番を振ったり、特別な働きをしてくれるものです。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月12日


これまで見出しの内容に関わりなく雑多な事柄をこの項目のシリーズとして書いてきましたが、方針を改めます。詳しくは「Bloggerのブログとの連携再開と、見出しに対応した内容の記載に立ち戻る方針変更について 2014年03月12日」という見出しにおいて説明します。


平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月11日


二日続けて一行だけの記述になってしまいました。PC遠隔操作事件の佐藤博史弁護士のことで考える時間も多く、ツイートもしていたのですが、それもそれなりに咀嚼する時間が無駄ではなかったかなとは思います。足利事件に対する新たな発見もありました。

しばらくは平成11年の1月から2月頃のことを中心に書いていこうと思っています。やはりこれも記憶がはっきりしない部分があります。平成4年当時に比べればまだ記憶が新しいという感覚はあるのですが、それでも15年の歳月ということになりそうです。

そういうことを考えると改めて被告訴人OKNと被告訴人KYNの果たした役割の大きさ、影響力を重く見なければならず、、また当然に彼らと木梨松嗣弁護士の関係こそが、事案の真相解明と刑罰法令の妥当な適用において、不可欠の事実であると考えます。

これには一連の流れがありました。当初積極的に関わってきたのは被告訴人KYNでした。そういう役柄を託され引き受けていたのだと思いますが、思うように私を動かすことが出来ず、しびれを切らしたように登場したのが被告訴人OKNでした。

それは私が市場急配センターの二階事務所で被告訴人MHK社長と労務の担当者として話を聞いておく必要があるともその場で言った堂野さんの二人と面談した平成11年11月の20日頃を、節目とした動きとして事後的になりますが、捉えることができる変化でした。

その11月20日の面談というか会見についても説明はあとまわしにしたいと思います。そういう事実があったという中身より、周囲の前後の動きとの関連性の方が、重要であり意味のある事実であると私は考えるからです。

資料写真/被告訴人OKNが事務所と言った西宅建の小屋・ストリートビュー/告 訴状の資料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/03/okn.html

先ほど初めてGoogleのストリートビューを使って金沢市桂町周辺を調べてみたのですが、意外なことに問題の建物がほぼ平成11年当時に近い状態で写っているものを発見しました。周辺の事情を含めまとめたものをリンクとして記事にしたのが上記のエントリとURLです。

前々から時々使っている手法ですが、パソコンの画面をそのままキャプチャーしています。ここには閲覧の日時や記録時のパソコンの使用状況も記録されています。一般的なパソコンの画面とは違っているかと思いますが、Linuxを使っているからです。

キャプチャーはスクリーンショットと呼ばれることの方が多いかもしれません。方法は色々あると思いますが、私はjavaで作った自作のプログラムを使用することが多いです。同時にファイル名に年月日と時間が含まれるようにもしています。

だいぶん前に本書で既に説明済みかもしれませんが、PicasaウェブアルバムにもAPIを使って自動的にアルバムを作成しファイルをアップロードするようにしています。Twitterなどもそうですが、APIが公開されていると、外部のプログラムからの操作が可能になります。

幸いなことに同じGoogleのサービスでもPicasaウェブアルバムは充実した機能のAPIが提供されています。ちなみにGoogle+は書き込みのAPIが提供されておらず、アップロードのようなことも出来ないみたいです。

GoogleのブログサービスであるBloggerにもAPIIを使って投稿しています。これは処理が自動化できて便利と言うだけではなく、パソコン内のデータとWebサービス上のデータを同じように管理することが出来るようになります。

Picasaウェブアルバムではアップロードしたファイルのファイル名もそのまま情報として保持されるのですが普通には表示されないという難点がありました。APIでは説明の部分にパソコンのファイル名を情報として加えるようにもしています。

Googleのサービスを含め、個別の記事というかエントリは出来るだけGoogle+ページにまとめるようにしています。自分自身で作成した記事でも時間が経つと探すのに手間取り、馬鹿にならないだけ労力を使い時間も無駄にすると言う経験をしてきたので、検察技術に長けたサービスを活用します。

なお、リンクを記事にしたBloggerのブログでは、リンクとしてスライドショーを使うようにしています。Picasaウェブアルバムの写真を見るには右下のPicasaのマークをクリックして出てきたAlbumのリンクを開く必要があります。

スライドショーには矢印のボタンもついているので、全体を把握しやすく作業の手間も省けると思い、そちらを優先的に使うようにしました。写真を拡大してしっかり見るときはPicasaウェブアルバムですが、ファイルをダウンロードしてから画像ビューのソフトで見た方が便利かと思います。

マイ フォト>資料写真/Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋/告訴状の資 料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html

上記は以前に作成していたものでした。URLをみると先月に作成した記事のようですが、それさえはっきりとは記憶していない状態になっていました。

なお、この「Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋」というアルバムに含まれている写真ファイルには問題が含まれています。ファイル作成のタイムスタンプの問題です。

画像データ生成日時 2003:02:27 17:22:42 ← このような情報を保持していますが、これはファイルのコピー時に書き換えられたというか新たに生成された情報の可能性が高いように思います。

まず私は仏の人より遙かにパソコン環境の基本ソフト(OS)そのものを入れ替える頻度が高いです。基本的に半年に一度はシステムをまっさらの状態にクリーンインストールしています。

ファイルのコピーの時も元のファイルが保持していた情報をなるべく引き継ぐというコマンドのオプションもあるのですが、以前は余り意識せずに使っていましたし、変に前の情報を引き継ぐのもそれはそれで問題が出るかもしれないと考えていました。

そういうこともあるので私は画像ファイルはファイルの作成時に撮影日時をファイル名に付加するように心掛けています。

デジカメの写真ファイルはExif情報を持っているので、自作のプログラムでその撮影日時を取得して、それを含めたファイル名に置き換えるという処理も行うようにしています。プログラムと言っても手作業を伴うので、必ず実行しているわりません。

また、プログラムといってもその実態は、スクリプト言語によるスクリプトファイルを使っています。Ruby、Perl、Python、Bashなどです。Linuxだとこういうプログラム言語の活用が容易になる環境です。スクリプトは台本の意味ですが、一般的な総称としてプログラムとも書きます。

私がLinuxを使う理由は他にもありますが、EmacsやVimというエディタは、長年慣れ親しんできたもので手放せません。プログラムの開発に使用されることが多いだけではなく、プログラムを使ったカスタマイズも出来ます。EmacsだとEmacs-Lispという言語です。

ブログでもWordPressへの投稿にはVimのプラグインを使い、それを外部のコマンドから呼び出すかたちで使っています。いろいろな場面でそのような独自の使い方をしているので、特性を活かした利用も心掛けています。

本来、メインに投稿しているのはWordPressのブログですが、これはレンタルの個人サーバなので、アクセス数が増えた場合、障害が起こることは目に見えています。しかし、これだと自分が管理するサーバから、MySQLのデータベースとしてデータを取得することも出来ます。

WordPressの投稿に使っているVimのプラグインでは本来ヘッダーと言われる特別な情報の部分があります。そこにブログの記事のタイトル名、カテゴリー、タグの情報も記載されていますが、投稿が成功した際、記事のIDを取得できるようになっています。

この仕組みは他の部分でも利用してきたのですが、とにかく記事を一意に識別できるIDが利用できるわけです。パソコンでは一つの投稿記事を一つのファイルとして保存しています。

同じファイルの内容を最低限、WordPressとBloggerの二つのブログにほぼ同時に投稿するようにしています。コマンドラインからの操作になりますが、Linuxでは端末(ターミナル)からの作業が多いです。コマンドは補完も出来ますし、履歴から呼び出すことも出来ます。

Bloggerの投稿も基本的にはAPIを使っています。だいぶん前に作ったので仕様についてはよく憶えていない部分もあるのですが、こちらではヘッダの部分を冒頭に記載するようにしています。

先ほどのご紹介記事、マイ フォト>資料写真/Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋/告訴状の資 料 http://hirono2013kk.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html を例に説明をします。

他はさほど重要でもないのですが、「"StrID : 4904」という行の部分がWordPressでのデータのIDになります。言ってみればBloggerの記事は原本ではなく、実質を伴った複製のようなものになります。個人サーバのデータベースにもこの情報が記録されているはずです。

なお、WordPressではカテゴリーとタグを使っていますがBloggerではどちらもない機能で、中間的な機能としてラベルというものがあって、そのラベルにWordPressのタグの内容を使うようにプログラムをしています。この辺りは参考例も乏しくオリジナルの部分が大きいと思います。

Linuxだと次のようなコマンドの使い方でファイルを探し出すことも出来ます。→ % grep -r '^"StrID : 4904' ./*

%はコマンドのプロンプトです。もともとFreeBSDが好きだったのでCシェル系の%を使うにしています。一つだけ正規表現を含めていますが、コマンドのオプション指定はしていないので、有効になっているのかはわからないですが、目的の結果は得られました。

./c投稿済み/201402110703.txt:"StrID : 4904 ← 相対パスになっていますが、コマンドの実行結果そのものです。

本書の資料データに対応したファイルの作成を始めた当初は、記事のタイトルの一部をファイル名に使うようにしていたのですが、なにかと不都合が多すぎて、このようにファイルの作成日時をファイル名に使うように変更しました。

まずファイル名に意味の通じる文字列を使った場合、問題になるのはファイル名の長さです。制約があります。ファイル名だけでなく、絶対パスの文字数も制約が及ぶと聞いています。LinuxとWindowsでは多少の違いもあるはずですが、後で問題が出た場合、修正するのも大変です。

特にプログラムを使ってあちこちに処理を行うとそれだけ修正の箇所も増えることになります。

ファイルに含まれる特殊文字の問題もあります。半角の記号の多くは使えないか使わない方がよい文字ですが、自動でエスケープが出来る場面だと使えることが多いです。よくあるのが半角のスペースですが、Windowsの環境ではフォルダ名に普通に使われています。

ブログの仕様によっても特殊文字は問題を起こすことが珍しくありません。半角の:(コロン)などその典型でしたが、問題を起こす文字は問題を起こす場面で自動的に全角文字に変換するようにもしています。

厳密に言えば一文字でも違えば検索がうまく行かないはずですが、Web上の検索サービスであれば、うまく対応される場面もあるかとは思います。

しかしながら、私個人の経験としてはブログの検索機能というのは精度がずいぶんと悪く感じられたり、結果の情報量が多すぎて、ほとんど使い物にならないと思っていました。それもあってパソコンのデータとして探せる工夫もしてきました。

インターネットで検索をしていて一番便利で効率がよいと感じたのはTwitterでした。それもあってTwitterを積極的に活用するようになりました。正確にはTwitter自身の検索機能ではなく、Twilogというサービスです。これはいろいろな面でよくできています。

廣野秀樹(@hironohideki) - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki ← こちらが私がメインで使っているTwitterアカウントのTwilogです。

Twilogはカウントが自分で登録しないと、普通には使えません。直近のツイートであれば登録のあるなしに関わらず、見れていたように思います。URLで違っているのはアカウント名の部分だけです。正確にはスクリーンネームかもしれません。私の場合はhironohidekiです。

画面右上に検索窓があるので、「珠洲警察署 電話」と検索すると、二つのキーワードを同時に含むツイートが列挙されます。これはメモとしても非常に便利なのですが、こういうTwitterの使い方を評価するものは、不思議と見かけていません。

http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=%E7%8F%A0%E6%B4%B2%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E7%BD%B2%E3%80%80%E9%9B%BB%E8%A9%B1&ao=a

上記が検察情報を含んだURLです。日本語の部分はURLエンコードの処理がなされ記号の羅列になっています。「?word=珠洲警察署 電話&ao=a」がリクエストパラメータの部分です。変数と値という書式になっています。

このTwilogの検索結果を見ると私が珠洲警察署に電話をしたのは昨年の12月30日が最後で、今年はまだしていないことになりそうですが、正直なところ、自分でも今年になって掛けているか掛けていないかはっきりわかっていないのです。私が記録したものだけが対象になるからです。

私自身、Linuxのクリーンインストールをやるたび決まってやるのが、「ctrl space」という検索ですが、システム側でCtrl+Spcaceのキーバインドを無効にし、Emacsでマークの記録のキーとして使えるようにするものです。他で調べると時間も掛かりますので、効率的です。

とは言ってもTwitterは140文字の制限があるので、情報の単位としては細分化されすぎて、ふさわしくない場面も多々あります。本来的にはリンクの紹介としての利用が多いと思いますが、コミュニケーションの取りやすいツールでもあります。

Twitterの方は利用者も多く、社会的な認知もすっかり定着していると思いますが、癖の強いサービスでもあり、自分でそれもかなり使い込んでいないと、理解できない部分が多いかとも思います。



平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月10日


平成11年の初め、まだ多くが正月休みだったと思われる1月5日ぐらいではなかったかと思います、被告訴人KYNの会社を解雇されたはずの私が、安原工業団地付近のS設備との合同の新年会に参加していました。場所はテルメです。サウナ客と同じ宿泊でした。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月09日


リアルタイムの発信を優先しているので土日は控えめにはと思っていたけど、なんか休日みたいになってしまいました。けっこう充実した収穫があり、充電できたとも考えています。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月08日


被告訴人KYNが西宅建と鉄塔の話をしたのは平成11年の2月だったと思います。なんとなく1月の下旬だったという気もするのですが、だとすると私が被告訴人OKNの指示で西宅建の仕事を手伝った前になるのかもしれません。もっともメインはN・K興産株式会社です。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月07日


大型車ではすでに、ウロコ運送と共同の福岡の魚市場の定期便がありました。他に住所はたぶん金沢市間明になると思いますが、名鉄運送か名鉄運輸の営業所か支店があって、そこからの九州便がありました。

九州の各地を順番に荷下ろししていくとか聞き、最後は鹿児島とも聞いていました。荷物の積み込みのホーム作業を手伝いに行ったことがありましたが、午後の明るい時間帯で、その頃はまだホーム作業の雑貨の仕事をしたことがなかったと思いますが、夕方以外はかなり珍しいと思います。

雑貨の定期便というのはホームでの積み込みになり、集配されてきた荷物を仕分けて積み込むものです。基本的に大型車の仕事であり、中西運輸商の時も4トン車というのは予備のおまけという扱いで、ほとんどが最終便でした。

ついでに書いておきますが、中西運輸商での佐川急便の広島・九州便では、金沢の痕、加賀や福井の支店から残り物の荷物を積んでいくことが多く、忙しく交通事情のよくない雪の時期では、福井で荷物を積み終えて出発してから高速に乗るのが3時頃というのも何度かあったように思います。

米原ジャンクション辺りまで来ると、朝の5時頃で、明るい中をとても眠い思いで、交通量の多い名神高速を走って、九州に向かうと言うことが何度かあったと記憶しています。

当時の佐川急便の仕事では荷物は隙間なしの満載が原則でした。荷物と荷物の隙間に拳が入るようではダメとも指導されていました。運賃は1つでも満載でも同じだと聞いていましたし、立ち寄り支店の数も運賃とは無関係だったと思います。

実際に一箱だけの積み忘れの荷物を持って横浜まで行ったときもありました。この時は暇もあったのか2,3人で乗用車に乗り日帰りで持って行きました。被告訴人OKNもいいたかもしれません。

午後の4時ぐらいに金沢に戻り、それからアパートに集まって買ってきた豚肉をフライパンで炒めて食べたようなことも憶えています。押水町出身というDTが一時期、中西運輸商にいた頃だったと思います。年は私の一つか二つ下で、元は雷神という暴走族のメンバーだったとも聞いていました。

大人しくて優しい少年だったというイメージが強く、やはりその頃はまだ18か19歳で未成年だったように思います。富来出身のOTの友達として知り合ったと思います。東力のアパートにしばらく居候としても生活していたように思います。

中西運輸商ではファミーとかスーパーの名前が箱に書いてあるオンボロの4トン車に乗っていて、岡山県の津山市あたりだったか中国自動車道ですが、トラックを横転させたような話があったかと思います。ちょっと記憶があいまいですが。

ふと思いだしたのですが、京都市内で引っ越しの荷物の積み卸しをしていて、会津小鉄会という大きな暴力団の組員の車にこすったとかぶつけたという話がありました。さすがの中西運輸商の社長も頭を抱えたとか聞きました。

それが押水のDTであったか記憶ははっきりしません。また、別の事故絡みの暴力団とのトラブルであったか、運転手の一人が口をきいて解決したというような話も聞きました。その口利きをしたという人の顔は今でも覚えているのですが、まとまって数人で入ってきた運転手の一人だったと思います。

福井のYTはその人物とも親しくしていたように思います。YTが入社した時期と被告訴人OKNや富来のOTがいた時期とは重ならず面識もなかったと思うのですが、YTは押水のDTのことをよく知っていたような気もします。以前から知っていたような関係ではありません。

会津小鉄会のトラブルというのも福井のYTの口から聞いていたように思いますが、押水のDTが中西運輸商にいた時期というのは長くはなく、長くても2ヶ月ぐらいではなかったかと思います。寝過ごしやミスをしながらも頑張っていたという印象も残っています。

押水のDTのことは当時はまだ結婚していなかった私の妻もよくしっていました。その後しばらくしてぱったりと会うこともなくなったのですが、羽咋市か押水町辺りの国道沿いのパチンコ屋で、たまたま顔を合わせたことがありました。会ったのもそれが最後でした。

昭和63年の正月になるのではと思います。あるいは昭和62年です。宇出津に帰省した帰り道、妻と子供を連れながら、国道沿いのパチンコ屋に入りながら金沢に帰ったことがありました。妻はすごく不機嫌でしたが、お金をせびりながらやっていました。

初めて宇出津の大橋組にあるパチンコ屋でパチンコをしたのもその正月休みの時でした。以前は、斜め向かいにある被告訴人OSNの家から、先輩を探しに行くように言われて、何度か入っていたパチンコ屋でした。能都町の長者番付で毎年1番とも聞いていたパチンコ屋でした。

その時には藤波の辺田の浜にもラッキーというパチンコ屋が出来ていました。その店に入ったのも初めてでしたが、小木中学校の相撲部だった一つ年上の先輩に会って、少し話をしたことも憶えています。暴れ者としても有名な3人の1人でしたが、中学を出て小木の漁師をしていました。

小木のその先輩の家にも一度遊びに行ったことがありましたが、よくは憶えていません。私の前後の年代では地元でもっとも恐れられているような3人の1人でした。そのうち2人は小木中学校の相撲部でした。ここでは一応3人のグループのように書いていますが、詳しいことはわかりません。

噂に聞くことが多い3人だったのです。しかし、そのうちの一人で元相撲部ではないYMさんだけが、その後、宇出津の私の友人知人との付き合いが多くなっていきました。

被告訴人HTNが水産高校小木分校を退学になったのは昭和55年の5月か6月の頃です。退学になって間もない頃は、よくその小木の3人のグループと付き合いをしているとも聞いていました。長い髪を金髪に染め、ホーク2というバイクに乗って、校門の前まで来ていた姿も記憶しています。

被告訴人HTNが小木分校を退学になった理由についてはまだ書きそびれていたと思いますが、その時点においても松波のある同級生に対して、強い恨みのようなものを持ち、それを私たちにもストレートにぶつけていました。

その同級生の名前については思い出せなくなりました。私や被告訴人KYNからすれば一つ先輩でした。部活が同じだったのか被告訴人KYNの方が付き合いもあってよく知っていたと思います。部活はバスケット部ではなかったかと思います。

小木分校は専攻科ありましたが、一学年の定員が40名でした。退学者がいないとしても3学年で120名という計算です。部活の方も自ずと数も限られ、あったのは柔道部とバスケット部、それと野球部があったようななかったような感じです。私は柔道部でした。

夏休みだったと思うのですが、部活の合宿で夜に学校にいたことが一度あったように記憶しています。前にある墓場に肝試しに行くとか行かないとか、3年生の二人の女子のマネージャと話をしていたようなことも憶えています。

それ以外に日が暮れる時間の早い冬を含め、暗くなった時間に学校に残っていた記憶というのもさっぱりなく、小木や姫の友達の家で、汽車の時間待ちをしていたことが多かったと記憶しているので、部活というのは熱心なものではなかったです。

それでも一度は、金沢の県大会に行きました。鳴和の新しい武道館の建物でした。宿泊は森本だと聞く山の方の温泉のような割と大きな旅館でした。3年生の女子のマネジャーもいたことを憶えているので、一年生でも早い時期ではなかったかと思います。

高校というのは4月の初めに入学して学校生活がスタートするものだと思います。他の中学校から来た生徒ともうち解けて落ち着いた頃に、遠足がありました。5月になっていたんじゃないかと思います。その時海水浴をしたぐらいですから、6月かそれに近い時期かもしれません。

私は被告訴人KYNらとは別の友達と海水浴などしていました。天気が良かったので体操着のまま海に飛び込んだのですが、近くに幼稚園児の遠足のような姿があったことも記憶しています。

場所は同じ珠洲郡内浦町でしたが松波に近い赤崎というところでした。住所としては松波とは別になるのかもしれないですが、当時の私たちは松波の赤崎という認識だったと思います。その頃からイチゴ狩りで地元では知られた場所だったと思います。岩場の海がありました。

歩いていけるような場所ではなかったので、バスか何かを使った遠足だったと思います。その時は何も知らずに、遠足から帰りました。

遠足から戻って数日すると大問題が怒っていることを知りました。2年生と私たち1年生の多くの生徒が、遠足中に赤崎に近い松波の2年生の生徒の家に行き、集まってタバコを吸っていたのが発覚したという話でした。

タバコは男子であれば半分からそれ以上が吸っていたと思いますし、私もそうですが、毎日普通に学校に持って行っていたと思います。喫煙が見つかれば停学になることも知っていました。停学は3回までで4回目は退学になるとも聞いていました。

女子と男子の比率は学年によって多少の違いはあったと思いますが、だいたい1:3ぐらいの比率だったと思います。2年生より1年生の方が多かったようにも思いますが、半分近い生徒が摘発を受け、停学になったような話だったと記憶しています。摘発という言葉はどうかと思いますが、とりあえず。

だいたい私はその現場にもおらず、松波の先輩の家も知らなかったのでまったくわからないのですが、とにかくこの問題で、3回の停学を既に受けていたという被告訴人HTNが退学になったと聞きました。

被告訴人HTNは能都中学校でも同じでしたが、1,2年生の頃私は相撲部に入っていて、授業が終わるとすぐに歩いて水産高校本校に練習に行っていたので、放課後に学校内にいることも少なく、被告訴人HTNのことはそれほど知りませんでした。

それでも早い時期から被告訴人HTNも私のことは知っていたと思います。ちなみに能都中学校の私の学年は204人でほぼ40人ずつの5クラスでした。前後の学年は多少生徒数も少なかったと思います。二つ下になるともっと少なくなり、クラスの数が一つ減っていたはずです。

ついでに書いておきますが、能都中は、宇出津小学校、神野小学校、真脇小学校と三波小学校の一部から集まっていました。

三波小学校は波並にあったと思いますが、三波というのは宇出津から近い順に藤波、波並、矢波になっていました。このうち藤波は宇出津に近い順に辺田の浜、柳倉、間島の3つで、間島の生徒は三波中学校に行っていました。矢波の生徒は鵜川中学校でした。

国道249号線の海岸線でもありますが、矢波の先には七見という集落があって、その先にあるのが鵜川でした。当時も宇出津と同じ能都町でした。被告訴人YSNはその鵜川の出身です。既に書いているはずですが、鵜川中学から水産高校漁業科を卒業しました。

鵜川にはスーパーもあったり、他の集落よりははるかに大きな町でした。その先の国道249号線を進むと国道は海沿いではなく山間の方向に進んでいますが、いくつかの小さな集落があって、その先に瑞穂という鵜川ほどではないですが、そこそこの集落があります。

瑞穂を超えてしばらく走ると穴水町に入りました。私たちの頃は瑞穂中学校もありましたし、その周辺の集落にもいくつか小さな中学校があるように聞くことがありました。国道から外れると、私が未だに踏み入れたことのないような集落もいくつかあると思います。

そういう集落の名前を言っても通じないこともあるので、近辺の割と知られた集落の名前を出して、そちらの出身のように話すというのは珍しいことではなかったと思います。

実際、被告訴人OSNは被告訴人HTNが金沢で、出身を宇出津だと人に言っていると話していたこともありました。私の経験でも金沢では宇出津と言っても通じないことがあるので私は珠洲の手前の方、と答えることもありました。珠洲は私の知る限りの前から珠洲市がありました。珠洲郡は消滅しましたが。

こみ入った説明をしましたが、本件において気になる存在の人物として、その瑞穂の出身だという西○がいたからです。たしか金沢の尾山台高校を出たとも聞いていたと思います。金沢の私立高校では最低の学力レベルとも聞いたことがあったように思いますが、詳しくは知りません。

西○は事件の真相について知っている可能性の堅い人物であると同時に、いろいろとしがらみの強い立場であることも考えられるのですが、真実追究の公益をはかるためにも、この際、実名で行こうと思います。下の名前までは知りませんし、割とありそうな名前でもあります。

西口という名前でした。前にいくらか触れていると思いますが、金沢市場輸送の山田という大型運転手の娘の婚約者という話で、金沢市場輸送に入ってきました。最大級のキーマンの一人被告訴人YSKとほぼ同時期だったと思います。

同じく同時期にいて年頃も同じぐらいだったS藤についての事実も、まだ記述が途中になっていると思います。S藤の名前はそのまま出せないです。元暴力団員ということではなく、事件を起こし有罪判決を受けているからです。

キャベツのような入れ墨を入れていたということは書いているはずですが、組を辞めるとき必要もないのに指を一本詰めたという話もありました。一時はそれだけ真剣に更生したいという気持ちもあるいはあったのかもしれません。

S藤が女子大生と交際しているという話は聞いていましたし、その女性の姿を見たこともあるように記憶しています。顔までは記憶にないですが、大人しくまじめそうな普通の女性だったと思います。短大生であったかもしれません。金沢短期大学というのもありました。

最近はテレビでも見かけないし聞いていないので、あるいは学校名が変わっているのかもしれません。付属の高校もあって「たんこう」と呼ばれていましたが、女子校だと聞いていました。よく知らないですが、短期大学の方も同じく女子校ではないかと思います。

S藤については金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていたものの、いつの間にかまったく姿を見かけなくなっていました。市場急配センターの事務所が出来て、市内配達がそちらに移ってからは、一度も見かけていなかったように思います。

もともと余り付き合いもなく顔見知り程度だったのですっかり忘れていたと思います。再び姿を見るようになったのは平成3年の秋でした。市場急配センターの一階に休憩所のようなものが出来てからのことです。

この休憩所についても説明が中途半端になっていたと思いますが、出来たのは平成3年の9月の20日頃ではなかったかと思います。大工が工事を始めて一週間か10日ぐらいで、完成していました。畳の座敷も作られていたのですが、短い間にできあがっていたと記憶しています。

この工事中に被害者AAさんのフィルム貼りの手伝いがありましたが、こちらも十分な説明は済ませていないと思います。運転手の控え室という感じでもありましたが、休憩室とも控え室とも呼ぶ者はいなかったと思いますし、たんに一階とか言っていたように思います。

休憩室が出来る前と出来たあとの違いもあるので、これからは休憩室ということにしておきたいと思います。わりとくつろいだ利用をする運転手もいました。テレビがあって寝泊まりも出来るような畳の座敷もありましたが、私はほとんど座敷に上がることがなかったです。

その座敷で横になって眠ろうとしたことは一度だけありました。結局寝付けず、そのうち時分のトラックに戻ってトラックの中で寝たように思いますが、その時その場にいたのも西口でした。

それはちょうど平成3年の仕事納めの日であったとも思います。あるいはその前日です。仕事納めの日ではなかったと思います。仕事納めの日の夕方は、長女が生まれたという被告訴人YSNに祝儀袋を渡すため、彼を捜していたという記憶があるからです。

中央市場口の交差点に近い金石街道沿いのパチンコオークラで被告訴人YSNを見つけて、店の外で祝儀袋を渡しましたが、まったくありがたそうなそぶりもなく、面倒くさそうにも見えたようにも記憶に残っています。渡すだけ渡してすぐにその場を離れました。

もう一度考えてみると、その後であった可能性もあるかと思います。とにかく正月休みに入ろうという時期だったと思います。夕方すっかり暗くなっていたと思います。私は時間帯的にも珍しく金沢市場輸送の給油機のところにいました。

なお、その金沢市場輸送の給油機はちょっとしたブロック塀のようなもので仕切られ、パチンコオークラの駐車場と隣接していました。パチンコ店の店のすぐ裏の駐車場ではなく、道路をはさんだ別の一角の駐車場でした。割と空いていることも多かったので、そこにトラックをとめることもありました。

そこでトラック同士の荷物の積み替えをすることもありました。平成3年の4月頃、再会して数日経った頃には、被告訴人YSKが輪島屋鮮冷の4トン車で来て、何か荷物の積み替えをしたこともありました。

思えば輪島屋鮮冷と金沢市場輸送の社長兼配車係であった被告訴人MTKが、輪島屋鮮冷と仕事のやりとりをするようになったのも、その一月ぐらい前からであったかもしれません。もともとは付き合いがあると聞いたこともない、あるとも考えないような運送会社でした。

輪島屋鮮冷のトラックを見かけるようになったのは、私が金沢市場輸送で保冷車の仕事を初めて、そう長くない時期であったように思います。あるいは昭和59年かもしれません。

初めのうちは金沢港の県漁連の魚市場の前に駐車してある4トン車をよく見かけていました。6月か7月初めのスルメイカの時期だったと思います。当時は丸中水産の仕事で行っていたように思います。

丸中水産に関する説明も中途半端に途切れていたと思います。私がその仕事を初めてまもない昭和59年の春頃だったと思いますが、丸中水産は若旦那のような社長が、先代から跡を継いだばかりのような状況とも耳にしていました。歌舞伎役者の若旦那みたいな人でした。

その頃に聞いていた話は、丸中水産の先代の社長が、当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKにかなり大きな義理があるとかで、切りたいけどやむなく金沢市場輸送に新潟便を任せているという話でした。

私が二度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年8月には、丸中水産の仕事はなくなっていました。ちょっと何かあって金沢市場輸送が手を引いたところ、すかさず守田水産輸送がとって変わったという話で、守田水産輸送になってからは仕事や荷物の量もずいぶんと増えたと聞きました。

誰から聞いたのかも憶えていないですが、急に減った仕事が増えるはずもないので、金沢市場輸送との縁を切るための策略ではなかったのかという感じにも聞こえ、よほど腐れ縁を切りたかったのかとも考えました。実際のことは部外者でもあり正確にはわからないです。

昭和59年の5月か6月頃の時点では、イスズの新車の4トン保冷車の保冷の箱に「金沢丸中水産」などと大きく書いていたぐらいですから、将来的な関係の継続を踏まえていたのだろうとは推測します。

そのイスズの新車の4トン車にはエアーブレーキがついていました。大型車はエアーブレーキが常識でしたが、4トン車でエアーブレーキを見たのはそれが初めてだったと思います。丸中水産と書いた保冷車は、それ一台で終わったと思います。

はじめに被告訴人OKNが乗務していたと思います。その後、兄の被告訴人OSNが乗務したのですが、名古屋の市場で荷下ろしをした帰り、居眠りで街路樹に激突、トラックは大破し廃車になったと聞いたように記憶しています。

トラックの本体と保冷の箱は別物というのが基本でした。箱の載せ替えでトラックだけ新車にすることもあったぐらいです。箱の方まで使えなくなったとは聞かなかったように思いますが、以降、丸中水産と大書きした箱の4トン車というのは、はっきり見たという記憶も残っていません。

昭和59年当時は大型車の数と4トン車の数も余り違いがなかったと思います。事務所に黒板があって、左側に大型車、右側に4トン車の配車が書いてあって上の方から運転手の名前がありましたが、左右の数がそれほど違っていなかったと記憶しています。

平ボディ車が3台はありましたし、6トンの保冷車も2台ありました。既に書いていると思いますが、大型の平ボディ車には原田さん、棟方さんが日通カラーで、もう一台に小坂さんが乗務していたと思います。6トン車には武田さんと越田さんが乗務していました。

昭和62年になると原田さん、棟方さんの姿はなくなっていましたが、平ボディ車には亀谷さんが乗務していました。イワシのダンベの仕事もよくやっていましたが、辞めたという話は聞かなかったものの平成3年頃には、姿を見ることがなかったようにも思います。

亀谷さんはもともと小松市から来ている人だったので、トラックをなかば通勤にも使っているような状態ではなかったかとも思いますので、会社にいること自体、他の運転手より少なかったとは思います。

畠山さんという人もけっこう長い間、10トンの平ボディ車に乗務していました。しばらく経ってからわかったようにも思いますが、その人は私の妻の母親の弟でもありました。

平成2年の秋頃、東渡好信らが入ってきた頃はまだ金沢市場輸送にいたように思います。その後、急に姿を見なくなったのですが、群馬県内の伊勢崎市辺りで夜中の速度違反取り締まりに引っ掛かり、相当大きな速度違反だったとも聞きましたが、捕まってすぐにいなくなったような話でした。

畠山さんも輪島の海士町で、単身出稼ぎのようなかたちで金沢に来ていると聞きましたが、金沢のどこに住まいをしているという話も聞かなかったように思います。また、海士町には妻の家に養子に入ったと聞きましたが、畠山という名前は元々の名前だと思います。

妻から母親の旧姓が畠山と聞き、羽咋市辺りの出身とも聞きました。由緒のある家系らしいとも聞きました。歴史的にも畠山氏というのは室町時代の能登の守護になっているようです。詳しくは知りませんが、能登を統治していた殿様のように聞いた憶えもあります。

前にも紙面を割いた説明を行っていると思いますが、最近では聞かないものの昭和の時代の輪島の海士町というのは特異な存在でした。歴史的にも身内意識が強く近親婚を繰り返してきたとも聞いたことがあります。そういう土地に婿養子に入って元の姓を名乗っているというのもどうかなとは思っていました。

畠山さんも金沢市場輸送で麻雀をしていたような気もしますが、どうもそれほどはっきりしたことは思い出せず、時々参加をしていたとしても、さほど常連という感じではなかったように思います。平ボディ車とは仕事の内容も違っていたので、顔を合わす機会もそう多くはなかったとも思います。

それでも畠山さんも亀谷さんと同じく、小林健一と一緒にイワシのダンベを運んでいた時期があったと思います。本来はミールの方を多くやっていたと思いますが、小林健一の方がそれほどミールの仕事をやっていなかったようにも思います。ミールを積み込む姿を余り見かけた記憶がないからです。

昭和63年の一月になるかと思いますが、ダンベのイワシを積んで大人数で四国の香川県丸亀市あたりまで運んだことがありました。丸亀市の先の善通寺市だったとも思います。

ダンベの降ろし先は瀬戸内海の海に面した、なんとなく水産試験場のような場所でした。ちょうど泳いでいる大きなブリの姿や、それを捕まえて引きあがるような作業を見物していたことを憶えています。聞くとかなり大きなブリでしたが、1本5千円とか聞き、ずいぶん安いものだと思いました。

ちょうどその四国の運行から戻って数日後に、被告訴人KYNの結婚式が宇出津であり、あの5千円とか言う養殖のブリを買って、結婚式のお祝いに渡せば良かったかなと考えたことも割とはっきり憶えています。

その四国へのダンベの運行には、小林健一も亀谷さんもいたと記憶していますが、畠山さんの姿となるとはっきりとは思い出せません。ただ、なじみの顔ぶればかりで、人数も多かったので、畠山さんがいた可能性のある程度高いのではと思います。

そもそもいつ頃から畠山さんの姿を見るようになったのかも思い出せないのですが、金沢市場輸送の事務所が西念町にあった頃には、見かけていなかったように思いますし、前の事務所やその付近で話をしたという場面の記憶もありません。

被告訴人KYNの結婚相手ですが、同級生だと聞いていました。瑞穂の出身で金沢で知り合ったと聞きましたが、宇出津の同級生YYの紹介とも聞きました。そのYYも結婚式には参加していたと記憶しています。

YYのアパートには被告訴人KYNと一緒に遊びに行ったことがありました。金沢市入江と聞いていましたが、ニュー三久の神田店にも近く、住所としては玉鉾にも近い辺りのように思いました。確か神田店となっていたと思いますが、住所は神田ではない感じでした。

先日、たまたま調べてみたのですがGoogleのストリートビューでは現在、セブンにイレブンのコンビニになっていて驚きました。東力に住んでいた頃、金沢市場輸送との中間ぐらいの場所でもあり、よく家族と買い物をしていたスーパーでした。

Googleマップで確認したのですがニュー三久のスーパーがあったのは入江のようですが、道路の向かい側の一帯は新神田になっていました。ニュー三久も神田店ではなく、新神田店だったと思われます。高岡中学校も住所が新神田だったとは、ちょっと意外でした。新神田は思っていたより広いようです。

同じくGoogleマップの地図で周辺を見ていて気がついたことですが、金沢市神田あたりにあったはずの中央自動車学校が跡形もなく見当たらなくなっていました。別に調べたところ、2007年6月のブログの記事で最近倒産したという情報を見かけました。

ついでなので、これも忘れて書き漏らしをしないうちに書いておきたいと思います。中央自動車学校について、一つ書いておく予定の事実があったからです。

現在は前後のことが思い出せなくなっているのですが、夕方に近い時間の被告訴人OKNとの電話の一場面だったと記憶していますが、断片的な記憶となっています。

前後のことが思い出せないのできっかけもわからないのですが、被告訴人OKNが父親の殺人事件について何かを語ろうとしたときのことでした、明るい期限の良さそうな声でしたが、取り急いでいる雰囲気も電話越しに伝わってきました。

中央自動車学校の教官がなんとかで、それが今、自分が住んでいる金沢市円光寺の家の購入とも関係があるような話をざっとして、続きはあとで会ってから話すようなことを言っていたように記憶しています。

数時間後か、実際夜になってから被告訴人OKNと会ったように思いますが、前の話の続きをするようなそぶりを見せなかったので、私の方からも電話の会話の続きに触れるようなことは口にしませんでした。

被告訴人OKNの電話での話はかなり不自然に思え、なにか探りを入れるために、そんな話を持ち出したとしか思えなかったからです。

円光寺の家の購入については他の機会にも何か話を聞くことがあったように思いますが、父親の殺人事件と関連や中央自動車学校とのつながりについては、まったく見当もつきませんでした。刺激をしてもよくないと思っていたので、向こうが触れてこない以上、聞く気もなかったことです。

父親の殺人事件についてはそのずっと前から知っていて話も聞いていたと思います。本当の初めこそ、思いだすのも嫌そうに話をしていましたが、その後はほとんど抵抗なさそうに話をしていました。ずいぶんと迷惑を受けたとか、自分らの被害を訴えるような話が多かったという印象もあります。

仕事の上でも肩身の狭い思いをし、心ない言葉を受けたようなことも憂さをぶつけるように話していました。そもそも彼の苗字はほとんど聞かないものでした。漢字2文字の組み合わせを分解すると、誰でも読めるような漢字でしたが、名前としては彼の親戚外に聞いたこともなかったです。

子供のこともずいぶん案じている様子だったので、ほとぼりが冷めるまで妻の旧姓に変えてはどうかと言ってみたこともあるのですが、自分の名前に特別な思いを背負っているような感じで、そういう選択はあり得ないというように言っていたように思います。

過剰に被害者性を強調しているようにも思いましたが、実際彼が周囲に期待した以上の同情や理解も得ているようにも見えました。あとあとになると、けっこう面白がっていたんじゃないの、という感じにも思えることがありましたが、事実それに近いものはあったようです。

今思い返してみると、それは直接顔を合わして交わした最後の会話だったかもしれません。平成13年12月31日の金沢刑務所の出迎えが本当の最後の顔合わせになったかと思いますが、事前の連絡もなく正門の前にワゴン車に乗って待っていたもので、また違うものでした。

平成11年の4月中だったと思います。私が逮捕されたのは8月12日だったので、その間にもあるいは1回ぐらいは会ったことがあったかもしれませんが、会話らしい会話というのはやはりその時が最後であったように思います。私が彼を信用することもなくなっていました。

場所は西金沢の住宅でした。建て売り販売の内見会のような住宅でしたが、家の周りにのぼりの旗が何本か立っているぐらいで、住宅の中にもパンフレットのようなものは置いてなかったように思います。当時はそれほど意識していなかったことですが、改めて考えるとかなり不自然です。

西金沢といっても、自分の感覚としてのだいたいの場所です。Googleマップで、出来る限りの場所を特定しておきたいと思います。全体のマイプレイスとしては、以前、印をつけたこともあるので、データは残っているはずですが、新たにこれだけを特定しておきます。

石川県金沢市押野1丁目196 - Google マップ http://bit.ly/MRLK9K ← この通り沿いの野々市方面に向かって左側にあったことははっきりしているのですが、もっと奥の方であったか、手前の方であったかはっきりしません。

手前の方だと住所が西金沢になるようです。西金沢の踏切の手前、古い工場の敷地の壁沿いのような通りは、昭和59年当時も野々市方面への裏道として利用していたことがあり、馴染みのある道でしたが、奥の方へ行くと道路事情もすっかり変わっているようです。

その展示場のような住宅の近くは道が多少折れ曲がる場所があったような気もするのですが、それらしい場所は西金沢の住所で手前の方になりそうです。

閑静な住宅地という感じでしたが、昔は裏道として交通量も多かったような気もしました。他に便利な道がいろいろできたので、交通量も減ったのではないかと思われますが、昔を知らない人は、通ることもない道であったようにも思えます。

会ったのは日曜日で午後だったと思います。当時は日曜日も仕事が多かったので、それ以外の曜日というのも考えにくいです。内見会のようなのぼりは出ていたと思いますが、人が来るような雰囲気はほとんどなく、外からは中に人がいるようにも思えなかったとも思われます。

家はグレーに近い色がベースになっていたように思いますが、まあ、建て売り住宅という感じでした。西宅建株式会社の建て売り住宅だったと思います。上荒屋の住宅よりは小さかったと思いますが、同じ建て売りなので、いくらか似ている建物にも思えました。

自分で設計した家を建て売り販売する、それが西宅建の社長のスタイルとも被告訴人OKNから聞いていました。株式会社にもなっていましたが、事務所というのも住宅の一部屋という感じでした。妻が仕事を手伝うことはあるとも聞いたような気もしますが、従業員がいるとも聞かなかったです。

Google マップ http://bit.ly/1cebCIM ← ストリートビューで探し回ったのですが、西宅建はこの場所にあったのではと思います。確信は持てませんが、70パーセント以上の確率はあるかと思います。

石川県金沢市古府2丁目164−3 ← こちらが住所です。古府であったこととこの辺りであったことは間違いありません。ただ、建物の方がすっかりなくなっているようです。平成11年の1月や2月のことなので、15年前と言うことにもなりそうです。

西宅建の建物をGoogleマップで探したのは今回が初めてではありません。ある程度の範囲は絞り込めているので、その周辺はもれなく目を通していると思うのですが、建物自体が土台からなくなっていることは間違いないと思います。

気になるのはその周辺に鉄塔のようなものがあったはずなのですが、Googleマップでははっきりそれらしいものを確認できませんでした。近くのテレビ金沢の建物にあるのが、その鉄塔なのかもしれません。

西宅建の近くに鉄塔があることについては私自身、意識したことはなかったのですが、被告訴人KYNが「あの鉄塔の近くにある詐欺師みたいな不動産屋やろ」というようなことを私に投げつけたことで、そういえば近くに鉄塔があったような気がするとその時は頭の中で考えていたのです。

当時はいろいろあってので、そんなこともすぐに忘れていたのか、その後も西宅建の建物には行っていたと思いますが、どこに鉄塔が見えるのかと、辺りを見渡したような憶えはありません。

被告訴人KYNに鉄塔と言われたとき、私は南新保に近い西念の辺りを思いだしていました。そこには昭和59年頃から大きな鉄塔が見えていたのですが、周囲に法務局などの大きな建物も建って、鉄塔自体はそれほど目立たなくなっていたと思います。

その鉄塔の近くには金沢市場輸送の寮と聞く、一軒家もありました。一度はその中に入ってことがありましたが、誰と一緒に誰を訪ねていったのかなどは憶えていません。昼に行きましたし、何か会社の方で、用事を頼まれてそこに行ったような気もします。

部屋の中に座ってくつろいだという記憶も全くないので、やはり何かの用事で行ったのだと思います。着の身着のままというか、寝泊まりするのに最低限の物しか置いてないような光景を見たようにも記憶しています。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月06日


金沢刑務所の復帰寮ですが、なにか違った名称の看板が大きく掲げられていたように思い出しましたが、名称の方は思い出せません。そのまんまというわかりやすい言葉で寮を入れて3文字だったとは思います。

通路の突き当たりの出入り口は頑丈そうな扉でしたが、上の方は縦に粗い鉄格子になっていたように思います。透明なガラスのように見えましたが、おそらくは強化されたアクリル板かと思われます。独房の窓も同じでガラスではなかったように思うのですが。外の窓はガラスであったかも。

外からも見通しが良く、私の独居からも中にいる人の動きを含め、ある程度の範囲が見えていました。扉の内側はいくつかの小さい部屋に分かれ個室になっているように思われましたが、内部に鍵はなく自由に行き来できるようになっている感じでした。

福井刑務所の親和寮もそのように聞いていました。私はちょうど下の3階の独居にいたので、日曜日の昼食後に午睡の時間が始まった頃には、テレビからのど自慢の音声が聞こえてきていました。コタツがあるとも聞いていました。

何年か前ならもっと具体的に思い出せていたと思うのですが、今は本当にぼんやりしか思い出せない風景です。刑務所や拘置所の独居房というのは、どこもだいたいは同じ大きさになっているのではと思いますが、広さも多少の違いはあったと思います。

人の居住スペースには間違いないのですが、倉庫の収納ケースというイメージがずっとありました。ドアも引きとになっていてかなり薄かったです。

独居の部屋の横幅ですが、はっきりしたことはわからないものの、あっても1メートル50センチぐらいかと思われます。二部屋分でも3メートルぐらいかと思われます。独居の華の方によれば実質2メートルぐらいの距離であったかとも思われます。

扉の向こうにはXと金沢中警察署で一緒だったTさん、そして同じ5工場だった埼玉の青年の3人が、ニコニコと笑って立っていました。通路の延長なので立っているのは当然のことです。2回か3回ぐらいそんなことがあったと思いますが、短い時間でした。前に書いたように具体的な会話もなし。

Xからはハガキが入っていました。本当の年賀状のような葉書で、なにか短い言葉と携帯と思われる電話番号が書いてありました。出所の当日に一度見ましたが、それっきりになったように思います。捨てた憶えもないですが、電話を掛けることはなかったです。

Xに関しては自分のいた5工場内の情報で、覚醒剤事犯であること、女がきっかけだったこと、逮捕時は車の中で生活していたらしいこと、初犯なのに再犯刑務所に来たこと、前に暴力団に所属していたらしいような曖昧な話等を聞いていました。

この話は主に以前同じ雑居房で生活していたという大人しい感じの受刑者に話を聞きました。その人には前にいたという網走刑務所についても話を聞くようなことがありました。更生教育の進んだ施設で食べ物の処遇も良く、暖房もきいて暖かいという話でした。他にも同じような話は聞きました。

その人とは別に、暴力団組長の人からもXについて話を聞くことがありました。大阪の人でしたが、石川県の加賀市の方とも関係があるような話を聞いていました。Xについて知っていると言うよりは、T班長のことをよく知っていて関心もあるという感じだったと思います。

その人は同じ班だったので、作業中でもよく話をする機会がありました。大阪の人でしたが、金沢や石川県の暴力団関係者にもつながりや付き合いが、かなりありそうな感じでした。途中から5工場に来たと思います。たぶん懲罰開けの工場配役ではなかったかと思われます。

仮に復帰寮と書いた一区画の扉が通路の突き当たりにあって、その二つ手前の独居で私が生活していたことは既に書いていると思います。他の部屋に移った記憶もないので、5工場にいる間はずっとその独居房だったと思います。3舎3階とも呼ばれていたかと思います。

所内ではたまにラジオ放送で、優良房の発表というのがありました。整理整頓が良くできているというような評価であったと思います。そんなときに、何舎何階という言葉を耳にしていました。普段は余り意識せずに使っていました。

4舎と5舎が雑居房の建物だったと思いますが、自分のいる工場の受刑者の舎房がどの辺にあるのかとか、誰と誰が同じ舎房という話はほとんど聞いていませんでした。ただでさえ変な疑いを受けていたので、詮索をしていると思われるような発言は避けるようにしてもいました。

拘置舎も同じだったと思いますが通路の手前の方から順番に番号がついていました。2階の6番目であれば、206という感じです。これは受刑者の舎房も同じだったと思いますし、病院のような欠番はなかったはずです。最近は知りませんが昔は4という数字を使わないとか聞いていました。

拘置舎の独居は26まであったと思います。前にも触れましたが、受刑者の方は少し多くて28ぐらいあったような気がします。28だとすれば、私は3階の奥から2番目だったので、327の独居房にいたことになりますが、そういう番号も今は記憶に残ってはいません。

隣の一番奥の独居房には、地元金沢の暴力団関係者の人がいました。高齢に近いようにも見受けられましたが、その分、その世界での生活、経験も長く、付き合いや情報も豊富で、顔も広いという感じでした。年齢を聞いていたような気もするのですが、思ったよりは若かったような気もします。

独特の雰囲気のある人物でもありましたし、達人のような趣も感じられました。入れ墨を入れていましたが、それも随分と年季が入っている感じで、そのような世界での生活の長さを感じさせるものでした。入浴は工場全員で行われていたので、すぐにわかります。

金沢刑務所の方はけっこうな大浴場でした。福井刑務所の方は遙かに狭くて小さく、比較的少人数で交代で入っていましたし、待っている時間は長いすに座って、黙想をさせられていたように思います。今、けっこう黙想が多かったな、と思いだしました。目を開けてはならない決まりです。

今考えてみると顔や存在感は強く記憶しているのですが名前の方が出てこなくなっています。けっこうな回数、刑務所を出入りしているとも聞いたように思います。仮にZさんということにして説明をしたいと思います。

Zさんは私とは班も違っていて、通路の反対側の方によくいたと思いますが、工場全体のミシンの不調を直したりもしていたように思います。班長という感じでもありました。班は4つぐらいに分かれていたように思います。

ミシンのメンテのようなことをしていたので、願い出があって職員の許可が出れば、工場内のどこにでも行って、誰とも話が出来るという立場でもあったように思います。レクの時間であれば、誰とでも話が出来るので、特別なことではないとも思いますが、そういう面でも世話役的な人でした。

昨日辺りにも福井刑務所のことで雑役というのを書いたと思いますが、一般の人にはなじみのない言葉だと思うので、少し説明をしておきたいと思います。簡単に言えば工場内での世話役兼湖上担当の刑務官の秘書的なことをやっていて、会社の経理の担当者という感じでもありました。

計算工とも呼ばれることがあったように思いますが、この計算工というのは、刑務所全体の経理をするような人たちとも聞いたことがあります。3人ぐらいの少人数でコンピュータのある小さな部屋で作業をしているとも聞いたことがありましたが、刑務所全体の受刑者の個人情報に触れるとも聞きました。

工場内には担当台というのがあって、高くなったところから全体の見渡しも良くなっていたのですが、刑務官のいる場所です。その近くに雑役の作業スペースがありましたが、ごちゃごちゃと事務関係に必要なものは何でもあるという感じでした。

雑役の場合、他に受刑者の洗濯物を集めたり配ったり、食堂の掃除をしたりする本当の雑務のような人もいましたが、通常、雑役といえば工場の事務をやっている受刑者のことを指していたように思います。私本など物品の購入や交付の手続きもなっていたので、許可なく工場内を動いたりもしていたと。

Zさんは自分から人に話しかけるようなことは滅多にない感じでしたが、話しかけると返事以外にも会話に応じてくれるような人であったと思います。レクの時など、何度か話をしたことがありましたが、金沢の寺中町に住んでいると話していたと記憶しています。

金沢の寺中町というのは、とてもなじみのある場所の一つでした。中西運輸商の会社というか事務所があったからです。初めの頃は近くに駐車場がなかったので、会社の前の金石街道にトラックを停車させ、事務所に入っていました。

その後、金石街道を挟んだ道路の向かい側に、トラックの駐車の出来るスペースが出来たと記憶していますが、余り広くもなかったので、会社に立ち寄るための臨時の駐車場という感じでした。

事務所の方には必要最低限の用事にしか立ち寄らないように言われていたので、その分、自由でもありました。金沢市場輸送のように他の運転手の荷物の積み卸しを手伝えに行けと言われるようなことはなかったです。

中西運輸商の仕事のメインは佐川急便の広島・九州便でした。岡山、広島、山口、福岡が多かったです。前にも書いてあると思いますが、中西運輸商は配車の会社で、運転手は中西水産輸送の社員と言うことになっていました。

もともとは水産関係の仕事をやっていて、私がいた頃も数台の保冷車が残っていました。私自身、大型の保冷車にも乗務したことがありました。

初めの方は大洋まるは、の仕事をやっていたとも聞きましたが、白ナンバーで摘発を受け大打撃を受けたと聞きました。密告があったとも聞きましたが、窮地を救ったのが広島県東広島市にあった西日本運輸興業とも聞いていました。

私自身、一度その西日本運輸興業の会社には行ったことがありました。社長に頼まれ他の荷物と一緒に積んでいった贈答用の米俵を持って行ったのです。町外れの田舎のような場所だったと思いますが、かなり規模の大きい運送会社であったと記憶しています。

私は昭和59年の12月の20日頃から昭和61年の2月一杯までの間と、昭和62年の1月から3月ぐらいまでの間、の2回。中西運輸商にいました。2回目の時は大型車です。金沢市場輸送で乗務する大型車の空きがなかったことと、福井出身のYTに強く誘われたのがきっかけでした。

福井のYTに関しても本書において、かなりの紙面を割いて書いていると思いますが、どこまでどの程度書いているのか、時間の経過とともに正確には思い出せず、把握しがたくなっている部分もあるかと思います。重複は避けたいところでもありますが、ポイントはその都度抑えるようにします。

YTが金沢市場輸送をやめたあと守田水産輸送の仕事をするようになったことはたぶん書いていると思います。余り詳しい話はわからなかったですが、守田水産輸送の社長に手形の裏書きをしてもらって大型車を3台か4台購入し、運転手を雇うようになったと聞きました。

この辺りは初め本人ではなく噂話のような感じで誰かから聞いていたようにも思うので真偽の程もわかりません。守田水産輸送と似たようなトラックで仕事をしていたことは間違いなく、何度かそれらしいトラックも見かけていました。

守田水産輸送の保冷車とは少しデザインも違っていたように思います。はっきりしていたことは「都商事」と荷台の箱に書いてあったことです。保冷車で冷凍機付きだったと思いますが、当時珍しかった保冷のウィング車であったかもしれません。

この都商事というのは○西さんが現場責任者になっていたような、守田水産輸送の中継の仕事と同じという感じでした。中継は中央市場の一角で行われていて、4トン車がほとんどだったと思いますが、都商事という看板のようなものを見かけていました。

都商事という会社が二つあったとはまず考えられないのですが、その違いについては疑問に思いながらも、誰かに質問するようなことはなかったように思います。

もともと守田水産輸送というのは鮮魚の青森定期便をやっていた運送会社でしたが、青森の新生運輸とも関係があったようです。数ヶ月前なにかの機会にテレビニュースだったかで、青森の新生運輸のトラックを見かける機会がありました。見かける頻度も多く、大きい運送会社かと思います。

守田水産輸送についても金沢に似たような会社が3つあると聞いていた時期もありました。社長が兄弟であると小耳に挟んだような気もしますが、他の守田という運送会社は鮮魚ではなく、冷凍食品を運んでいたかと思います。

金沢市場輸送の仕事を始めた時分から守田水産輸送と言えば青森定期便というイメージが強かったのですが、それは大型車の話で、4トン車は冷凍魚を主に運んでいると聞いていました。過積載が当たり前とも聞いていました。

冷凍魚には主にイカの冷凍関係と、鱈のようなすり身の冷凍がありました。すり身の冷凍はカマボコなどの練り製品の原料となるもので、冷蔵庫の他、直接、カマボコ工場に持って行くこともありました。富山にもありましたし、金沢の市場の正面前あたりにもありました。

それは金沢市場輸送でも時たまする仕事でしたが、多くある仕事ではなかったです。すり身は東京の冷蔵庫から運んだり、仙台の冷蔵庫から運んだこともあったかと思います。あるいは逆に仙台の冷蔵庫に持って行きました。

まだ書いていないと思いますが、昭和59年当時金沢市場輸送の4トン車のメインの仕事が新潟への鮮魚の定期便であったことは書いていると思います、その仕事は金沢の丸中水産の仕事でした。当時は金沢市場輸送の数の多くない定期便の一つでしたし、毎日に近かったのはあれだけかもしれないです。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月05日


復帰寮の出入り口というのは長い通路の突き当たりになっていました。通常の通路沿いの居房であれば、左右の見通しに限界があるので、他の受刑者と話をしているときに職員に見つかるリスクも高かったです。

決まった場所や方法以外の受刑者同士の会話は「通声」ということで懲罰対象の規律違反になっていました。決まった場所とは食堂やレクレーションの講堂や運動場、決まった方法とは作業中における作業上必要な会話で、職員に許可を受ける必要がありました。

実際のところ、工場の作業中でも同じ班であれば、喋り放題に近いものがありました。「あげられる」と言いましたが、懲罰の前段階で取り調べに連行されることもありましたが、空気を読まなかったというかその場の状況で周囲が納得するようなタイミングで、職員に連行されていました。

居房内での通路越しの通声は、余りやらないことでもありましたが、見つかった場合は連行される可能性も高かったと思います。職員としても見逃しにくい状況と考えられるからです。工場ではほとんどが、お目こぼしでした。

私が金沢刑務所を満期で出所したのは平成13年12月31日でした。満期の場合は刑期満了日の翌日に出所することに決まっていると聞いていました。

満期日というのは判決が確定し、未決囚から受刑者の処遇になった段階で、具体的な日付が知らされていたと思います。私はずっとそれを平成13年12月21日と思い込んでいたし、そのように他の受刑者にも話していたと思います。

実際は出所する半月か20日ぐらい前になって、12月31日が出所の日になると知らされました。大事な日付なので間違って憶えていたはずもないのですが、紙に記録するようなものではなく、各自が頭で憶えていたものだと思います。

前もって満期日がわかっていれば、出所する当日に待ちかまえる人間が出てくる可能性のあるので、その辺りを配慮して職員が違った日付を私に教えていた可能性もあると思いますが、知らされたときは10日ぐらい損をした気分になって腹も立ちました。

金沢刑務所は再犯刑務所でした。大半が暴力団関係者とも言われていました。福井刑務所は初犯刑務所だったので、同じ刑務所でもいろいろな点で、まったく違うようなことがありました。

金沢刑務所ではハガキという習慣のようなものもありました。先に出所した受刑者が出所後の連絡を取るため、連絡先を書いたハガキを金沢刑務所に郵送するのです。郵送されたハガキは、出所の当日に、出所する受刑者に交付されます。

金沢市場輸送で長く一緒だった人物で、金沢刑務所で再会した人を以降Xと表記したいと思います。年下なので話しやすい相手でもありました。被告訴人HTNとは運転手をする前から面識があったようでした。更生の可能性もあるので、人一倍プライバシーの配慮も必要かと判断しました。

Xは、私が出所する2ヶ月か3ヶ月前に仮釈放で出所していきました。復帰寮にいたので通声をすることもありましたが、相手の方は仮釈放の取り消しにもなりうるので、私の方からも少ししか話をしませんでした。短い会話でしたし、何を話したのかも現在は憶えていません。昔話をすることはなかったです。

平成11年の事件では判決が確定したのが平成12年の9月の20日頃ではなかったかと思います。その後、分類審査を受け、金沢刑務所での受刑が決まってからも、2週間の新入教育がありました。5工場に配役されたのは、その年の11月の10日ぐらいだったように思っています。

私は11月生まれなのですが、金沢刑務所には誕生会というものがありました。その月が誕生日の受刑者が講堂に集まって、1時間程度の録画のテレビの放送を映画のスクリーンで見て、その時にコーヒーのような飲み物と、どら焼きのような饅頭も出たように思います。

刑務所では移動の際、必ず職員が付き添いましたが、それだけではなく、通路を歩くときは普通に歩くのではなく、行進をすることになっていました。一人の時は掛け声まではしなかったように思います。福井刑務所では一人の時は行進をしなかったようにも思います。

私は5工場でした。最近では見かけなくなりましたが、以前は一般社会でも割と見かけるような作りの工場らしい建物でした。その建物自体が2分されていて、通路から手前の方が5工場で、奥の方が6工場になっていました。

工場への出入り口は別になっていたはずですが、工場の中にも大きな仕切りの壁の間に扉があって、職員が6工場に出入りすることはありました。まともに6工場の中をのぞき見する機会はなかったのですが、そう広くはなく、全体の建物の3分の1か、4分の1のスペースかという感じでした。

私がいた6工場はだいたい60人前後で推移し、多いときで65人ぐらいだったと思いますが、金沢刑務所の中では一番人数の多い工場だと聞いていました。ミシン作業をする工場でした。

6工場の方は溶接作業をする職業訓練の工場だと聞いていました。人数も少なく、金沢刑務所の中で一番人数の少ない工場と聞いていたかもしれません。十数名と聞いていたようにも思います。

講堂からの誕生会の帰り、まず5工場の前で行進が立ち止まりました。職員が工場の出入り口の扉の鍵を開けるにも多少の時間が掛かります。その時に後ろから指でツンツンするような合図を受けて、振り返ったところ、Xがニコニコと笑っていたのです。

これは本当に驚きでした。まさかなぜこんな場所で、という疑問符で頭も混乱しました。Xに関する情報は、そのあとすぐに得ることが出来ました。

半年ぐらいと聞いたようにも思うのですが、何ヶ月か前までXは同じ5工場にいたと聞いたのです。福井刑務所も同じでしたが、同じ工場の受刑者が同じ雑居房で生活をするようになっています。

班が違っていましたが、以前Xと同じ雑居房で生活をしていたという受刑者からもXについて話を聞くことが出来ました。

誕生会というぐらいなので、その11月生まれの誕生会があったのは、平成12年の11月中であったと思います。工場での生活が始まったすぐあと、ということになりそうです。

そのあとだったと思いますが、どれぐらい後であったかは憶えていません。5工場内で、福井刑務所の2工場で一緒だったT班長が、6工場にいるとか6工場に入ったという話を聞きました。その後、運動会やソフトボール大会の時も注意深く見ていたのですが、直接T班長の姿を確認することはなかったです。

ソフトボール大会というのは工場対抗の催しでした。当然に運動場で行われるので、姿を見つけるというのは多少の無理があったような気もするのですが、6工場は人数も少ないので選手として出ていた可能性は高いとも思います。

離れたところからはそれらしい姿を見ていたことも考えられますが、間近に見たという記憶は全く残っていません。

他にバスケットボール大会というのもあったように思います。あるいは卓球大会というのもあったかもしれません。どちらも講堂で行われるので、探し出して姿を確認するのは、運動場よりはるかに容易だったと思います。講堂はかなり狭かったです。

そういうことも加味して考えるとT班長が6工場に入ったという話を聞いたのは平成13年の秋以降であったかもしれません。しかし、その話を聞いてからXが仮釈放で出るまでは、けっこう期間があったような気もします。

Xの仮釈放についても事前に情報を得ていたように思います。本来、同じ工場内での会話や情報のやりとりは容易でしたが、別の工場となると機械も大幅に限られていたと思います。たとえば各種講座の機会でしたが、それも一月に1回しかなかったように思います。

別のルートでの情報の流れはあったと思いますが、金沢刑務所の方が福井刑務所より難しいようにも思えていました。福井刑務所では講座の機会も多く、工場単位ではなく、舎房の階数単位でのレクリエーションの機会もあったからです。

福井刑務所が雑居の南寮と独居の北寮という建物に分かれていたことは既に書いているはずです。また、南寮の4階は2級生が生活するということにもなっていました。つまり3級生と4級生は同じ舎房に生活していましたが、2級生になると4階に上がって別の舎房に移ることになっていました。

北寮も4階建てでしたが、4階は特別な区画で準1級者生活する場所があり、親和寮と呼ばれていたように思います。累進処遇制度では1級まであると聞いていましたが、これは例外中の例外で福井刑務所には一人もいないと聞いていました。名古屋刑務所では少数いるとも聞いたことがあります。

親和寮の準1級者のほとんどは外部の一般の工場に通勤しているとも聞いていましたが、私がいた2工場で初めから長い間、雑役をしていた人は親和寮にいる準1級者でした。仮釈放の本面接から半年以上工場にいるとも聞いていました。

本面接から2週間ぐらいで釈前教育に入るのが相場とも聞いていたように思います。あるいは3週間です。釈前に入ると2週間後には仮釈放で娑婆に出られることが約束されていると聞いていました。

仮釈放にはカリメンと呼ばれる仮面接とホンメンと呼ばれる本面接がありましたが、ホンメンに入る前にはパロールと呼ばれる、アンケート用紙のような書面の記入と提出がありました。雑居房にいるとき現物を見たことがありました。夏休みの宿題のような感じで、記入の分量も多くなかったです。

福井刑務所では、そのカリメンだけを受けました。病気なのかとも思いましたが小学生のような体の大きさの若い面接官でした。再審の請求をやっているというだけど、驚いたような呆れたような顔をしていました。言いたいことをぐっとこらえたようにも見えましたが、真意は測りかねました。

金沢刑務所ではカリメンすらなかったと思いますが、ちょうど刑務所の収容過剰が社会問題のピークになっているような時期で、再犯刑務所でも現役の暴力団員以外は、積極的に仮釈放の恩典を与えられているという感じでした。

現役の暴力団員であっても脱退届を出せば、仮釈放の対象になるという話で、個別に脱退のための相談や指導も行われていたようです。私の場合は、出所後の生活についてもなんの相談もないまま、仮釈放の話が出ることもなかったです。

もともと他の受刑者と立場が違うと言うことは刑務官の側でもよくよくわかっていたと思います。特別な意味のあるような演出や講堂も続き、警察のスパイではないかと疑いを掛けられることもありました。

そういう中には暴力団の組長という人も何人かいましたが、普段から会話をすることも多かったので、目的は被告訴人TSKらにあると思います。外で調べればすぐにわかると思いますと、説明していました。あえて注目を集めるような立場にも置かれていたのだと思います。

金沢刑務所は金沢市内にありますので、地元の暴力団と金沢刑務所で服役した他の都道府県の暴力団員との交流という話も聞きました。暴力団員の出所祝いには大勢で出迎えをするとも昭和57年の頃から具体的な話を聞いていました。

一方で地元の暴力団員と他の地方の暴力団員の間にトラブルがあったとも刑務官に聞かされていました。それまで工場内での自由時間のようになっていた休憩時間が、2階の食堂に集まって席に着いた状態で行われるようになっていて、そんな理由があると聞かされていたのです。

同じ金沢刑務所でも5年ほど前とは、処遇がずいぶんと変わったという話も受刑者から聞いたように思いますが、施設毎の違いだけでなく、上になった人の考えや方針でも、処遇がまるっきり異なることがあると、刑務官からも聞かされていました。

福井刑務所の北寮ですが、1階は金沢刑務所の2階建ての建物と同じようになっていました。ただ、昼夜独居というのは見かけなかったと思います。精神的に問題が大きいと判断される場合が多いとも考えられるので、医療のために医療刑務所に送られることが初犯の場合はより多かったのかもしれないです。

北寮の一階は「キタイチ」と呼ばれていました。取り調べや懲罰の代名詞のようになっていましたが、奥の方は満期釈放前の釈前のための独居として使われ、私も満期前はそこで生活をしていました。多少の教育もありましたが、ほとんどは独居の中でテレビを見て過ごしていました。

仮釈放の場合は、親和寮と同じ北寮の4階で生活すると聞いていましたが、私には縁のない話でした。ただ、一度だけ何かの機会に、北寮4階の中には入ってことがありました。通路に入っただけだったので、部屋の中を見ることはなかったです。

福井刑務所に移送されたのは平成6年の3月17日であったように記憶しています。1週間か10日、あるいは2週間の間は分類審査として、北寮2階の奥の方の独居房で生活をしていました。カーテンのカタログにサンプルの生地を貼るような作業をしていました。

そのあとに新入教育がありましたが、4人で受けていたと思います。1工場の中で軽作業をやりながら、色々と教育を受けていました。ここでも行進の訓練が多かったと思います。レクリエーションの時間は、他の受刑者と同じように過ごしていました。

レクリエーションは一般社会では全く聞いたこともないなじみのない言葉でしたが、運動を含めた自由時間です。天気が良ければ外の運動場で、雨など降っていれば講堂で行われていました。冬の間は、風邪の流行防止もあったのか、全く外には出れなかったようにも記憶しています。

金沢刑務所の方では冬でも運動場の土の状態がよければ、外に出ていたようにも思います。思えば、福井刑務所の方が風邪になる人が多かったように思います。風邪で薬をもらうと、禁止ではないと聞きましたが入浴を辞退させられることになっていました。

福井刑務所の方が保護的にも思えそうですが、金沢刑務所とはとんでもない違いが一つありました。それは免業日と呼ばれる休日に行われる理髪でした。日曜日と決まっていたようにも思います。3週間に1度ということにもなっていたと思います。

バリカンで坊主頭にするのですが、舎房に戻ってから中の水道で頭を洗ってもよい、ということになっていました。雑居房にいたのは半年の間だけで冬でもなかったですが、理髪の後、頭を洗わないという人は見かけなかったです。

使い回しのバリカンで頭を刈るということもあり、私は必ず頭を洗っていました。独居の場合は水の出方も弱く、洗面台も小さかったので、余計に時間も掛かりましたが、真冬のどんな寒い日でも、水道の水で頭を洗っていました。洗面台と言っても便所の手洗いと同じです。

金沢刑務所では入浴の直前に、講堂で理髪を行っていました。福井刑務所の場合はバリカンを持つ人も決まっていましたが、金沢刑務所では各自で相手を見つけて刈りあっていました。すぐに入浴も出来るので、言うことなしでした。

金沢刑務所の入浴場は講堂の前にありましたが、広くて新しい浴場でお湯の出方も抜群だったように思います。福井刑務所の方は古くて狭い、まるで保育所のプールのような浴槽でした。全体的なお湯の量も少ないためか、垢かフケのようなものが、銀輪のように大量に煌めいていることもありました。

しかし、不思議とそういう不満というのは耳にすることもなかったです。なかにはご飯に小蠅が交じっていても刑務官に申し出ることもなく、よけながら食べている人もいました。学校での坊主頭が人権侵害だと弁護士が騒いでいる時代にも近かったと思います。

金沢刑務所の新入教育は教育のための部屋で行われていました。7人ぐらいいたような気がします。ちょっとしたお堂のようなイメージのある部屋でしたが、なかにトイレもありました。水の節約のために小便は全員で行い最後の人が水を流すようにも指導を受けていました。

本当は全員が同じ雑居の居房で生活していたようですが、私だけは別の独居で生活していました。御庁つまり金沢地方検察庁に提出するための上申を作成していたからという理由もあったとは思います。

拘置所も同じでしたが上申書のような書面を作成するためには、認書(にんしょ)作成、という許可が必要でした。許可が必要なことは他にもいろいろありましたが、「願箋(がんせん)」という定型の用紙に書いて提出するのがお決まりになっていました。

まだ分類審査中に認書作成の願箋を出していたのだと思いますが、新入教育が始まってすぐに許可がおりたというのも、普通はあり得ないことかと考えていました。

認書の作成はその後も何度もやっていたと思いますが、再審請求をしたようには憶えていないので、その全ては御庁への上申書ではなかったかと思います。

認書の作成には50枚が一冊になった縦書きの全罫紙を使っていたと思います。カーボン紙を使って控えをとるようなことは一度もなかったと思います。私の手元にもなにも残っていません。

まとまった記述が出来るのは土日祭日の免業日だけでした。一日に何枚ぐらい書いたか今は思い出せなくなっていますが、とにかく文字の隙間なくびっしりと書き詰めていたと思います。読みづらいのはわかっていましたが、一文字の追加も出来ないようにしました。

Xの仮釈放の釈前教育は3人だったと思います。前に少し触れているはずですが、一人は金沢中警察署の留置場で同じ部屋で生活していた人でした。金沢中警察署に逮捕されたのは平成11年8月12日だったと記憶しています。

初めの20日ぐらいは東京の山口組の暴力団員の人と二人で同じ部屋にいました。その人が不起訴で出て行って、まもなく入ってきたのがその人でした。実名を書くつもりは当然ありませんが、考えてみたところ長く思いだすこともなかったので、名前が浮かんでこなくなっています。

思いだしました。金沢近郊のある地名と同じ3文字の名前でした。年は私よりけっこう上だったようにも思いますが、見た感じも若くて余り年の違いを感じずにいたように思います。元暴力団とも聞きましたが、刑務所も5回目になるというような話だったと思います。

多少関連する可能性もあるので外せないですが薬物関係の人でした。どこかサウナにいたところいきなり逮捕されたような話でしたが、警察の都合と気分次第で逮捕されたようにも思えるような話で、本人もしっくりこない逮捕だったようです。

初めは冤罪とか言っていましたが、薬物反応が出たと刑事に言われると、すっかり観念した様子でした。二人っきりで同じ部屋にいた時間も長かったので、いろいろと会話もありましたが、今となってはほとんど記憶にも残っていません。

平成4年の事件に比べて残っている資料も少ないので、はっきりしたことはわかりませんが、金沢刑務所の拘置所に移送されたのは9月の20日頃ではなかったかと思います。不本意ではありましたが、一度行って慣れてもいるし、今回は人の命の問題もなかったので、気も楽に拘置所に入ったと思います。

福井刑務所にいた体の大きな刑務官に会ったときは、少々驚きましたが、そういえば逆に金沢刑務所の拘置所でよく見かけていた刑務官が、福井刑務所に来たと言うこともありました。すっかり忘れていましたが、ふと思いだしました。

金沢中警察署で一緒だった人のことを仮に、「金沢中警察署で一緒だったT」と表記することにしたいと思います。少々長くもあるので、文脈で通じる場合は、省略するか単にTと表記したいと思います。書くことは多くないです。

Tさんとは拘置舎でも1,2度顔を合わせるようなことがあったと思いますが、集団の運動にでも一緒にならない限り、会話はできず、受刑者より監視ははるかに厳しかったので、片言の言葉を交わすのも難しかったと思います。

受刑中、なにかの機会で姿をみることがあり、同じ金沢刑務所での服役になったと思っていたのですが、ある機会に割と長い話をすることが一度だけありました。

その部屋は、受刑者が購入した本や雑誌の仕分け作業にも使われている部屋でした。何度か入ったことのある部屋だったのですが、そこで床に体育座りをするような場面があったのです。かなりの数の人がその場にはいたと記憶しています。

人数も多かったので、近くによって目立たないように会話をすることも出来たのです。そういう部屋の中で体育座りをするような機会は他になかったと思うのですが、なぜそこに集まったのかを含め、前後のことが思い出せません。

何年の刑を受けたというような話を聞いたようにも憶えていますが、会話といってもそんな内容でした。何工場にいたのかも当時は知っていたと思いますが、今はそれも思い出せなくなっています。

そういえば当時の金沢刑務所では同じ工場で、ホンメン後1週間で釈前に入ったという人もいたように思います。

釈前に入るときは、それらしい温厚そうな刑務官が迎えに来て、担当が本人を呼んで荷物をまとめされるというのが、福井刑務所でのお決まりのパターンでした。刑務作業中の工場で、人知れず迎えに来た刑務官とともに去っていくというのがよくある光景でしたが、見落としていなくなっていたということも。

金沢刑務所ではまるで事情が違っていました。刑務官の迎えがあるのは同じでしたが、その場所と時間が決まっていました。昼食の後の昼休み時間の間でした。場所は屋根裏部屋のような工場2階の狭い食堂です。

誰かに促されるようなことはなく、当然のように階段の出入り口の前に立って、最後の挨拶をするのが恒例でした。長くでも30秒以内だったようにも思います。簡潔な挨拶でしたが、同じように大きな拍手で見送られていました。仮釈放も満期出所も同じです。

Xがそろそろ仮釈放になるという情報は事前に知っていたように思います。同じ頃に同じ5工場から仮釈放になるという人もしっていました。年は同じぐらいで埼玉県の人だと知っていましたが、ほとんど言葉を交わしたことのない人でした。無口なタイプでもありましたが、私のことも知っていたはず。

ちょっと気になる話も耳にしていましたが、人のプライバシーに触れるのは必要最低限にしたいと考えています。ただ、その後のXとの関係については、

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月04日


金沢刑務所の拘置所ではすべて2階で生活していました。ずっと独居ですが、雑居房というのは3つかあるいは2つしかなかったので、ほとんどの未決囚は独居で生活していたと思います。

拘置所の建物の入り口にはわかりにくい感じですが小さく「拘置舎」という看板のようなものがついていました。同じ金沢刑務所の敷地内ですが、正門に近く、正門から左手に唯一見えるのも、その建物だけではなかったかと思われます。

病舎の次には2階建ての建物がありました。2舎と呼ばれていたような気もしますが、通常の受刑者が生活する場所ではありませんでした。すべて独居だったと思います。

まず、未決で判決が確定した受刑者が、拘置所から連れてこられて分類審査を受けるための生活をする場所でした。他に、受刑者が取り調べや懲罰を受ける場所でもあったと思います。懲罰の場合は、わかりやすく札のようなものがつけられていたと思います。

他に、満期で出所するまでの間、生活する場所でした。他に「昼夜独居」という札のついている居房もありましたが、分類審査で通常生活が適切でないと判断された受刑者が、昼夜を問わず一日中、独居房で生活していたようです。

禁固刑と異なり懲役刑は労役刑なので、工場出役が大原則でした。工場にて刑務作業をすることで累進処遇制度の対象となり、居房内でテレビを視聴できたり、慰問に参加することも出来ました。昼夜独居の場合はそういう処遇もなかったようです。

私が金沢刑務所における受刑中に生活したのは3階建ての建物の3階でした。3舎3階とも呼ばれていたように思います。建物の長さは敷地の状況から拘置舎とほぼ同じだったと思いますが、浴場などなかった分、部屋数は少し多かったのかもしれません。

ただ、3舎3階の場合は、突き当たりに特別なスペースの一区画がありました。「新生寮」か「復帰寮」というような大きな看板が掲げられていたと思いますが、はっきりした名前は忘れてしまいました。説明の都合上、以降、仮に復帰寮と書くことにしたいと思います。

私はずっと、その復帰寮の出入り口から二つ手前の独居房で生活をしていました。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月03日


あらためて長い時間思いだしてみたのですが、M君の父親の仕事についてははっきり思いだせないです。仕事でトラックの運転手をしていたということは間違いないですが、荷物を配達するような仕事ではないというイメージでした。ゴミ回収については割り引いて半々かなと思います。

仲のよい親子という印象も強かったですが、ずいぶんと大人しく優しい父親という印象もできあがっていました。実際に見た憶えはないので、全てM君の話から伝わるものであったと思います。母親の話は余り聞いた憶えがないですが、不満を口にするようなことはなかったと思います。

M君の妻は毎日のように車で送り迎えしていたので、それで顔を合わすこともあったと思いますが、車の中に乗っている姿を見たり、注意深く観察したことはありませんでした。

それでも一度は被告訴人KYNの家に上がって、話をしていたことがありました。女性としてはかなり大柄で、体型的にも女子プロレスラーにいそうな感じでしたが、デブという感じではありませんでした。愛想よくニコニコと話していましたが、客商売で慣れたような感じにも見えました。

実際に水商売というか飲み屋で働いていたという話も聞いたようにも思いますが、現時点では記憶に確証は持てないです。M君は妻との出会いというか馴れ初めについても話していたことがあったようにも思いますが、そこにも飲み屋が出てきたような気がします。

具体的な店の名前を挙げていたような気もするのですが、聞いた時点でも知っているような店ではなかったように思います。ただ、これも記憶に自信は持てませんが、間明のスナックのように受け止めたような印象もかすかに残っています。

被告訴人KYNの黒田一丁目の自宅兼事務所から自分が住んでいた北安江の借家に帰るのに、間明を通ることがほとんどだったとも思います。朝は違った道を通ることがあったようにも思うのですが、朝の方が時間も早く車も空いていました。7時の出勤ではなかったかと思います。

大きな交差点の渋滞を避けるために間明を通ることが多かったように思います。間明自体が大通りの野田専光寺線に面していますが、そうではない住宅地などがある路地の方です。

M君の妻は実家が、その間明か東力あたりにあると聞いていました。これもはっきりしたことが思い出せなくなっていますが、あるいは入江です。いずれにしても高岡中学校の校下であることは間違いなさそうでした。

校下という言葉に聞き覚えがあって使ったのですが能登ではなく金沢で聞いたように思います。ネットで調べたのですが学区とか校区というのが本来的な言い方で、校下は金沢弁の方言であるような情報も、検索結果に見られました。

M君の妻というのはM君より二、三年上と聞いたようにも思います。私自身計算をしてみたのですが、被告訴人YSKと被告訴人TTKのいずれかと同級生ではないかと思いました。

現在の私の記憶ではM君の当時の年齢もはっきり思い出せないのですが、24歳だった可能性が最も高く、ついで25歳ではなかったかと思います。26歳以上と言うことはまずなかったと思います。20代前半だったという印象が割と強く残っています。

被告訴人YSKは家が東力だと聞いていました。平成10年頃には大きな本屋が出来ていましたが、家はちょうどその裏あたりにあるようでした。供述調書に住所があったので少し調べたこともあったのですが、家までは特製しませんでした。

被告訴人YSKの年は、被害者AAさんと同じだと聞いていたので、私より6つ年下だと思っていました。供述調書でも生年月日まで確認していなかったようにも思いますが、昭和45年生まれだと思います。学年としては昭和46年の3月までの可能性はあるかと思いますが、46年とは見かけていないとも。

被告訴人YSKは供述調書を作成した平成4年4月の時点でも21歳になっていたと思います。昭和45年8月生まれの被害者AAさんも21歳になっていました。

同じく平成4年4月に金沢西警察署で供述調書を作成した被告訴人TTKは19歳になっていたと思います。もともと被告訴人YSKより二つと下だと聞いていました。平成3年の時点でも被告訴人TTKは自ら19歳だと話していました。

金沢弁(校下) http://www.sakane.net/kanazawaben/kouka.htm ← やはり金沢独自の言葉であるようです。文化や伝統的にも私の育った能登とは、色々と違いもあると思います。まず、中学校の生徒の規模がまるで違うと聞いていました。

被告訴人TTKは知り合った頃より間明に家があると話していました。もっとも被告訴人TTKに関しては、事前に被告訴人YSNに仕込まれていたというか聞かされていた情報が多かったです。

すでに書いていると思いますが、被告訴人YSNが市内配達の仕事を始めた頃、被告訴人TTKは免停中で、同乗しながら配達コースの指導をしていたからです。内灘・高松コースと聞いていました。これだけ見ると金沢市ではなく河北郡でした。

そういえば2,3日前のテレビの石川県内ニュースで、市町村合併のさきがけとなった「かほく市」が10周年とやっていましたが、その時初めて、宇ノ気町、七塚町、高松町の3つが「かほく市」になったとしりました。以前は津幡町もかほく市になったのかと勘違いしていたこともあったと思います。

本書を作成しながら一月ほど前にふと思いだしたことですが、金沢市場輸送に被告訴人MHKが来た頃、七塚町の出身とか、七塚町の人間だと聞いたことがありました。

私が高校を中退して初めて金沢に出てきた昭和56年の夏、知り合った女友達の一人が、七塚町と話していました。家はどこというような問いかけに対する答えでしたが、七塚町というのを知ったのもそれが初めてだったと思います。

今初めて気がついたのかわからないですが、同じ七塚町だという女友達は、被告訴人MHK社長と同じ姓でした。徳川幕府の殿様によく出てくる名前なので全国的にも多い名前だと思いますが、金沢では他に聞かなかったと思いますし、能登でも聞いた憶えはありません。

以降、その女友達のことを七塚のMKという表記にしたいと思います。年は私より一つ年上で、知り合った昭和56年の8月当時、17歳でした。もともと被告訴人OSNの知り合いというか友達だったようですが、近くの小さな家をたまり場にする暴走族の一員でした。

より正確に言うと、ある暴走族のレディースの一員でした。サブリーダーとも聞いていました。その後摘発された新聞では、暴走族の服を着た姿で首から下の写真が掲載されていました。

七塚のKYは知り合った頃から、東金沢の方に家のあるMSと特に仲がよくいつも一緒にいました。MSは被告訴人OSNと付き合うようになったのですが、まともな男女の付き合いではなかったようです。それでもたまに連絡を入れたりはしていたようです。

私が金沢市浅野本町のアパートに住んでいたのは昭和57年の1月から4月頃の3ヶ月ぐらいだったと思います。その頃には何度か被告訴人OSNと二人でアパートに来ることもあったし、割と近いところの喫茶店で働いていたので、何度かその店に行くこともありました。

実家に近い場所の喫茶店で、その頃からすっかり落ち着いた生活をしているという印象でした。私も忘れた頃に、家に電話を掛けて話をすることがありました。会うこともありましたが、二人っきりで会うことはなかったです。

一方の七塚のKYですが、その後もヤクザの情夫のような生活を続けていたようです。住んでいる増泉のアパートに一時期被告訴人OSNらと何度か行ったことがありましたが、ヤクザと同棲しているという話でした。

ちょうど、その頃に共通した昔の友達というか知人が、入江の王様の本の前で起きた死亡事故に関連するということもありました。死亡した人間が運転していたように偽装したことが発覚したとかで、新聞にもニュースとして出ていたように思います。

七塚のKYがヤクザというか暴力団員と付き合い、同棲していることは聞いていましたが、具体的にどこの組員とか構成員という話は聞いていなかったと思います。根っからそういうヤクザの世界が好きな女とも思いました。

七塚のKYもそうだったと思いますが、東金沢のMSが私が知り合うより前に、被告訴人HTNと付き合いがあったということも被告訴人OSNから聞いたことがありました。

「王様の本」というのは金沢周辺に数店舗ある大型書店でしたが、平成17年ぐらいに全部が倒産しました。私が羽咋市に住んでいることで羽咋の店にもよく行っていたのですが、ある日店が閉まっていて破産管財人のような弁護士の張り紙があったので驚きました。

KYの増泉のアパートに行ったりしていたのは昭和57年の春頃かとも思います。その年の秋には私は名古屋に行っていたので、やはりそうなるかと思いますが、しっくり記憶の整理ができない部分もあります。

同じ頃ではなかったかと思いますが、宇出津の後輩らを連れた被告訴人OSNらが金沢で、流浪のような生活をしていた時期がありました。私も一緒にいたこともあるのですが、随分とお腹を空かした記憶も残っています。ちょっと前に栄養失聴者が出たという観音堂での被告訴人YSNとの生活以上でした。

とんでもない生活だったので私は極力それを避けるようにもしていたのですが、金沢の入江あたりで被告訴人OSNらがガソリンを盗んでいて警察に捕まったという話を聞きました。結局、お咎めなしで放免されたように聞きましたが、関係した人の口が重い雰囲気で、詳しいことを聞くことはなかったです。

被告訴人OSNは当時まだ試験観察中とも聞いていたので、よく警察が返してくれたものだと思っていましたが、周囲が異様に口の重い雰囲気で、相当のことがあったのかと想像しました。警察の度肝を抜くような謝り方をしたとか、そんな感じです。

その頃だったと思いますが、被告訴人OSNは同級生で被告訴人HTNと同じ真脇のSといつも一緒に行動するようになっていました。真脇のSさんは、水産高校小木分校の一つ先輩でもありました。学校時代は真脇の家にも何度か遊びに行った憶えがあります。

私個人としては部活も違うし、さほど親しい間柄でもなかったので、誰かと一緒に行っていたと思うのですが、それも思い出せなくなっています。同じ小木分校だった被告訴人KYNの方が、学校時代は親しい感じではあったと思いますが、卒業後の付き合いというのは記憶にないです。

民宿やまじゅう - Google マップ http://bit.ly/1bZVHho ← こちらの店だったと思います。ストリートビューでみたところ、右手の方に「海宝」という海鮮レストランか居酒屋のようなお店が見えますが、この建物は平成20年頃にも見ていなかったような気がします。

もう少し羽咋市の方に行った右手にパチンコ屋があって、その手前に弁当屋がありました。羽咋市から金沢市に行くときや帰り道に、その弁当屋で弁当を買って車の中で食べるということが何度かありました。

「やまじゅう」という店の名前も全く記憶になかったので以前は別の名前になっていたのかもしれません。ちなみに、「やまじゅう」というのは東北便の塩釜における荷物に多かった練り製品の会社だったので・・・。いや、それは「なべじゅう」だったかも。まあ、似ているので印象にも残ったかと。

やはり、なべじゅう、ではなく、やまじゅう、だったような気もするのですが、商品の箱には「津久浦水産」とも書いてあったように思います。おでん種の練り製品でしたが、カマボコ類では荷物の量も一番多かったように記憶しています。目立つパッケージでもありました。

次いで記憶にあるのが水野水産ですが、こちらは現在もどんたく宇出津店で商品を見かけています。店に売っているおでん種では一番、高級感もあり値段も高いという感じの商品です。

Googleマップで調べたところ「やまじゅう」という民宿になっていますが、私の記憶ではこのように大きな民家の一階が広い店になっていたというイメージです。海鮮をメインに強調している店ということは、外から見てもわかりましたが、中にはいるとほとんどが座敷で、居酒屋という感じでした。

その店に入ったのは一回だけでした。平成9年1月18日、福井刑務所の満期出所に迎えに来た被告訴人OSNが運転するワゴン車でその店に入ったのです。私の母親の都合で羽咋市内まで送ってもらうところでした。

気になったのはその前の彼らの行動でした。店は唯一の主要道とも言える国道159号線沿いにあったはずなのですが、初めに海の方に向かって入っていったのです。漁村の中の大通りから外れた道という感じでしたが、珠洲市の蛸島とよく似た風景でした。

何かを探している様子だったのですが、被告訴人OSNと被告訴人OKNと被告訴人KYNの3人の間で、あれこれ言葉を交わし、国道の方に戻って入ったのが、その店でした。食事のための店を探しているという話も、事前には出ていなかったと思います。

福井から高速道路である北陸道に乗っていたと記憶していますが、どこのインターで降りたのかは思い出せなくなっています。羽咋市に最短で向かうのであれば金沢東インターで降りていたと思います。

金沢東インターを降りてすぐのところにトラックステーションがあってなかにレストランもあったと思いますが、一般の人は余り入らないような店だったとも思います。そのまま津幡方面に国道8号線を走れば、店の数もありますが、遠回りにもなるので普通は選択しない道です。

農面道路を走って宇ノ気で国道159号線に出たと思います。少し走ると道路が大きく右にカーブしていて、そこを直進すると能登有料道路の白尾インターでした。カーブして直進すると、しばらくの間は片側2車線の広い道が続いていました。

そして対面通行の絞り込みが始まるあたりに、その海鮮の店がありました。しかし、その片側2車線の区間は平成9年1月の時点ではまだ出来ていなかったことも考えられます。

どこをどう通ったのかも憶えていないですが、漁村のような狭くて古い町並みの道路に出てから、海鮮の店のすぐ近くの国道に出たことは印象的に憶えています。とりあえず海鮮の店としましたが、大漁旗の飾りが店の前にあるようなずいぶんと目立つ店でした。

そういう店というのは他にも見た憶えがなかったのでずいぶん珍しく思いました。4年10ヶ月ぶりにいわゆる娑婆に出た直後でもありましたが、それだけ印象に強く残っています。店の中も客が多く、昼間だというのに随分と賑わっているのも印象的でした。

もう少し金沢寄りの宇ノ気は、クチ能登、とも聞いていました。これは福井刑務所にいるとき被告訴人YSNの知り合いでもあるY班長に聞いて初めて知ったことなのですが、能登の入り口という意味だと聞きました。

羽咋市内ですら能登という感覚が乏しかったのですが、高松を含む河北郡内灘町が能登と考えたことはなく、管沢の郊外のように考えていたので、それだけ意外だったのですが、歴史的には宇ノ気が能登路の玄関になるようです。

いずれにせよ高松あたりからの国道159号線はうらぶれ感も強かったので、あの派手な海鮮の店は意外でした。なお、能登の観光自体が昭和40年代辺りをピークに、ずいぶんと廃れています。廃墟になった店も国道沿いに散見されていました。

海鮮の店では何かのフライを食べたような憶えもありますが、食欲もなかったし、余り食べなかったと思います。支払いの代金は被告訴人OSNが払っていたような気もします。一応の出所祝いなのかと、感謝すべきとは思いました。

天候もどんよりしていたと思いますが、雨も降っていなかったように思います。ただ、福井刑務所の前で彼ら3人と会ったときから、理解のできない重苦しい空気を感じていたので、食欲も出なかったのかもしれません。

尋常でない重苦しさがありましたし、そもそも事前に被告訴人OSNらが迎えに来るとも知らされてはいませんでした。今思えば、木梨松嗣弁護士の接見にも似ていたと思います。連絡なしのいきなりです。

そもそも出所前には刑務所の職員から鉄道の切符を受け取っていました。国の制度的な補助で切符が出るような話は少し耳にしていたこともあったので、驚きはしませんでしたが、切符の行き先には、疑問を感じました。和倉温泉駅になっていたからです。

和倉温泉駅は七尾駅の次だったと思いますが、急行も止まる主要な駅だったと思います。しかし、七尾駅のように乗り換えの路線はなかったと思います。当時はまだ、宇出津駅まで鉄道がつながっていました。平成17年辺りに穴水駅より先が全て廃線になりました。

普通免許を取って車に乗るようになってから鉄道に乗ることはほとんどなかったと思います。水産高校小木分校に通学していた頃は、まだ国鉄だったと思います。列車も5両編成が普通だったと思います。

5両編成の昭和50年代でも、宇出津から金沢への直通というのはなかったか、あるいは少なかったと思います。穴水や七尾で乗り換えていたと記憶しています。

鈍行と急行がありました。鈍行は各駅停車で金沢まですべて鈍行で行った場合、昭和56年当時で1500円ではなかったかとも記憶しています。

私の方から申請をしたつもりも全くなかったのですが、出所する数日前に職員が来て、切符を渡す手続きをしました。そのまま居房内での所持は出来ないので、渡されたのは出所の時だったと思いますが、同時に必要ないだろうと言われ、没収のようなかたちになったとも思います。

満期出所の場合は出所する一週間前に工場を出て、釈前に入ったと思います。仮釈放の場合は2週間前で、2人から4人ぐらいのグループで、特別な区域に入り、そこで教育を受けながら、比較的自由な生活を送っていたようです。

これは金沢刑務所も同じでした。まだ書いていないと思いますが、金沢刑務所では金沢市場輸送の運転手仲間であった一人と再会し、私より先に仮釈放で出て行きました。一緒に釈前を受けていたのは、金沢中警察署で一緒だった元暴力団員でもありました。

金沢刑務所では新入時の新入教育の時も私は雑居房での集団生活を送らず、独居房で生活していましたが、工場に降りてからも独居房で生活していました。夜間独居とも呼ばれる生活です。これは希望者も多いと聞く生活でしたが、受刑者本人の希望で許可がおりるものでもなかったはずです。

福井刑務所の場合、舎房は大きく南寮と北寮の二つに分かれていました。通路でつながった別棟でしたが、どちらも4階建てで、南寮の方は雑居房ばかり、北寮の方は独居房ばかりになっていました。

金沢刑務所の方は建物が5つぐらいの棟に分かれていました。1階建てから4階建てまで、拘置所のある拘置舎の方から、高さが順番に違っていました。拘置所で生活していた頃は、東南アジアかネパールの遺跡の建造物のようにも見えていたのですが、受刑するようになってよく理解できました。

拘置舎に近い1階建ての建物は病舎だったと思います。この間にはけっこう広いスペースがあり、拘置舎側の手前の方は拘置所の運動場もありました。運動場といっても鉄線のような柵で囲んだ砂場のようなスペースでした。そういえば昔よくあった鉄線のような柵はまるで見なくなりました。

手前の方には扇形の個室の運動場がありました。問題ありと判断された未決囚は、集団ではいる運動場ではなく、個室の方で運動をするようになっていました。私も保護房に入れられてからは、ずっと個室に入る扱いを受けていました。

金沢刑務所の拘置舎は3階建ての建物でしたが、一階の手前の方に女子の収容スペースがあり、なかほどに職員室と隣に狭い取調室があって、その隣にあるのは集団ではいる浴場でした。その奥に雑居房が3つ並んでいたと思いますが、あるいは2つです。

二階には手前の階段の横から雑役の作業室のような狭い部屋があって、それから一人用の浴場が二つ並んでいたと思います。その隣には理髪の部屋がありました。その隣からだったと思いますが、独居房が26室並んでいました。一番奥にも右側に降りる階段がありました。

三階も二階とほぼ同じ作りだったと思います。理髪室がもう一つあったとは考えにくいですが、浴室の数も独居房の数も同じだったはずです。3階にはたまに入浴で行くことがありました。ほとんどは2階の浴場に入っていたのですが、同時進行で早く終わらせる場合に、割り振られることがあったようです。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月02日


昨日、ピアノ運送のあった場所について調べていたところ一つの問題に気がついてのですが、私は長い間、一つの勘違いをしたまま30年以上生活してきたように思いました。それは金沢市の上荒屋という住所についてのことです。

もともと金沢市で市内配達の仕事をしていた頃も、金沢市内の地図を見るということはなかったと思いますし、トラックに地図を置いておくということを考えたことすらなかったと思いました。

Google マップ http://bit.ly/1g1A4sI ストリートビューで場所を確認しました。アパートそのものは新しい建物になっていますが、周辺の状況は昭和57年当時ともさほど変わっていないように思えました。「ジャスミン」というアパートになっているようです。

住所はやはり「石川県金沢市南塚町11−1」となっているようですが、私は昭和57年から昨日までずっと金沢市上荒屋だと思い込んでいました。

このアパートの前の道を入っていったあたりが上荒屋で、ちょっと左の方に進路を取って行くと、みどり団地になるという認識でいました。

このアパートは昭和57年の春先頃から宇出津の二つ年下の後輩が住んでいましたが、けっこう長い間たまり場のようになっていて、何度も遊びに行っていました。皆、そのアパートのことを上荒屋のアパートとも呼んでいたように記憶しています。

このアパートに行くときは8号線バイパスの松島北の交差点の方から来ていたと思います。松島北の交差点は陸橋の高架下になっていたと思いますが、野田専光寺線という主要道路と交差していました。ラジオの交通状況などでも、よく耳にしていた場所です。

平成10年当時には、松島交差点を通らずに、古府の方からちょっと地下道のようにもなっていた8号線バイパスの下を通り抜ける道を使って、みどり団地の方面に行っていました。よく通る道だったと思います。古くて昔からある道のように見えましたが、それまでは知らなかった道でした。

この道は金沢市黒田一丁目の被告訴人KYNの自宅兼事務所から、安原工業団地のS設備に向かうときにも当たり前に利用していた道だったと思います。また、みどり団地に自宅があったM君を送るときにも通っていた道でした。

金沢市みどり - Google マップ http://bit.ly/NhOi1D ← Googleマップでは「金沢市みどり」などと町名を入れて検索すると、町内の範囲を枠線で表示してくれるようです。

みどり団地というのは現在ではほとんどテレビでも聞かなくなっていますが、小さい頃から金沢にその名称で大きな団地があるということは知っていました。団地の多くの建物がかなり古くなっていたので、昭和40年代がピークの団地であったとも想像されます。

それだけ大きな団地の割に、私の周辺で、みどり団地に住んだ人はおらず、前の通りを車で通過するだけでした。

みどり団地といえば、当然に団地を思い浮かべていましたし、おそらく石川県内で最大規模の団地であったと思います。県営なのか市営なのかは知りません。他にも市内に団地はあったと思いますが、破格に大きい規模の団地だと思います。

みどり団地と平仮名になっていますが、以前は緑という漢字であったような気もします。それでも緑といえばみどり団地、みどり団地といえば緑という認識が強かったと思います。

金沢市内から海の方角に向かってみどり団地の団地の建物を通り抜けたぐらいのところで、交差点を左折し、数百メートル走った右側にM君の家はありました。家の中に入ったことはなかったですが、家の前には何度か行きました。

M君自身は車を所有していなかったというか夫婦の兼用で、おおかたは妻が使っているようでした。妻の送り迎えがあって日中がずっと妻が車を使っているようでした。

帰りも携帯電話で時間を伝えて迎えに来てもらっていましたが、家の近くを通りかかったときなどに、直接家に届けることが何度かあったのです。金沢でも田舎の方では普通かと思いましたが、けっこう敷地の広い家で、家の前の庭も広い感じでした。

家のある側の通りには民家が並んでいたと思いますが、向かい側の方はずっと空き地か田畑が広がっていたと思います。とにかく、先祖代々ずっとその場所に住み続けてきた家系のように思えました。割としっかりした家柄といいますか。

M君自身は、かなり陳腐ら丸出しのような顔つきで、ヤンキーの漫画に出てくるようなキャラクターでした。大人しくしていればそれなりに大人しくは見えていたようにも思いますが、目が細く眉毛も細くて、そうでなくても人をにらんでいるように見えることがありました。

M君はときたま父親の話をすることもありました。仲のよい関係に思えましたが、普通の会社勤めで、ゴミ回収の運転手をしているような話であったかもしれません。

どこか西金沢の辺りの川の土手沿いを走っていたときだったと思いますが、父親の車にすれ違ったとか言い、車を止めて父親の車の方に行って、しばらく話をしていたこともありました。その時も父親の姿は見かけていないですが、優しくて大人しい父親というイメージは出来ていました。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月01日


竹林に関してですが、平成1年の12月頃から始まったイワシのシーズンが終わるとまもなく金沢市場輸送をやめたように思います。一月や二月は、長距離の仕事に戻って保冷車に乗務していたかもしれませんが、人知れずいつの間にかいなくなっていたという感じではなかったかと思います。

輪島のMYがやめたのもそれに近い時期だったような気がします。福岡行きの仕事だったと思いますが、決まっていた仕事に出てこないで、夕方に被告訴人MTKから代わりに走ってくれと頼まれたことがありましたが、断ったことも憶えています。

ぼんやりした記憶ですが年末で12月の終わりの方ではなかったかとも記憶しています。プライベートな問題を被告訴人TSK会長が会社で吹聴したことで、出てこなくなった可能性がありそうでしたが、それっきり戻ることはなかったと思います。

輪島のMYの弟は守田水産輸送で大型車に乗務していた時期がありました。長い間はいなかったような気もするし、重なったのかどうかもわからないのですが、MYもしばらくは守田水産輸送に入社していた時期があったように思います。O西さんが関わっていた可能性もあったように思います。

その後、輪島のMYはピアノ輸送という運送会社で運転手をしていると聞くようになりました。たまに見かけるトラックでしたが、深い緑色でずいぶんと地味なデザインのトラックという印象も強かったです。

ピアノ運送(株) 北陸営業所 - Google マップ http://bit.ly/1bTwdC1 Googleマップで調べたのですが、ピアノ輸送という会社自体は現在も金沢にあるようです。しかし、場所が全然違っていて現在は金沢港に近い無量寺にあるようです。

石川県金沢市神野町西634 - Google マップ http://bit.ly/1bTxmtw ← 私の記憶にあるピアノ輸送があった場所はこの辺りではなかったかと思います。

余り記憶がはっきりしませんが、西インターのトラックターミナルの裏の方のあたりであったように思います。めったに通るような道ではなかったですが、割と通る機会があり、その時はピアノ輸送の会社が目立っていました。

どこに向かうときにその道を通っていたのか思い出せないですが、西インターの方から松任駅の方角に向かって走っていると左側に会社があって、その前か後ろの方に大きなカーブがあったようなことも憶えています。

何時頃か思い出せないですが、誰かと一緒にそのカーブの道沿いにある居酒屋か焼き肉屋のような店に入って食事をしたことも憶えています。本来いく用事もなかった場所なので、その辺りで食事をしたこと自体珍しい体験として記憶しています。

一緒にいたのは竹林の可能性がもっとも高いと思いますが、違うとすれば輪島のMTか、あるいは配車係をしていたYTだったと思います。相手に誘われて入った店であることは間違いないですし、けっこうなじみになっている店という感じもあったような気がします。

輪島のMTは知り合った頃、金沢市神田の割と豪勢なマンションに彼女と住んでいました。その時も1回か2回遊びに行ったことがありました。

その後、中央市場の正面から見て、敷地の裏側の左側の角の辺りにある新築のような新しいアパートに住んでいました。市場急配センターの会社のすぐ近くでした。市場急配センターの前の道路ではなく、前からあった道路は裏の角から金石街道に出る通りがありました。

その道で金石街道に出る少し手前の左側に東京ストアーの倉庫があったこともありました。

ピアノ輸送のトラックに乗務するようになったとは聞いていたのですが、噂話のような感じだったと思います。その後、MTの話は余り耳にしなくなっていたようにも思います。

輪島のMTは、私以上に金沢市場輸送の発展に影響を与えた人物であったとも言えそうです。最後は被告訴人TSK会長に、得意満面でプライベートな問題を吹聴というか暴露され、それっきり姿を見せなくなったのですが、プライベートな問題なので。

ただ、真偽の程もわからず、被告訴人TSKの言動自体も、一般的な常識としては考えにくい、特異な社風、体質とも思えるので、本人に対する誤解を招かないためにも書いておいた方がよいとも思えます。

それは、裁判所から給料の差し押さえが来た、という話でした。被告訴人TSKは大喜びで、それを吹聴しまくっていたようです。私は夕方のすっかり暗くなった時間にその話をTSKから聞かされたと記憶しています。

よく考えてみるとそれはまだ、被告訴人TSKが会長ではなく社長の時代であったようにも思えます。あるいは市場急配センターが独立した直後の頃と思います。

被告訴人TSKが会長になって、金沢市場輸送の社長に被告訴人MTKが市場急配センターの社長に被告訴人MHKがなったという話を聞いたのは、晩秋から初冬に近い時期だったような記憶もかすかに残っています。

本日新たに重い出したことは、十分な記憶の自信は持てないのですが、平成3年の夏頃に、輪島のMYと市場急配センターの近くで顔を合わし、外でしばらく話をしていたことです。また、それと別の日だったのかもしれないのですが、2階の事務所でもしばらく話をしたような気もします。

MYとしては大型車の運転手として使ってもらいたくて顔を出したような感じもありましたが、被告訴人MHK社長の方で見切りをつけ、採用する気はさらさらないような態度をかいま見せてきたような気がします。余り重要視していなかったことなので、記憶の方もしっかり喚起できない状態です。

輪島のMYは私と一緒で、一時期パチスロに凝っていたことがありましたが、けっこう勝ったような話をしていたと思います。けっこう常勝でうまくやっているという感じでした。その後、競馬の方に凝るようになったという話があったかどうかは、はっきり思い出せません。

輪島のMYの紹介で初めに金沢市場輸送に入社したYAが、ずいぶんと競馬に凝り出したという話ははっきりと憶えています。ただ、それがMYがいなくなった後の可能性もあるので、なんともMYの競馬についてははっきりしないです。

YAは私の2つ年下でした。MYと同じ海士町だと聞いていましたが、YAと一緒に入社したOTが輪島崎であることを除いては、金沢市場輸送で大型車に乗務した輪島の若者は全員が海士町だと聞いていました。同時にOT以外は全員が小木港の遠洋漁船での漁師経験があるとも聞いたように思います。

YAとOTが金沢市場輸送に入社したのは昭和62年の6月ぐらいではなかったかと思います。ちょうど金沢港でスルメイカの仕事が多くなっていた時期であったとも記憶しています。なんとなくですが筍の時期にはまだいなかったような気もします。

YAとOTは金沢市新保のアパートに一緒に住んでいて、仕事もなく腹を空かせていたので、誘って紹介したようなことをMYは話していたと記憶しています。

金沢市には南新保と新保という地名というか町名があるのですが、場所は全然違っていて離れています。南新保の方は中央市場のある西念とは隣接していて市場にも近いです。新保の方は西インターの少し先で、西金沢にも近いあたりでした。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月28日


またしても日付が変わっていることを意識しないまま記述を奨めていたので、記載の見出しの日付を改めました。

日付が変わっているので昨日になりますが、昼にAコープ能都店に買い物に行ったときに、カナカンのトラックを見かけていました。

カナカン - 伝えます食文化の香り http://www.kanakan.co.jp/index.html ← ホームページを見つけました。鮮魚や青果物以外の食品の総合的な問屋、流通センターというイメージが強いです。トラックも営業所もあちこちで見かけていた気がします。

市場の周辺にもいくつかカナカンがあったと思います。大きな会社だと思いましたが、どういう会社なのか聞くことも話題になることもなかったと思います。青果物に限ってはいますが市場急配センターの方が目立つ存在にもなっているような気もします。

カナカンの本社が金沢市袋町となっていて、見当もつかない地名なので調べてみたところ、近江町市場と武蔵の近くのようでした。近江町市場というのも市民の台所として金沢では有名なようですが、検察庁や裁判所にも近い場所です。武蔵は片町に次ぐ中心的な商業地かとも思います。

その辺りは尾張町というイメージが強いのですが、袋町というのは武蔵側に尾張町と隣接しているようです。地図でみると尾張町というのは自分が思っていた以上には場所が広いようです。他の町名も近くに複数あるので、もっと狭い範囲かと思っていました。

尾張町に関しては2点、書いておくべきことを予定しています。やはり尾張町は金沢地方検察庁のある大手町とも隣接しているようです。その向こうの兼六元町というあたりが、一つの説明の中心になるかと思います。

北都運輸が倒産したという話は、被告訴人MHK社長がとても愉快そうに話していたことも印象的でした。話を聞いた場所は市場急配センターの一階でした。私はこれまで平成3年の7月頃のこととして考えていたような気もします。

しかし改めて考えてみると平成3年9月以降の可能性の方が高いかもしれないです。というのは、9月より前の一階は全く物置小屋のようなスペースでしかなかったので、そこで会話をしたというのは考えにくいからです。

物置といっても大したものは置いてなかったと思いますが、夏の頃は早朝に桃やブドウの仕分けとしてその場所が使われていました。ブドウや桃は山梨県から直接運んできているという話で、ほとんどが4トン車だったと思います。

山梨県から運んできていたのもほとんどが被告訴人UHKか、持ち込みの運転手をやっていた大倉さんだったと思います。夏と言っても真夏ではない比較的涼しい時期の7月中ではなかったかと思います。短い時間だったと思いますが、大勢で集まって仕分けの作業をしていました。

新たに思いだしたことですが、浜田漁業金沢工場のトラックには「両合物産」と書いてあったと思います。4文字ということはあり得ないので、たぶん両合物産株式会社ではないかと思います。

現在はどうか知らないし確認していませんが、平成4年当時も運送会社のトラックにはキャビンとも呼ばれる運転席の車両部分の後ろ側の小さな窓ガラスの横に、会社の名前が書いてありました。シールではなくペンキで描いてあったとも思います。

ちなみに一週間ほど前でしょうか、宇出津新港に買い物に行くとき魚市場を通りかかったとき、6トンの保冷車が目に入ったので、キャビン丈夫の速度表示灯を見たところ、それがないことに気がつきました。

少し先を行った氷会社の駐車場に10トン以上と思われるの大型車がいたので、それも確認したところ、やはり速度表示灯がありませんでした。

速度表示灯と呼ばれていたと思いますが、キャビン前方の上部に三つの緑色のランプがついていて、そくどに合わせて電気がつくというものでした。6トン車はタイヤの大きさをみないと4トン車と区別しにくいこともあったのですが、一番の見分けは速度表示灯の存在でした。

対向車がすぐに大型車とわかることもあって、すれ違いの際にも狭い道幅であれば、車幅も大きいとわかるので余計に速度を落とすという目安にもなっていました。なぜなくなったのか不思議にも思いました。夜間に大型車を見る機会はほとんどないのですが、違ったものがついていることも考えられます。

大型トラックについている三つのランプの意味は? http://homepage2.nifty.com/osiete/s475.htm ← 調べてみたところ1999年に規制緩和と実効性がないということで廃止にされたようです。大型車の乗務経験で、あった方が遙かに安全安心だと思います。

時速40キロまでがランプが一つとも書いてありましたが、30キロまでだと思っていました。路面凍結の度合いでも対向車のランプの数がとても参考になる情報でした。ブラックアイスバーンは特に危ないです。

糸魚川での重量オーバーの影響がイワシ専用に導入された5台の平ボディ車に影響を与えたことは既に書いたと思いますが、キャビンの小さい窓の横には、金沢市場輸送ではなく両合物産と書いてあったのが、問題であったように思いだしました。

行政罰のようなもので一定期間、トラックの増車が出来なくなり、浜田漁業金沢工場に頼んで名義を貸してもらったような話だったと思います。私はそれを竹林から説明付きで聞いたように思います。

竹林に関してはこれまで○林として記述してきたように思いますが、小林健一同様に重要な参考人物であるので、明示しておいた方がよいと考えと方針を変えました。下の名前ははっきり憶えていないですが、竹林秀秋だったような、ちょっと違っているような感じです。

不動寺の辺りに家があり、一度遊びにいったこともありました。最近になって知ったことですが、津幡町の一部だと思っていた不動寺は、金沢市内のようです。

石川県金沢市不動寺町 - Google マップ http://bit.ly/NBbsQl ← Googleの地図で確認しました。町がつくということは今回初めて知りましたが、地図でみると津幡よりは森本に近いようです。

森本も金沢市内になるのだと思いますが、自分の感覚や周囲の話し方でも金沢とは違うような観念がありました。まず能登から鉄道で金沢に向かうと、金沢駅の手前から、東金沢、森本、津幡ということにもなっておりました。

国道8号線で富山方面に向かうときも、津幡を超えてから不動寺を通過して県境に入るというイメージがありましたし、北陸道も東インターと県境の間に、不動寺パーキングエリアがありました。

森本に関しては平成10年頃のことですが、被告訴人OKNと幼稚園について書いておかなければならないことを予定しています。OKNは仕事上の付き合いで木梨松嗣弁護士に関係した仕事とも話していました。パートナーという言葉を使っていたかとも思います。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月27日


糸魚川インターでの重量オーバー違反ですが、同時またはほぼ同時に3人ぐらいの運転手が反則切符を切られたと聞いたように思います。ただ、断片的な情報で理解しがたいところがありました。今改めて考えると捕まったのは全部が4トン車だったような気もします。

やはり3人はいたような気もするのですが、しばらくの間けっこうもめていたようです。運行の状況にもよるのですが同じ社員の運転手でも半年ぐらい顔を合わせないことがあると昭和59年当時は聞いていたぐらいですから、一定期間、他の運転手と顔を合わさなかった可能性もあると思います。

昭和59年当時は大型車の仕事内容もずいぶんと違っていましたので、同じように見ることは適切ではないと思いますが、一月ぐらい顔を合わせないことは普通にあったような気もします。全ては配車係の采配であり、とりわけ権限を独占しワンマンでやっていたのが被告訴人MTNでした。

断片的に私の耳に入ってきた情報では、詰まるところ金沢市場輸送の会社や被告訴人MTNに対する不満を、糸魚川の警察でぶつけ、それが会社の不利益になったような話だったと思います。

具体的にはイワシの運搬に専属するため新車で納入された5台の平ボディ車になにか影響があったという話でした。名義と登録できず、浜田漁業に一時的に肩代わりをしてもらったような話であったような気もしますが、このあたりも記憶がかなり薄れています。

(株)丸北青果市場 - Google マップ http://bit.ly/1fsLMvo ← Googleマップで調べたところ、丸北青果は昭和59年当時と同じ場所にあるようです。

中央市場口とか書いてある交差点から市場の方に向かうと、この丸北青果の間の道を右折していました。30メートルほど行くとやや変則の十字路があります。

言葉だけで説明するとかえってわかりづらくもなりそうなので、Googleで地図を作成しました。次のURLです。

金沢市場輸送のトラックの駐車場所等(平成59年から平成4年頃の間) https://mapsengine.google.com/map/edit?authuser=0&hl=ja&mid=zWXtOqvyZ-Jo.ktHXsPOR6Gxs

似たような地図は前にも作っていて本書においても紹介済みと思いますが、当面の説明の内容に合わせて、別の地図を作りました。作成したGoogleアカウントも前のものとは別になっているのではと思います。

変則の十字路と書きましたが、右折した道路は行き止まりになっていました。その道路上にイワシの平ボディ車が駐車されていることが多かったと記憶しています。保冷車も駐車していましたが、余り動かさないトラックを駐車することが多かったように思います。

もともとこの丸北青果の間を入った道は、一直線の道でした。変則になっている交差点に道路が交差していたかどうか憶えていませんが、その交差点があった場所の向こう側は、空き地や畑、あるいは田んぼが広がって、中央市場の裏の方を見るのに遮るものはほとんどなかったように記憶しています。

左手の空き地は金沢市場輸送の駐車場になっていました。舗装もしてなかったと思いますが、かといって雨でぬかるんでいたような憶えもないので、砂利を敷き詰めた駐車場であったような気もします。

駐車場を越えると交差する道がありましたが、これを右に行くと中央市場の裏側にある道路と一直線につながっていたと思います。道路と言うより農地の敷地内の道という感じでした。左に曲がると金石街道に出る道がありましたが、普通に車が通らないような狭い道だったと記憶しています。

右に曲がるとすぐに右手に民家が一軒あったと思いますが、そのとなりに小林運送がありました。民家も小林運送の社員というか運転手の一人が家族と住んでいる家と聞いたように思いますが、家族らしい姿をみることはなかったです。

時代をさかのぼることになりますが、昭和58年の3月から4月ぐらい、期間にして短くて一月半、長くて3ヶ月ぐらい、私はその小林運送で、長距離トラックの助手という仕事をしていたことがありました。

4階建てぐらいの古い建物だったと思いますが、映画の舞台にでも出てくるようなちょっと変わった建物でもありました。もともとは病院の建物という感じでした。一応、そこの一室で寝泊まりしていましたが、病院にあるようなパイプのベッドが一つ部屋の中にありました。

私にあてがわれた部屋は金沢市場輸送の駐車場も見える建物の正面側にありましたが、着替え程度しか荷物は持っていなかったので、テレビも何もなかったと思います。休日の日などは、外に遊びに出かけていました。

どういう建物だったのか細かいことは憶えていませんが、一階が高くなっていて修理工場のようにもなっていたような気もします。実際に大型車を中に入れて、ちょっとした整備やオイル交換などを行うようになっていたのかもしれません。

小林運送へは、職業安定所に出ていた求人で行きました。金沢の職安がまだ金沢駅にも近い芳斉にあった頃でした。職安の前にはいつものように自衛隊の勧誘のおじさんがいるような時代でもありました。

小林運送の仕事は金沢の市場での仕事がほとんどでしたが、青果物の運送でした。メインの仕事は愛知県内からの野菜や青果物の運送でした。愛知県でも静岡県との境にも近い、豊橋や渥美半島の仕事が多かったと記憶しています。

横浜の本牧ふ頭や大阪の方にも行ったことがありましたが、愛知県内の他は静岡県内からの仕事も多かったように思います。それも高価と思われるメロンを運んでくる仕事でした。

助手の仕事というのは、主に運転手が仮眠するときの目覚まし時計代わりという感じだったと思います。荷物の積み卸しの作業も手伝いますが、寝過ごしによる延着の防止が一番の目的ではないかと思えました。

市場の仕事というのは競りの時間があって、それに間に合わないと延着と言うことになり、翌日以降の競りに回されることになり、鮮度が落ちるような品物だと大きな損害が出ると聞いていました。

鮮魚の方が青果物よりシビアで時間にも厳しかったはずですが、筍のように競りに間に合わないと、品物がだめになってしまうというものもありました。大量の氷を掛けガスもでるタイプの筍でしたが、九州の熊本県では箱に乾いた状態で入れてある筍もありました。

金沢の筍の場合、出荷のあるのは5月から6月辺りの、長くて一ヶ月間ぐらいの時期でした。その筍の時期が終わる頃から、今度は金沢港でスルメイカの仕事が多くなると言うのが毎年の恒例でした。6月から7月の初めぐらいで、これも一月ぐらいだったかと思います。

小林運送で助手の仕事をしていた頃は、運転などするはずもなく、すべて運転手任せだったので、どこを走っているのかと言うことも余り気にする必要がありませんでした。

そんななかでも印象に残ったのが、愛知県の田原町というところでイチゴを沢山積みました。当時人気絶頂だった、田原俊彦という歌手の名前もあって、印象的だったのだと思います。

愛知県のどのあたりだったのかも記憶になく町の名前とイチゴのことだけ憶えていたのですが、自分自身が大型トラックを運転してその田原町を通りかかったのは、平成4年の2月のことであったと思います。あるいは3月。

市場急配センターが小林運送の仕事をするようになったという話は平成3年中から耳にしていました。12月ではなく11月中にも、そんな話を少し聞いていたと思います。

その割に私に小林運送の仕事が回ってくることはなく、忘れた頃にやってきたのが平成4年の2月だったと思います。

私が小林運送の仕事をしたのは2回だったと思います。一度は渥美半島の先端あたりからトマトを中心とした混載の荷物を積みました。小林運送の運転手ではなく助手のような若者をトラックに同乗させ、出荷場をまわりました。

助手席に乗せて話をしていたことは憶えているのですが、どこで乗せてどこで降ろしたのか記憶に残っていません。金沢から乗せていったようなことはまずあり得ないと思います。また、トマトは石川県加賀市の大聖寺の市場でも荷下ろししたように記憶しています。

大聖寺の市場というのは滅多に行かない市場でした。そのあと小松市の市場で大半の荷物をおろしたようにも記憶しています。その頃は、和歌山県のかつらぎ農協から積んでくるミカンの仕事でも、小松の市場での荷下ろしが多かったと思います。

小松の市場というのは国道8号線から山手の方に向かって市内を外れた場所にありましたが、国道8号線自体も高速道路である北陸自動車道から大幅にずれていました。北陸道は海岸線に近い辺りを通っていました。

具体的に言うと、愛知県からだと加賀インターを降りて国道8号線を走ることになり、小松の市場で荷下ろしをしてから再び高速に戻るのは効率もよくないので、そのまま国道8号線で金沢まで走るというのが普通の選択であったと思います。

簡単にいえば国道を走るのは面倒くさいのですが、個人差はあるもののそれをとても嫌がるような運転手もいたかと思います。国道の方がのんびり走れて、その方がよいという考えの運転手もいたかとは思いますが、そういう人は出来るだけ市場の仕事は避けるのではないかとも思います。

運送会社には高速道路や有料道路の使用を極端に渋る、避けることで経費を削減するという会社も多いと聞いていました。そういう会社は急ぎの仕事でもなく、傷むような食べ物を運ぶ仕事でもなかったはずです。

金沢市場輸送という会社は、伝統的にそのあたりも変わっていて、鮮魚を運んでいても一般道を走らせるような会社でした。国道や県道などの一般道のことを、下道(したみち)と呼んでいたので、以降は下道と表記します。

東京の築地市場に鮮魚を運ぶときにも、富山インターから飛騨高山方面に国道で向かい、安房峠から松本市辺りに出て、諏訪インターからようやく中央道の高速に乗るという運行や、国道18号線で群馬県内まで下道を走るという経験もありました。

関越トンネルが開通する以前だったので、現在のように関越道を全線走るという選択はなく、一番急ぐ場合は、大阪方面と同じように米原JCまで行き、東名高速を走って東京に行きましたが、走行距離が100キロほど余計に走ることにもなっていました。

昭和59年に4トン車に乗務した頃は、新潟県内に鮮魚を運ぶ仕事がメインでした。直江津、長岡、小千谷、新潟の4カ所おろしの市場でしたが、柏崎が加わることもあったとも思います。

北陸道は富山県内で朝日インターが終点で、次に乗るのは新潟県内の上越インターという時代でした。そのうち名立谷浜インターまでつながり、半年か一年ぐらいで対面通行が多かったものの、全線がつながりました。

富山県の朝日から新潟県の糸魚川の間には、親不知という難所があり、迂回路もない一本だけの国道でありながら、大型トラック同士がまともにすれ違い出来ないような箇所があったり、交通量も多くて時間が掛かりました。

昭和59年の1月や2月は雪も多かったです。とりわけ小千谷のあたりは十日町にも近く、日本一の豪雪地帯でした。高速道路も雪の壁のようになっていました。新潟市内の市場は混み合っていて荷物もおろしにくかったと記憶しています。

そのような交通状況などまるでおかまいなしに、金沢を出発してからは国道8号線をひた走り。許可されている高速道路の使用は、上越市を超えた先の柿崎インターから向こうだけでした。

そもそも出発前には朝の8時か8時半頃の出社が当然のように義務づけられていて、中央市場の中で他に出勤してきた運転手とともに魚の荷物を積み、抱き合わせの小口の冷凍食品の集荷に回ったり、他の運転手の積み込みを手伝ったりしていました。

午前中に魚は積み終えていたと思いますが、伝票の出る時間が遅く、新潟に向けて出発するのは午後の4時頃とかそんな時間であったように思います。富山県の魚津市辺りでは夕方の渋滞にもあいました。

大阪行きの荷物もいろいろありましたが、むしろ新潟の仕事より輪を掛けて面倒で条件の悪い、各駅停車のような仕事が多かったです。京都の日向市とかで真夜中に荷物をおろしたり、早朝の早い時間から大阪の生野区で荷物をおろしたりしました。

とは言ってものんびりしたムードもありましたし、苦労話をすることが目的でもないのですが、バブル景気の追い風もあったのか、仕事の条件はずいぶんとよくなっていきました。

東北便も、宮城と山形の県境に笹やトンネルが開通してからは、本当に楽になりました。国道の急斜面を走っていた頃は、凍結で上りきれなかったり、下り坂はそれ以上に神経を使い、渋滞で時間が遅れることもありました。

まあ、色々ありましたが、いいところと悪いところがあるというのは、どんな仕事や会社でもよくあることかと思っていました。ただ、市場急配センターの場合、本当に仕事が楽だと思っていました。

それでも割りの悪い、他の運転手が嫌がる仕事を多く押しつけられてはいたようです。余り楽をしすぎると、いざ難しい仕事に当たったとき慣れていない分、余計にしんどい思いをするというのも、自分なりの経験値と思っていたので、さほど不満でもなかったのですが。

たとえば九州から市場の荷物を積んで、関東の市場に行った場合、行ったことのない市場でも自分で探して見つけなければならないのですが、他にもまわるところがあるので、間違いは許されない状況。頼るのは自分だけです。集中して最善を尽くします。

その過程で得る経験値もありますが、他のそれほど条件の厳しくない仕事だと心に余裕も出来るのか、なんなく当たり前にこなせるようになっていました。そういうことも、自分が余り意識しないうちに、信頼や評価にもつながっていたのだと思います。

市内配達の場合、そういう運転手としての経験が全くないところから始める人も多かったように思いますが、なかには見ていて気の毒に思う人もいました。

輪島の航空自衛隊にいたという人もそうでしたが、なにか仕事上のミスが多かったらしく、被告訴人MHK社長が最終的にクビにしたとも聞きました。歯車が狂い焦りが出ると、ミスが多くなると言うことも、ずっと後になってよくわかるようになりました。

決まった仕事を同じように繰り返しているのが楽な仕事かとも思いますが、金沢市場輸送の仕事は内容も行き先もバリエーションが豊富で、それなりに楽しみながらというか、飽きずに仕事の出来る職場という一面もあったかと思います。何かと自由な面も多かったですが、自己責任とも一体でした。

もともと私は長く長距離の仕事を続けるつもりはなかったです。本当はそうしたい気持ちも強かったのですが、もともと視力が悪くて目の負担が大きく、長続きは出来ないと考えていました。夜間や雨の日、は特に目を酷使しました。

青果の仕事は鮮魚ほど神経も使わず、余裕もあったので、市場急配センターの長距離をするようになってからは、そのほど目の痛みを気にすることもなくなっていたとも思います。

それにしても長距離の仕事は免許の点数を失う可能性が高いので、安定しているとはとても思えませんでした。大型車は80キロが最高の速度制限でしたが、高速の流れで120キロで走行していても、40キロの超過になります。鮮魚の頃は当たり前のように140キロのメータを振り切っていました。

乗用車であれば平均時速100キロで走れば一時間に100キロメートル走れるはずですが、大型トラックで重量を積んでいると、高速道路でも50キロまで下がることはざらで、30キロ以上でないという急勾配の坂もありました。中国自動車道の荷卸峠などです。

渋滞の時間も差し引かなければならず、それ以上に荷物の降ろし先が多いと、荷下ろしでの順番待ちもあるので、なにかと余裕を作る必要がありました。雪道など特に、無理をしすぎると本当に命の関わる問題と考えるしかありませんでした。乗用車などぶつければ大破する他人の命にも関わる問題です。

市場急配センターの場合、金沢市場輸送と違って他の運転手の仕事が見えにくくもなっていました。金沢市場輸送の場合、大きな黒板に日程表があって全体の把握がしやすく、荷主に対応した運転手の名前も掲載されていたように思います。

市場急配センターでも似たようなものが作られたように思いますが、一度か二度、見た憶えがあるぐらいで、その後はどうなったのかもわからず、そもそも二階の事務所のわかりづらい場所にあったように思います。本来ならば運転手が多くある丸一階にこそ、置いてあるべきものです。

他の運転手の仕事を余り気にするのもいやらしく、かえって嫌な思いで仕事をすることにもなりそうだったので、ほとんど気に掛けずに仕事をしていたようにも思います。

仕事には好みの問題や条件のとらえ方の違いのあるのですが、私は大阪や名古屋方面で、重量オーバーしたまま米原のバリアの通過するのが嫌で、できるだけ避けたいと考えていました。これは九州から鮮魚を運んできていた延長でもあったと思いますが、どきどきしながらバリアの料金所を通過していました。

市場急配センターでは給料が月給で一律50万円と決まっていたので、仕事内容のえり好みをする人が出てくるというのも、もともと避けがたいところではあったとは思います。本来ならば運送会社というのは歩合制が多く、基本でもあったと思います。

平成3年の終わりから平成4年の初めというのは、社会史的にみるとバブル景気の崩壊以降で、景気も悪くなり始めた頃であったのかもしれませんが、テレビニュースや新聞も余り見ていなかったこともあったのか、景気が減速しているような実感も不安も、全くもたないままに生活していました。

平成10年頃、自営業者として仕事をしていた被告訴人KYNは、経済的な情報にも関心を持ち新聞に目を通しているとも話、東京の景気の状態は金沢に2年遅れでやってくる、と話していたこともありました。真偽の程は不明ですが、いくぶんそういう傾向はあるのだろうとは思います。

インターネットがそれほど発達していない時代でもありました。平成9年の1月に福井刑務所を出て、世の中が変わったと一番感じたのは、携帯電話の普及でした。携帯の小型電話を誰もが普通に持ち歩いている時代が来るとは考えたこともありませんでした。

ただ、投資の大暴落で芸能人やタレントでも一夜にして莫大な負債を抱えることになったという社会問題は、平成4年4月の逮捕以前に、テレビで見て知っていたようには記憶しています。それが景気全体に悪影響を及ぼし、自分にマイナスに関わってくるとは、考えていませんでした。

テレビや新聞は余りみなかったと思います。仕事柄テレビを見る時間というのも限られていましたし、ビデオは持っていたものの番組を録画するという習慣は全く持っていませんでした。面倒で敷居が高そうと言う機器に対する苦手意識もあったと思いますが、録画の必要性を感じることもなかったです。

身近なところでは北都運輸が倒産したという話がありました。トナミ運輸や日通など全国規模で事業展開しているようなものを別にした地場の運送会社では、昭和58年頃から石川県内で一番大きな運送会社と聞いていました。2番目が国勝運送。

昭和58年頃は、友人が2,3人北都運輸で米飯とか言う給食の配達のような仕事をしていたこともありました。野々市と聞いていたように思いますが、国道8号線の外れの方にトラックが沢山停まった会社があったことも記憶しています。

既に少し触れたように思いますが、私自身、平成1年の5月か6月ぐらいから10月か11月頃まで、専属で北都運輸の仕事をしたことがありました。野々市の中心部に近い倉庫でしたが、北都運輸の看板が出ているようなことはなかったように思います。

古くて小さな倉庫でしたが、配送センターという感じでした。マヨネーズやドレッシング、ジャムが中心でしたが、冷凍食品も少しあったように思います。取り扱いの品物としてもカナカンに行くことが多かったと記憶しています。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月25日


石川県の小松市と行っても他県の人は全くわからない人が多いと思われます。石川県では金沢市が有名で人口もその周辺に集中していますが、小松市は金沢に次ぐぐらいの規模で距離にして30キロほど離れていると思います。

私がよく知る平成4年以前とは道路事情も含め随分と様変わりしているとは思いますが、以前は普通に小松市内の国道8号線を通過していました。市内の中心部は片側2車線の広い道でしたが、まもなく対面通行になり、もう少し行くと加賀市の看板が見えてきました。

その加賀市の境あたりの国道8号線沿いにトナミ運輸はあったと思います。福井方面に向かって国道の左側でした。自分の記憶では加賀市の看板を過ぎていたような気もするので、あるいは小松市内ではなく住所は加賀市内なのかもしれません。

金沢の会社からだと時間帯にもよりますが余裕を見て1時間の所要時間であったかと思います。福井から関西や九州方面に向かう場合は、福井の県境に近い加賀インターから北陸道に乗っていたはずです。金沢市場輸送では滅多にない経路だったと思います。

やはり小松で荷物を積んでから金沢に戻り、西インターの近くのトナミ運輸で追加の荷物を積んでいたはずです。この金沢のトナミ運輸からは、一時期、仙台か九州の福岡便もやっていたような気もするので、記憶があいまいにもなっています。

雑貨の仕事というのは夕方からの積み込みがほとんどでした。だいたい18時頃にはホームにトラックをつけて、積み荷が出来る状態にしていたように思います。高岡や富山の方が多かったと思いますが、よくあるパターンの仕事でした。

石川県金沢市神野町東202 トナミ運輸(株) 金沢支店 - Google マップ http://bit.ly/1hNepv3 ← 現在も同じ場所にあるようです。住所は森戸かと思っていたのですが神野町になっているようです。そういえばそういう地名もあったかと思いました。

その金沢のトナミ運輸で事故を起こした社員の運転手が、幌車の荷台で首吊り自殺をしたという話を聞きました。これも内浦町新保のKOから聞いたように思うのですが、現在の記憶では判然としません。

ただその話を聞いたとき、私は具体的に金沢のトナミ運輸のホームで、ホームの前の方に駐車してあるトナミ運輸のトラックのことを、頭の中で具体的に想像していたことを、割と鮮明に記憶しています。

金沢の西インターのトナミ運輸がある敷地は、結構広く、今考えると石川県では一番広い運送会社の敷地だったような気もします。そこはトラックターミナルとも呼ばれたか、そのような看板が出入り口の辺りについていたような気もします。

他の運送会社も数社入っている敷地で、ちょっとした工業団地に近いものだったと思います。入り口左側に若松梱包があって、そこにも金沢市場輸送の仕事で一時期、何度か行ったように思いますが、その辺りの記憶も曖昧になっています。

一番行くことが多かったのも印象に残っているのもトナミ運輸だと思いますが、その金沢のトナミ運輸に行くようになったのは、私が大型車で長距離の仕事をしていた終わりの方であったと思うのです。定期便の仕事も増えた時期でした。

なお、トナミ運輸の雑貨は、九州の北九州と福岡ではいずれも西武運輸のホームに荷下ろしし、福島県の郡山と宮城県の仙台はいずれも第一貨物のホームに荷下ろししていました。

これとは別に、中越運送の定期便があり、これも郡山と仙台おろしだったと記憶していますが、砺波の雑貨のどちらかが、仙台市の手前の名取市おろしだったとも記憶しています。仙台の方は4号線沿いのとても大きなホームの第一貨物でした。

中越運送の定期便というのも雑貨でしたが、こちらは私が大型車で長距離を始めた初めの方にやっていて、その後いつの間にかやらなくなっていた仕事のように記憶しています。昭和63年の1月の時点ではまだやっていたと思います。

その後、仙台市内の国道4号線から塩釜方面に向かう広い道沿いの左側の運送会社ホームに雑貨の荷物をおろしていた記憶もあるのですが、それは日通の仕事で高岡市からのホームから積んでいた雑貨の仕事であったように思います。

その近くにはアルミサッシをよく持って行く倉庫もありました。アルミサッシの仕事も多かったですが、高岡市だけで新日軽、三協アルミ、館山アルミの仕事がありました。黒部市の吉田工業へも行きましたが、回数は少なかったと思います。

メイホグループ|明穂輸送株式会社 http://www.meiho-group.jp/meiho_yuso/ からもらうアルミサッシの仕事が特に多かったように思います。必ず付き添いで荷積みを手伝ってくれる人がいましたが、当時でも高齢に近かったと思います。パチンコ好きの人でした。

アルミサッシの仕事は九州が多く、福岡県内の他、鹿児島県の隼人町にも行っていました。明穂の仕事であったかどうかは記憶にないです。そのうち新日軽の仕事がアルミサッシでは多くなってような気もします。比較的小矢部市に近い辺りの工場での荷積みでした。

アルミサッシで思いだしたのですが、関東に行く仕事も多かったです。毎日かどうかは忘れましたがそれに近い感じで持ち回りをしていたと思います。おろし先ははじめ埼玉県の桶川市の古い倉庫のような場所でした。

それがその後、水海道市に変わりました。新社屋の配送センターという感じだったと思います。住所は茨城県になっていたかと思いますが、千葉県にも近いところで、かなりの町外れに配送センターはありました。

東京ストアの定期便は、このアルミサッシの仕事と組み合わせになることが多かったと思います。まだ、神田市場の頃でした。東京ストアの仕事は週3回と聞いていたように思います。丸二とヤマリという仲買から荷物を積んでいました。どちらかが野菜で他方が果物だったと思います。

秋葉原にも近い神田の市場はいつも混雑していて、ほぼ積み荷の時間に合わせて昼間に現地に入る必要もありました。都内だと待機する場所を探すのもままならず、豊海あたりに待機することも。その点、大田市場だと時間を問わずトラックを駐車できたので、ずいぶんと気も楽になりました。

東京ストアの荷物は金沢の市場の近くの古くて小さい倉庫に、早朝ずいぶんと早い時間に荷下ろししていました。ほとんどが暗い時間に荷下ろしを始めたことしか記憶にないぐらいです。東京ストアは金沢市内にチェーン店のあるスーパーです。

そのうち市場の近くの倉庫では荷下ろしをしなくなったように思います。一方で、都内の外れ高島平の近くにある板橋の市場から深夜に荷物を積む仕事が増えていきました。昼間から時間をつぶして、周辺で食事などしていたことも憶えております。

深夜の何時頃であったか憶えていないですが、板橋の市場で積み込む荷物というのは多くはなく、大半は早朝の8時ぐらいかに、長野県の山奥みたいなところまで行き、高原野菜を積み込んでいました。上田市の山の方であったと思います。

そのおろし先は新しくなった東京ストアの配送センターで、松任市の旭丘工業団地の中にありました。これは冷凍機付きの必要もあったと思うので、108号に乗務していた時期かと思います。ちなみに野菜の場合は、冷凍機の温度が5度指定になっていました。

早朝に長野で荷積みを終わって、午後には松任市の配送センターで荷下ろしをしていました。出来たばかりのような新しい建物だったと記憶しています。私としては野菜をおろす場所と言うより、カマボコ工場のようなイメージが拭えない建物でもありました。

七尾市のスギヨの仕事をしていたのもそれに近い時期かと思います。スギヨはカニかまを初めて製品にしたことでも有名かと思いますが、最近でもテレビのバラエティ番組で見ることがありました。全国的にも割と有名かと思います。私は、カマボコの類は滅多に食べないのですが。

七尾市は能登半島で一番大きな町ですし、歴史的には奈良時代から開け金沢より歴史があるとも聞いています。全国的に一番有名なのは、和倉温泉の加賀屋かもしれません。ずいぶんな記録を持っている老舗旅館ですが。テレビで見る以外、入ったこともないです。

七尾市は漁業の町でもありますが、それ以上に木材の港という印象が私としては強いです。魚を積むような保冷車で目立っていたのは共栄運輸でした。このトラックは1年ほど前にも、小木の漁協で見かけていますし、トラックのデザインも昭和の時代から変わっていない感じでした。

同じ保冷車か冷凍車ばかりの大きな運送会社に小林運輸があり、トラックの数も多いのか見かける機会が多かったですが、その小林運輸がスギヨの専属だと聞いていましたし、トラックの箱にもスギヨと書いたり、カニかまをイメージするカニの絵が描かれていました。

Gooleで「七尾市 小林運輸」と検索してみたのですが情報は少なかったです。会社自体は現在も存在しているようですが、ホームページは公開していない様子で、見覚えのあるカラーのトラックの写真を見つけたものの、スギヨの文字は入っていないようです。

金沢市場輸送でやったスギヨの仕事は、宮城県塩釜市の宮城陸上の請負ではなかったかと思います。私が大型車に乗務した頃は、宮城陸上の荷物の福井分とか一部を、東北陸運の荷物と積み合わせで積んでいたような記憶があり、4トン車でまかなえる荷物も多かったと記憶しています。

その頃は宮城陸上の自社便の大型車が金沢まで荷物を運び、帰りに七尾のスギヨから荷物をもらって塩釜に帰っていると聞いていました。塩釜市はカマボコだけでなくおでん種のような練り製品の本場のような土地柄でもありました。

私が昭和59年に金沢市場輸送にいた頃は、宮城陸上の仕事も東北陸運の仕事もなかったです。石巻には行きましたが、興勝運輸から仕事をもらっていました。立派なトラックのある会社でしたが、まもなく昭和62年頃には倒産したように聞いていましたし、トラックも見かけなくなっていました。

その興勝運輸の仕事で石巻の魚市場から生のマグロを積み、翌々日おろしで名古屋の市場まで運んだことがありました。被告訴人OKNと一緒にマグロを積み、彼の荷物の行き先は山梨県の甲府ではなかったかと記憶しています。

国道4号線を東京に向けて走り、翌日の午前中に栃木県の小山市で別れたと思います。私は国道50号線から前橋方面に向かいました。途中、福島県の二本松あたりのセブンイレブンの前の公衆電話から、東京の板橋に住むという同級生に電話を掛け話をしたことも記憶に残っています。

板橋で郵便局に勤めていると聞いたようにも思いますが、その年の夏のお盆に行われたと思う成人式で会ったのが最後ぐらいで、噂話を聞くこともなくなったように思います。なお、案内が来たこともありましたが、私は一度も同窓会などに出席したことはありません。

昭和61年の8月に2度目に金沢市場輸送に入社して市内配達をしていた頃も、何回か臨時で頼まれて、4トン車で石巻に行ったことがありました。その頃には宮城陸上の仕事も東北陸運の仕事も始まっていたと思います。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月24日


今日の昼過ぎ、台所で昼食の支度をしているときに思いだしたことがあるので先に書いておきたいと思います。茨城県古河市の山三青果の定期便を金沢市場輸送が始めた頃のトナミ運輸の栃木便ですが、荷物を積むのは小松と金沢の二カ所ではなかったかと思います。




勧進帳

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月23日


辰口の大型書店でUNIXに出会う本を買った頃というのは、平成10年の秋になるはずですが、それはちょうど被害者の父親のAKさん宛にゆうパックの段ボール箱一箱分のものを辰口から郵送した頃でした。細かくは記憶にないですが、郵便局から郵送したはずです。

それよりいくらか前になると思いますが、しばらくの間、松任市の旭工業団地にもちかい、主要道路の大きな交差点の角近くにある工場の現場に通う時期がありました。工場の名前は憶えています。以前はテレビCMもやっていたような気がするのですが、最近は社名を見かけなくなっています。

今も同じ場所に工場が残っているのか確証は持てないですが、Googleマップで調べてみます。その方が、情報も正確になるかと思います。私の曖昧な認識や記憶にこそ、意味がある場合もあると考えていますが、そういう必要はない問題です。

36.547277,136.574777 - Google マップ http://bit.ly/1mAgVHh 石川県白山市宮永新町316 ← この辺りかと思います。Googleで検索したのですが、工場というかその社名自体の情報が見かけられなくなっていました。

社名は「若狭美術印刷」だったと思うのですが、「わかさ」の部分はあるいは別の漢字になっていたかもしれないです。東蚊爪の運転免許センターの近くにも同じ会社の建物があったような記憶もあるのですが、建物も小さく工場という感じではなかったです。

8号線バイパスから来る道と金石から来る道が交差して、松任駅の近くや美川方面にもつながる大きな交差点が「宮永」であったことは今回調べて気がつきましたが、近くに北陸道の白山インターが出来ていることも初めて知りました。

近くの工業団地も旭工業団地という現在の私の記憶は間違っていて旭丘が正しいようです。Googleマップでは、旭丘工業団地という名称はないようで、石川県白山市旭丘付近の工業団地と出ました。安原工業団地とは違うようです。

宮永交差点付近の印刷美術の現場では、大きな鉄の配管の溶接が仕事のメインになっていました。大きくて重い配管を支えて仮づけするのを手伝っていたのですが、わざとなのかわからないもののM君に何度か感電させられたことも印象に残っています。

溶接作業の感電は電気ショックのような衝撃を受けます。また、溶接作業中にも感電で死亡事故が起こることがあり、昔ほど多かったとも被告訴人KYNらに教えられていました。

仕事に余裕が出来たような時期にも思えたのですが、被告訴人KYNが私に、アーク溶接の練習と免許の試験合格を強く奨めた時期がありました。だいたいは平成10年の夏の終わり頃から秋の初めの方の時期だったと思います。

今、被害者の父親AKさんが当時部長をしていた旭丘工業団地の鉄工所についてインターネットで調べてみました。現在はグループという形態になっているようですが、規模がそれほど大きくなっているとは思えずグループも2社のようです。

ホームページを見たのも平成11年以来になるかもしれません。ホームページの内容も以前とはまるで違った印象も受けます。当時はAKさんの名前も記載され、職業安定所などの求人広告でも、AKさんが面接の担当者のように名前が掲載されていました。

現在も能登工場が珠洲市内にあると紹介されていますが、住所が珠洲市三崎町になっていました。能登半島の先端に近い辺りですが地図で確認すると三崎のなかでは手前側のようでした。以前は確か住所が正院になっていたような記憶があります。

廃止前の鉄道では、飯田駅の次が珠洲駅、その次が正院駅で、次が終着駅の蛸島駅だったと思います。蛸島は大きな魚市場のある漁港です。蛸島の先には鉢ヶ崎海水浴場があって日本の渚百選の一つにも選ばれていると聞きます。現在は近くに大きなホテルもあるようです。

私が子供の頃というのは、珠洲市に行くのに宇出津は国道沿いの通り道だったのですが、平成に入った頃には穴水から珠洲市に向かう山沿いの道が主要道路になりました。珠洲道路という看板もありますが、昔は農面道路とも読んでいました。舗装のない箇所もあったぐらいで、裏道に近い感じでした。

珠洲市の中心部は昔から飯田ですが、珠洲駅のあった辺りは野々江という地名のようです、買い物などに用事で行くときは野々江の方が多いです。珠洲市総合病院もその辺りになります。携帯ショップ以外でどうしても珠洲に買い物に行く必要はないのですが。

2011年の12月一杯ということになるかと思いますが、宇出津新港にあった橋本ホームセンターが閉店しました。同じ建物にホームセンタームサシがオープンしたのは昨年2013年の春頃ではなかったかと思います。

1年3ヶ月ぐらいの間、私が住んでいる宇出津の町にはホームセンターが不在でした。シメノドラッグというドラッグショップもあったのである程度のものはまかなえましたが、ホームセンターに行くため、珠洲に行く機会も何度かありました。

決定的に珠洲に行く必要性が出来たのは、宇出津にあった能登警察署が珠洲警察署に統廃合されたことです。昨年だったかなとも考えたのですが、ネットで調べると一昨年の2012年4月になっていました。

ついでに説明を書いておきますが、5年ちょっと住んでいた羽咋市から宇出津に戻ったのが2009年の3月15日のことで、そのあと珠洲市とは縁がありました。まず5月から8月の3ヶ月の間、パソコンの職業訓練で珠洲市飯田に通いました。バスで通いました。片道で900円ぐらいだったと思います。

ちなみに宇出津にあって珠洲市内にないものが宇出津新港にある職業安定所でした。羽咋市から戻った当初は真剣に仕事を探していました。その過程で職業訓練のことを知り、珠洲市に通うことになったのですが、委託された鉄工所の一部屋のような教室で、受講生も10人弱だったと思います。

宇出津の周辺で本格的な職業訓練所という施設は松波にありました。応募の面接などで2,3度、松波の職業訓練所にも行きました。募集の時期もずれていたので、パソコンでは珠洲の教室以外の選択がなかったのです。

結果的にワープロと表計算、どちらも2級の検定試験に合格することが出来ました。バスに乗って珠洲まで合格証書のようなものを取りに行ったのが、8月の20日過ぎではなかったかと記憶しています。

それからわずかに一週間ぐらいあとのことだったと思います。前の日の夕食に母親とサンマを焼いて食べたのですが、その翌日の朝、寝ている部屋に何度声を掛けても返事がなく、おかしいと思って部屋を開けると、ベットの上で母親が、少しも声を出せないぐらいにもがき苦しんでいました。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月22日


今日は16時ぐらいにようやくWindows7のEmacsで、Twitterに投稿するスクリプトの実行に成功したのですが、夜からはUbuntuに戻っています。日本語の変換効率はともかく、操作性や文字の見やすさは、やはりUbuntuの方が良さそうです。

Windows8.1をアンインストールしたことで、それまでの環境が失われましたが、Windows7をインストールし直してから、UNIX環境が随分と運用しづらくなっていると感じました。アプリやライブラリのメンテナンスが滞っているの一因かと思われますが、余計に手間も掛かりました。

Windows7では仮想マシンとしてUbuntuをインストールしましたが、日本語変換にmozcというGoogle日本語入力のLinux版を使ってみたところ、アップデートで驚くほど機能が低下、制限されていました。他にも色々ありましたが、勉強になることが多かったです。

Linuxは特に無償のボランティアに支えられている部分が大きいので、メンテナンスがされなくなると、使えなくなる機能も出てきそうです。Windows環境ではそれをいくつか目の当たりとして経験しました。

Linux 版 Adobe AIRのサポートが終了してからそのような傾向を感じてはいましたが、残念であるとともに、Windowsパソコンの良さと不便さ扱いづらさも、改めて感じています。

平成15年当時、ハッカーに関する論文で、Windowsでプログラミングすることはギプスをはめてダンスを踊るようなもの、という表現は今も当て嵌まっているし、ある面その傾向も強まっていると感じました。重ねて残念です。

新たなWindows環境では、javaの開発環境もインストールして、以前自作したプログラムを実行できるようにしました。そもそも自作のjarファイルを忘れたまま削除していて、別のサーバに保存していたものを探し出したり、改めて勉強になったり、経験を積み重ねることが出来ました。

そもそも私がLinuxと出会うことが出来たのは、被告訴人KYNの設備会社に勤めていた頃で、辰口の石川動物園や辰口庁舎の現場に通っていた頃のことでした。たまたま時間があって入った辰口の王様の本という書店で、たまたま見つけた本体660円の本がきっかけでした。

「パソコンを鍛える」という本ですが、今数年ぶりに手にとって開き確認したところ、1998年10月19日第二刷発行になっていました。この発行以前とは考えにくく、雪が降る前の割と暖かい時期だとも記憶しているので、平成10年の11月頃に買った本だと推測されます。

この本で私はUNIXに出会ったのですが、本の中にあるLinuxは、自分が所有しているパソコンがNECの98パソコンだったのでインストールが出来ず、駅西の書店で見つけた情報で、同じUNIX系のOSであるFreeBSDをインストールして使い始めました。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月21日


ここ2日ほどの間、Windows7でUNIX環境を構築していたのですが、予想以上に手間取ることが多く、時間も大幅に浪費してしまいました。以前はWindows8.1にまでアップグレードしていたのですが、TVチューナーを使えるようにするためWindows7をインストールし直しました。

結局、Windows7のEmacsからは自作のスクリプトでTwitterに投稿が出来なかったのですが、仮想マシンのUbuntuに共有フォルダのファイルとして同期し、そのUbuntuのEmacsからTwitterに投稿するようにしました。

Windows7の環境で作業する限り、今後は文章を書きながらその都度、ツイッターに投稿することは困難となり、ある程度まとめてから、Ubuntuの方でまとめて投稿することになると思います。

これまでたぶん半年以上、Windowsはほとんど使ってこなかったのですが、普通に使われているパソコン環境でもありますから、あまりブランクを長くするのもどうかと思いました。

それとUbuntuでの日本語の入力における漢字の変換効率が良くないのも、前々から不満に思っていました。UbuntuではATOK X3 for Linuxというのを使っていますが、インターネット上で購入してから、もう7年ぐらい経っていると思います。やはり効率が良くないです。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月20日


ちょっとパソコンの作業環境をWindows7の方に移行しようと準備を進めています。Windows環境のUNIXの対応は以前よりかなり悪くなっている感じもあり、長い時間を掛けたもののうまくいかなかったこともあって、仮想マシンをインストールしました。

このようなパソコン環境の話は個人的な問題のようですが、サイバー攻撃を受ける可能性もあるので、何かの場合はそくざに対応し、容赦も仮借もなく徹底的に相手を突き止めてください。そのための資料提供と、私自身のメモとして書いている事柄です。また、私個人の情報公開としての担保。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月19日


私の知る限り、当時金沢市内に新潟運輸の支店や営業所はなく、あるのは8号線バイパスから松任市内に入る道路沿いで、バイパスから入ってすぐに右手に大きな建物がありました。住所としてはあるいは野々市町になっていた可能性もあるかと思います。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月18日


宇出津・恵比寿の堤防/フグ・マハタ・キジハタ釣り2013年10月12日 http://bit.ly/1dFcq8y ← 参考としての日が暮れる時間です。Picasaウェブアルバムを使っています。

私は3つのGoogleアカウントを取得しているのですが、こちらは一番前から使っているものであり、プライベートななものを取り扱うようにしています。事件用に2つ目のアカウントを取得してけっこう長い間使っていたのですが、プログラムで写真をアップロードしていて不具合を見つけました。

大幅な手直しや混乱が生じると考えたので、3つ目のアカウントを取得し、写真資料に関しては、そのアカウントを使うようにしています。写真のアップロードの方も、直接、PythonのAPIを使うようにしました。自分のパソコンのデータとPicasaウェブアルバムを整合的に管理しています。

宇出津・恵比寿の堤防/フグ・マハタ・キジハタ釣り2013年10月12日17時47分08秒.jpg http://bit.ly/1eK6tmg こちらが最も日暮れに近い時間帯の写真でした。

このファイル名にはデジカメの撮影時間を含めるようにしています。デジカメのファイルにあるExif情報から時刻を抽出しています。ファイル名全体も、まとめて一括に変更するようにしていますが、プログラムをスクリプトとして使っています。

PicasaWebアルバムについても別の機会にご説明を書きたいと思いますが、Google+に登録していると、一定のサイズ以下の写真及び画像ファイルはデータ容量にカウントされなくなり、事実上、使い放題という感じです。FacebookのようにExif情報が消されることもないようです。

ところで先に書いておきたいことがあるのですが、昨夜見ていたテレビドラマの中に気になる場面がありました。「隠蔽捜査」という番組ですが、来日するアメリカ大統領の暗殺を狙うテロリストグループと日本人協力者という内容の展開でした。

そのなかで、警察の厳重な警備態勢の中、大きな交通事故が起こり、追突事故のトラックの運転手が現場から行方不明になるという場面がありました。2人死亡しているので、動転して逃走したというが上司を含め大方の見方でしたが、偏屈ものの刑事が疑問を持ち一人で調べを始めます。

数日前から私は本書において、旧珠洲郡内浦町松波について、割とくどい説明をしてきたかと思いますが、それは蛸島のTSさんが自殺をした現場というだけではなく、他にも理由があるからです。距離的にも10キロ程度しか宇出津とは離れていませんが、余り縁のない土地であり、情報も乏しいです。

新保のKOですが、彼から以前とても気になる話を聞かされたというか聞いたことがありました。ある人物が新潟運輸の運転手としてトラックに乗務していて、関越自動車道の群馬県内、渋皮インター付近で居眠り運転をしていたところ。

蛇行していたような話であったと思いますが、後続のトラックがそれを避けようとして横転。居眠りをしていた運転手が駆け寄ったところ、横転したトラックの運転手は反応がなく、死んだあるいは殺してしまったと思いこんだ居眠りの運転手は、自責の念に駆られ。

近くの陸橋から飛び降りて自殺したという話でした。あるいは渋皮インターではなく沼田インター付近と言っていたようにも思います。どちらにせよ、その辺りは坂道が多く、カーブは比較的緩やかなものがおおいですが、とんでもなく高い陸橋がいくつかあることは、よく知っていました。

その居眠り運転をして後続車を横転させ勘違いで自殺したという運転手は、松波中学校の私の一つ年上の人でした。KOとは同級生にもなるはずですが、KOの方は小木中学校に通っていたと聞いています。

2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月17日


3068号が新車で来たときのことを書いたので、ついでに当日の様子も書いておきたいと思います。昨夜まですっかり忘れていましたが、前後のことを計算に入れても10月12日で間違いないと思います。カレンダーでも確認しましたが土曜日です。

なおカレンダーはパソコンのLinuxでcalというコマンドを利用しています。「cal 1991」とコマンドを押すと、平成3年のカレンダーが表示されます。間違っているようなことはまずないと思っています。

新車は午後に日野の方から市場急配センターの会社に持ってきたと記憶しています。しばらく待たされたようなことも憶えています。被告訴人IHKと被害者AAさんが事務所にいて、IHKがトラックが来たら私たちを乗せて欲しいと言いましたが、私は返事をしませんでした。

IHKの発言にすぐに反応するようなかたちでAAさんは、「わたし、運転してみたいぞいね。」とも言っていました。この時も彼女はおだやかでしたが、ちょっと反省しているような感じでした。

私が初めてAAさんに付き合って欲しいと言ったのは、ちょうどその一週間前の平成3年10月5日のことで、これも土曜日でした。当時はまだ大きな会社や銀行などをのぞくと土日休みの週休二日というのは、さほど社会に浸透していなかったと思います。

9月の中頃に、フィルム貼りを手伝ってもらったことがあり、その後も会社で彼女の方から話しかけてくれることが何度かあったのですが、私は8月に離婚していたことも隠していたので、対応に戸惑い、満足に返事をすることもなかったのです。

8月に入った頃の段階で彼女のことは意識するような存在になっていました。まさかという思いも強かったのですが、彼女が仕事を中断してフィルム貼りの手伝いに来てくれたときは、本当に驚きました。

その場の目撃者は、被告訴人TTKと津幡のYTという運転手、そして被告訴人MHK社長の友人で頻繁に会社に出入りしていたカベヤとも呼ばれた人物。カベヤの直後には被告訴人TSK会長も歩いて通りかかり、ずいぶんと驚いた反応を見せていました。

一番わかりやすかったのは「カベヤ」ですが、「お前ら、夫婦やったんか?」と反射的な感じで声を掛けてきました。この質問自体があり得ないという気もしたのですが、演技をしていたようにも思えませんでした。

それと前回、マルモ設備について書いたときに思い出したのですが、マルモ設備のパンチパーマの整備士も、もの凄く驚いた顔をしていました。。私としても忘れかけていた人だったので、久しぶりに姿を見ただけでも驚いていました。

前回、どういう流れでマルモ設備のことを書いたのか、ちょっと思い出せないのですが、金沢市場輸送にいた頃、よく行っていた整備工場です。ちょっと説明しにくい場所なのでGoogleマップで調べてみます。金沢市なのか野々市町なのかも、微妙なあたりかと思います。

調べているところなのですが、私が金沢市内だと思っていた御経塚が、現在は野々市市になっているようです。御経塚までもが野々市市であれば、マルモ設備があった場所も野々市市内に間違いはなさそうですが、そもそも野々市市は最近出来たもので、以前は石川郡野々市町でした。

スーパーオートバックス・金沢野々市店 - Google マップ http://bit.ly/1frUnPJ ← だいたいの場所になりますが、このカー用品点は隣にゲームセンターがあって、そのどちらかの裏手のちょっとはいったところにマルモ設備がありました。

つい最近新しくなったGoogleマップでは関連した店舗の写真を見ることが出来ましたが、野々市店だとすると平成の初め頃とは店舗がまるっきり違っていますし、駐車場自体がずいぶんと広くなっています。8号線バイパスに面しているはずですが、当時は店舗自体もほぼバイパスに面していました。

マルモ設備にはちょっとしたトラックの修理にも行っていたと思いますが、ほとんどはオイル交換が目的はなかったかと思います。会社の指定でオイル交換に行っていました。大きな不調とかになると、日野やイスズのトラックのメーカーの工場に行っていました。

私は2度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年の8月以降は、移転した市場急配センターを含め、保険を使うような事故は一度も起こしていないので、事故の修理についても記憶には残っていないのですが、ちょっとした修理はマルモに行っていたと思います。

トラックのオイル交換は1万キロ毎、ということになっていたと思います。一月に1万5千キロぐらい走ることが多かったと思いますので、2ヶ月に3回という頻度で、マルモ設備にオイル交換に行っていたということになりそうです。

初めの頃は、直接トラックに乗ってマルモ設備に行っていたという記憶が多いのですが、そのうち会社に取りに来てもらうようになっていたような気もします。よくわかりませんが、平成2年頃になるとマルモ設備にはほとんど行っていなかったような気もします。

マルモ設備には何かのついでに行くことも多く、妻子を同乗させていることも多かったように思います。それでマルモ設備の整備士も、私の妻子のことはよく知っているはずで、それだけに驚きも多かったのだと思いますが、こちらが驚くぐらい衝撃を受けたような様子でした。

当時のことを思い出しているうちに、ぼんやりとですが、その後オイル交換は、会社で運転手が自分でするようになったような気もします。2回に一回だったかのオイルフィルターや、その取り外しの道具のこともなんとなく思い出しました。会社にオイルのドラム缶があったような気もしてきました。

20年以上前となると、細かいことで思い出すのも困難なことがありますが、地図や住所などを見ていると、わかっているはずの自分でも調べるのが困難で、時間が掛かりすぎると感じることもあります。

当時のマルモ設備は、いかにも自動車工場らしいという建物でしたが、同じような建物が敷地内に隣接していて、隣の方も別の自動車工場であったような記憶もあります。社長が一人と、整備士が2人の小さい工場で、整備士は2人とも、当時20代後半と聞いていたような気もします。

社長が柳田村の出身であるということは、既に何かの折りに書いたように思いますが、けっこう年配で50歳代にも見えました。昭和59年の段階では、マルモ設備というのはまるで縁のない工場で、全然知らなかったと思います。

似たような関係の会社で「金沢デンソー」という小さな会社がありました。従業員もいないような会社にみえました。主に電気系というの問題で、修理などに行っていました。昭和59年当時も何度か行っていたのですが、平成になった頃には縁も切れたのか、全く行かなくなっていたように思います。

しかし、個人の客として行ったのだと思いますが、平成4年になってから乗っていたアルトワークスの軽四のカセットの修理で店に行っていたように思います。当時はCDはカーオーディオとして普及していなかったので、カセットで音楽を聴いていました。

修理でカセットを直してもらったのは、平成4年4月1日の事件当日だったようなことも思い出してきました。

金沢デンソーのことで一番憶えているのは、昭和62年の4月頃、新車で乗務してまもなかった10トン保冷車の7599号で、カセットが鳴らなくなり、持って行ったところ、カセットの中から大量の小銭が出てきたことでした。これには主人も驚いていましたが、同乗していた長男が詰め込んだものです。

同じく事件当日は、西念町の歯医者にも行きました。50メートル道路に面した大きな交差点の角のようなところにある大きなマンションの上の方の階にある歯医者でした。中央市場に近いと言うことで、数年前から通っていました。

仕事をしていた妻の関係で、長男を連れて何度かその歯医者に行ったこともあったのですが、一度、黙ったまま診察室にはいると、長男が泣きながら後を追ってきて、数人の看護婦さんたちに取り押さえながら、手をさし伸ばしていた光景が印象的でした。

事件当日は新しく引っ越しをするワンルームマンションの入居の契約がスタートした月初めでもありました。鍵が使え自由に出入りできるようになった初めての日ということで、引っ越しは次の土曜日に予定していて、被告訴人OKNと被告訴人KYNも手伝ってくれることになっていました。

それまで住んでいた東力2丁目のアパートは、昭和59年の4月頃からずっと住んでいました。初めに被告訴人OKNと一緒に借りて住み、家賃を折半していたことも、昨年中には本書においてもすでに書いているかもしれません。契約上の名義は初めから私になっていたはずです。

結婚をし子供が生まれてからも、ずっとその東力のアパートで生活をしていました。6畳2間で風呂付きでしたが、家賃も比較的安かったです。初めは2万8千5百円でしたが、大家さんの好意らしく古くなったということで、途中から2万6千5百円になっていました。

平成3年10月12日のことに説明を戻します。時雨模様で雨が降っていたような気もするのですが、天気の良くない午後でした。新車のトラックが来ると、すぐに石川護国神社にお払いをうけに行きました。金沢市の中心部で兼六園の裏の方、Googleで確認すると住所も金沢市石引になっていました。

そのあと会社に戻ってから何をしていたのかよく憶えていないのですが、他の運転手の荷物の積み込みの手伝いに行っていたような気もします。私としては自分の荷物は一人で積め、という考えだったのですが、市場急配センターでは大勢でやることが少なくなかったです。

その日はなぜか遅い時間まで会社に被害者AAさんがいました。普段彼女は17時過ぎから遅くても17時半には帰っていたので、かなりの例外の一つです。10月の12日ということを考えると、日の暮れる時間というのも、まだそう早くはなかったのではと思います。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月16日


KOは北安江のアパートに住んでいたようです、何かの機会にアパートの前まで行った憶えがあるのですが、中になることはなかったです。木造の古いアパートで家賃も安そうでした。余り行くことのない辺りでしたが、平成9年頃にはそのあたりも随分と変わっていたと思います。

平成9年になると、北安江は中央市場の方から来る新しく広い道も出来ていました。その頃になると近くにアルプラザ平和堂という大きなデパートが出来たこともあり、金沢市内でもけっこうな一等地という感じになっていました。元々、駅西という金沢駅の近くだったのですがアパートの相場も安かったかと。

金沢市の駅西というのは元々、駅の裏手で辺鄙な感じだったのですが、大きな西口が出来てそのあたりの駅構内の店も増えていました。そのうち香林坊の近くにあった石川県庁が、駅西から8号線パイパスをこえた辺りに移転になりました。地名は鞍月だったかと思いますが、以前は田んぼだったと思います。

県庁が移転する前の感覚で言うと、駅西の真ん前あたりは別に、北安江を含め少しでも離れると、貧乏人や低所得者が多く住むというイメージあったかと思います。アパートの家賃の相場も安かったと思います。買い物など生活上の不便もあったかと思いますが、店も増えては行きました。

中央市場のあるあたりは西念ですが、昔から土の質が悪く畑にも適さないやせた土地であったと聞いたこともあります。周囲を含め、少し離れると空き地や田んぼ、あるいは畑の多い地域でしたが、平成9年の時点でもずいぶんと変わったものだと思っていました。

私自身、平成9年の7月の初めから北安江の借家で住むようになったのですが、それも思いも寄らぬことではありました。住むことが決まったのは入居する一月ほど前だったと思います。とんとん拍子でことが運んだのも被告訴人OKNのおかげではありました。

石川県金沢市北安江4丁目15−30 (株)北栄 - Google マップ http://bit.ly/1mlfz2N ← 思い出して調べてみたのですが住所はほぼ違っていないと思います。一時期、市内配達でよく行っていた配達先でした。

KOのアパートもこの北栄の近くであったと思います。北栄にはよく行っていましたが、長距離の仕事ではなかったと思うので、北都運輸の市内配達をしていた平成1年の春から秋だと思います。マヨネーズやドレッシング、ジャムを主に運んでいました。業務用が多かったとも思います。

KOが10トンウィング車に乗務したようなことは、割とはっきり記憶にあるのですが、その後、仕事でも余り顔を合わせなかったような気がします。今改めて考えてみると、平成3年の秋以降に、会うこともなかったような気もします。保冷車というか魚を運ぶ仕事に戻ったとは耳にしたように思っています。

既に書いたと思いますが、茨城県古河市の山三青果の仕事が始まったのは平成2年の12月の初め頃で、本格化したのは平成3年の1月に入ってからだと思います。私が乗務した日野のウィング車はイラク攻撃が始まった1月17日の朝に、納車になりました。

栃木へのトナミ運輸の定期便と、千葉と埼玉県岩槻市の2カ所おろしの日通の定期便があって、その2便が、復路の山三青果の仕事とセットになっていました。基本的に毎日大型車2台の積み荷というなっていたと思いますが、大型車一台分の荷物というのも少なくなかったと記憶しています。

山三青果の仕事では行き先というか荷物のおろし先が4カ所と決まっていました。富山、高岡、金沢、福井です。2台入っているときは、基本的に2カ所に分けて積み込んでいたと思います。一カ所だけ極端に荷物が多い場合は3カ所と1カ所になっていたと思います。

これが1台となると、4カ所おろしになりました。仕事内容はかなりきつくなりますが、1カ所おろしでも運賃も給料の歩合も違いはなかったと思います。今考えると、私は4カ所おろしが多かったという気がするのですが、嫌がる運転手が多かったので、これも集中的に割り当てられたのかと思います。

高岡の市場は高速道路である北陸道のインターからも離れていたので、それも手間でした。鮮魚では滅多に行くことはなかったですが、青果物では行くことの多い市場でした。富山の市場は高速のインターに近く、鮮魚の時も必ずに近く立ち寄っていました。

4カ所の場合でも福井の分は、金沢で4トン車に中継に出すことになっていました。ほとんどの場合、中継に来ていたのは被告訴人UHKか被告訴人TTKでした。被告訴人HTNは一度だけ来たようにも思います。福井まで同行したような記憶も残っています。

希に4トン車には乗りきらないほどの福井分があるときがあり、3回ぐらいでしょうか。被告訴人TTKを10トンウィング車に同乗させて、福井までおろしに行くこともありました。以前はこまかい日付まで、ほぼ特定できていたかと思います。

(株)古河中央青果地方卸売市場 - Google マップ http://bit.ly/1b9GkSS ← それらしい名称になっていますが、山三青果が入っていた市場とは違っています。建物も比較的新しく見えます。ストリートビューで見ることが出来ました。

私の記憶にある古河の青果市場はバイパスではない国道4号線沿いで仙台方面に向かい、古河の中心部を抜けてすぐ、新幹線のような高架が交差する陸橋の手前を右に入った左手にある敷地でした。敷地の中には食堂も一軒ありました。山三青果を含め10にも近いような業者の数だったと思います。

茨城県猿島郡境町塚崎2817 山三青果店 - Google マップ http://bit.ly/1bVm8iI ← 古河の市場の中の山三青果は出張所という感じで古くて狭い事務所でした。会社の住所はこのように猿島郡になっていました。

平成3年の9月にはいると、山三青果の仕事は金沢市場輸送から離れ、市場急配センターの仕事になりました。それにともない金沢市場輸送から被告訴人東渡好信と、輪島のHさん、諸江に自宅のあるKさんが、市場急配センターに移動してきました。

金沢市場輸送で乗務していたウィング車と一緒に移ってきたように思います。東渡とHさんは、その年の3月か4月に納入されたウィング車に乗務していました。どちらも日野だったと思いますが、あるいは東渡の方は三菱ふそうだったかもしれません。2台ともそれまでとは違うカラーとデザインでした。

諸江のKさんですが、初めにどのトラックに乗務していたのか思い出せません。しばらくして東渡が配車係をするようになってからは、それまで東渡が乗務していたウィング車に乗るようになっていたような気もします。長距離の出先の仕事で一緒になることもほとんどなかったように思います。

東渡ら3人が市場急配センターに来るような話は、実際に来る一月ほど前から話が出ていたと思いますが、被告訴人IHKも被告訴人UHKも当初は、不安そうなそぶりを見せたり、面白くなさそうな態度を見せていました。

被告訴人東渡好信が白昼に包丁を振りかざし、被告訴人MHK社長を追いかけ回したという話は既に書いていると思いますが、その原因と言うことになっていたのは、東渡が金沢市場輸送で乗務していた新車のウィング車を取り上げ市場急配センターに持って行くと話を決められたことに腹を立てたことでした。

被告訴人TSK会長と被告訴人MHK社長が相談も断りもなく勝手に決めたことに逆上したということになっていましたが、それが本当の事実とは思えませんでした。移動先の市場急配センターの方で反発を予想して、威嚇を込めた演出とも考えましたが、3者で通じているだろうとは思っていました。

実際に私が金沢市場輸送を辞めようと思った動機の一つは東渡好信の勝手な振る舞いがありましたが、市場急配センターに移ってからは割り切って考えるようにもなっていました。ただ、彼らが来るなら私が辞めると言い出すことを、彼らが予想したことは十分に考えられるとは思います。

そういえば思い出しましたが、平成4年の1月か、2月に入ってから日差ディーゼルの新車のウィング車が2台入ったように思います。一台は、被告訴人HTNが乗務したように思います。もう一台が諸江のKさんだったような気もしますが、2台だったかも記憶がはっきりしなくなっています。

ついでに思い出しましたが、3月になると保冷車か、それに冷凍機までつけた10トンウィング車が新車で入って、それに輪島のHさんが乗務したようなことを思い出しました。当時は鮮魚も運べる10トンの保冷のウィング車というのは珍しかったし、値段も高いと聞いていました。

金沢市場輸送のトラックはほとんどが極力安上がりに作られていました。冷凍機でも本来は6トン車に取り付けるものを10トン車に取り付け、体裁を取り繕っているとも聞きましたし、急ぎの鮮魚や冷凍魚など重量物を運ぶ運送会社としては、かなり珍しくターボ車を使っていました。

保冷車のエンジンはV型エンジンで8気筒のV8か10気筒のV10がほとんどでした。ターボ車は馬力はありましたが、坂道での力強さに欠け、下り坂でのエンジンブレーキのききもよくはなかったです。V型エンジンに比べると燃費が極端に良かったことも、会社にしては好都合だったようです。

イワシを運ぶトラックやダンプはすべてV型エンジンにはなっていたと思います。他にも細かいことまで色々ありましたが、極力安上がりのトラックするというのが金沢市場輸送の伝統的方針でしたが、市場急配センターのMHK社長の方は割と気前の良いところもありました。

初めに金沢市場輸送から市場急配センターに来たウィング車は、三菱ふそうのウィング車で車番が2313号だったと思います。2313号については、数日前にも説明を書いていると思います。9月に入る前の8月の終わり頃でした。

その2313号の初めの運行で、私は被告訴人YSNと二人で神奈川県に荷物を運びました。運行自体は9月にまたがっていたようにも思います。何を積んでいったのか憶えていませんが、貸し切りの雑貨のような荷物だったと思います。

神奈川県でも厚木市ではなかたかと思います。配送センターのような倉庫の前の広い駐車場にトラックを止めていたのですが、夜中に騒がしい音や声で目が覚め、外を見ると敷地内にあったファミリーレストランの店員が、酒盛りをして騒いでいました。

帰りの荷物は、荷下ろしをした午後に、東京の晴海で外果の果物を積みました。外国から輸入されてきた果物を外果と呼んでいましたが、バナナやオレンジ、キウィ、パイナップルなどがありました。

平成9年の9月から10月頃は、このように東京から外果を積む仕事が何度かあり、晴海の他、豊海にも積むところがあったような気もしますし、有明には2,3回行っていると思います。

金沢市場輸送で東京の港から外果を積むような仕事はなかったような気もします。大阪や神戸の方では時期的にけっこうあったと記憶しています。市場急配センターでも一度、泉北とかいう辺りの泉佐野市だったかにキウィを積みに行ったことがありました。

この泉佐野市の倉庫から会社に電話を掛けたときも、電話のなかで印象に残ることが被害者AAさんとの間にありましたが、これも現在は具体的なことが思い出せなくなっています。

このあと会社の指示で、被告訴人YSNと同乗して長距離の仕事に出たという記憶は、現在明確には浮かばないのですが、9月に入ってから市内配達の仕事をすることはなかったと思います。

考えてみると日野の新車のウィング車である3068号が納車されたのは平成3年10月12日だったので、それまでの間、どのトラックに乗務していたのか、どんな仕事をしていたのかも、現在はすっきり思い出せず、記憶の衰えを改めて感じました。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月15日


私と同じ日野の10トンウィング車に乗務したと記憶しているKOですが、彼も小木の遠洋漁船の元漁師でした。私が2度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年8月の時点では、既に10トンの保冷車に乗務していたと思いますが、昭和59年10月の私が初めに辞めた時点では会社にいませんでした。

KOも小木中学校だったと本人から聞いていましたが、家は海岸線で小木と松波の中間に近い新保だと聞いていました。当時はいずれも珠洲郡内浦町でしたが、町役場があるのも松波でした。新保だと小木中学校にも松波中学校も好きな方を選べるけど、自分は小木中学校に行ったと話していたと。

何度も書いていると思いますが、小木も松波も平成17年に市町村合併で宇出津と同じ能登町になりました。紛らわしいですがそれまでの宇出津は鳳至郡能都町でした。「のとちょう」と「のとまち」と読み方も違っています。松波も宇出津から距離にして10キロ程度かと思います。

宇出津から小木も10キロ弱だと思いますが、そのまま小木を経由すると松波までは中間に近いという感覚があります。国道沿いに宇出津から松波に向かうのは国道249号線ですが、地元では途中の地名で「十八束」と呼びます。珠洲行きのバスは十八束経由と小木経由があります。

私たちの世代では宇出津と松波の交流は乏しく、小木との交流は多かったです。地域性のようなものもあったかと思いますが、相性がよくないという気もしました。近い割に情報も少なく、なじみも少なかったです。新保の周辺には白丸や川尻という集落もありますが、さらに知らない土地でした。

私の記憶にあるところ、KOはずっと一台だけだった三菱ふそうの10トン保冷車に乗務していました。確か冷凍機がついていたので冷凍車だったと思います。入社したての頃は、6トン車に乗務していたという話もしていいたかもしれません。

他に身近なところでは知り合った頃から、宇出津の私より一つ年下の女性と結婚していました。正確に言えば崎山だと聞いていました。たぶん住所では宇出津と崎山は区別されているように思いますが、地元では宇出津と同じ感覚ですが、宇出津のあばれ祭りでも参加の町内になっています。

崎山台地は私が小学生の低学年、昭和40年代の後半から造成された住宅地です。能都中学校から水産高校の方に行くときも崎山台地を歩いて通っていました。台地の斜面の宇出津港に面した辺りは、酒垂や大蔵町という宇出津の町内です。高台にある酒垂神社の社殿も崎山台地の一部という感じです。

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月14日


2313号に初めに乗務したのも小坂さんだと記憶しています。それまで小坂さんはずっと平ボディ車に乗務していたと思います。経験や好みも大きいのですが、平ボディ車は大きなシートを掛けることが多く、水濡れも常に気に掛けないといけないので、嫌がる人も多かったです。

一方で保冷車のような屋根がないので、パレットに載った荷物や、機械などフォークリフトで積み込んでもらえる荷物も多いので、その方が良いと考える人もいたようです。保冷車や冷凍車は箱車とも呼ばれていましたが、荷物の手積みが多いです。やはりそれを嫌がる人も少なくはなかったようです。

先に山越のことについて続きを書いておきますが、山越の現場での仕事が始まった頃、天井付近でのメインのような配管の仕事が多かったです。作業に必要なものはウィンチという機械で、天井から釣り上げることが多かったです。5インチと思われる配管ですが、あるいは4インチだったかもしれないです。

4インチだと内径は約125ミリということになるかと思います。それも配管としては大きく重いものです。そのほとんどはすでに天井の方に配置されていたように記憶しています。継ぎ目などの加工した配管はウィンチで吊り上げたような記憶もあります。

山越の現場での仕事が終わりの方になった頃のようにも記憶しているのですが、初めに定尺のメインのような配管を天井付近に吊り上げたのはM君もいたそうですが、M君はその配管をミスで落下させたと聞きました。あり得ないとも思いました、重量的にもとんでもない事態が想像されたから。

金沢市入江のアンカーインについてもまだ書いておくことがあるのですが、被告訴人KYNと安原工業団地のS設備の社長が、スナック内の床にビールをまき散らすなどして、出入り禁止になったと聞きました。一度はその場にもいたようにも記憶していますが、動機は全く不明のままでした。

山越の現場におけるウィンチのことですが、普通は重量物を取り扱う工場に設置されているUFOキャッチャーのような道具を想像されるかと思います。そうではなく携帯して手動で吊り下げて使う道具でした。おそらくはレンタルのものかと思われます。重量も2,30㎏程度かと思われます。

何が言いたいのかというと建物に構造的に組み込まれ設置されたものではないので、ただでさえ人為的なミスが発生する可能性は高かったと言うことです。言い換えれば危険性も高い作業です。

配管のパイプというのは定尺で5メートルではなかったかと思います。あるいは既に4メートルと書いているかもしれないですが、ちょっとはっきりとは思い出せません。鉄筋の場合は7メートルという定尺もあったかと思いますが、混同している部分もあるかもしれません。

いずれにせよ長いものなのでバランスが大事です。4インチの定尺のパイプを20メートル上の天井付近まで吊り上げる様子は私自身、見たような記憶がないですが、2点吊りでも、相当に危ない作業であったことは容易に想像がつきます。ウィンチの操作は安定したものでも難しいところがあります。

そもそも20メートルの上までウィンチで引き上げたのも疑問に思えるぐらいなのですが、たしかにこの現場の作業では、最初の方に天井付近でメインというか一番太い配管の作業をしました。

図面か写真でもあれば説明も容易かと思うのですが、絵を描くのも苦手なのでうまく表現できません。イメージで言えば、テレビゲームの中に出てくるステージのような現場でした。鉄骨のような骨組みは4つか6つのブロックになっていたと思いますが、ブロックの間の間隔は3メートル程度かと。

この間隔は通路にも相当するものでしたが、何か昇降式のフォークリフトのようなもので、倉庫の保管物を出し入れするという感じでした。天井から床の間の空間というのも、その通路部分だけだったので、その間にウィンチを据え付けていたはずです。

階段のようなものもなかったので、骨組みの間を上り下りしていたと思います。かがんで作業していたようにも思うので一段あたりの高さは高くても1メートル50センチ程度かと思われます。最終的には一段ごと1.5メートル間隔ぐらいでスプリンクラーのノズルのような配管を取り付けたと。

この現場では他にも変わったことがありました。私たちが作業していたのはたぶん外から見ると25メートルほどの高さの建物でしたが、奥の方には平屋の工場のような部分もあって、いろいろな業者が集まった現場になっていました。

他の現場と違って親会社の監督らしい人とのうちあわせというのも私は記憶していません。小さな現場事務所があったような気もしますが、中に入った憶えもなく、作業員の休憩所というのもなかったか、利用することがなかったように思います。

ただ、朝の朝礼には何度か出た憶えがあり、朝礼に出るようなお達しも出ていたように思います。ある程度の規模の現場になると、他にもそういうことは多少はあったと思いますが、とりわけこやかましい面があるようでした。おそらくその反感や反動があったものと思われるのですが、とんでもないことが。

現場には仮設のトイレがありました。大便用のボックスで2つぐらいだったでしょうか。この数は、比較的少ない感じでもありました。小便器の方は横にあって、外にむき出しの状態になっていたのですが、ある日、その小便器に一人分とは思えないような大量のウンコがしてあったのです。

誰がやったのかという話も聞きませんでしたが、現場における特殊な空気とその積み重ねがもたらした所産のようにも思えました。他の業者の人と話をする機会もなかったので、何もわからなかったですが、ほかにはない経験の現場でした。総括の監督に対する仕返しのようなことは耳にしました。

また、上からの落下物の可能性が際立って高い現場でしたが、そんなことに関する注意を監督の訓辞から受けた憶えもなく、現場のことを全く理解も把握もしていないように思えましたが、熱弁で演説をするような光景は、朝礼で目にしていた記憶が残っていますが、内容はさっぱりです。

この山越の現場の仕事は、若宮大橋の近くのS設備の応援だったと思います。応援のようでしたが、下請けに近かったようにも思え、S設備の人と一緒に作業をした回数も、少なかったような気がします。仕事自体にも慣れていない時期で、高所では気も張り、色々と余裕のない時期でもありました。

M君がこの山越の現場にいたという記憶はないのですが、M君のことを知ってすぐの頃、M君らが4インチの配管の搬送をしたと聞きました。その際に、配管を落下させたような話も既に書いていると思います。M君に対して不信感を持っていた時期ではなかったので、さほど真剣に話しも聞いていなかったと。

あの大きくて重いパイプを落下させたという話を聞いたときは驚きましたが、どの程度の高さから落としたとか、壊れたものがあったのかという話は聞いておらず、なにも質問することもなかったと思います。おかしいと思い始めたのは、配管の漏れと検査の問題が出るようになってからです。