2014年3月13日木曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月07日


大型車ではすでに、ウロコ運送と共同の福岡の魚市場の定期便がありました。他に住所はたぶん金沢市間明になると思いますが、名鉄運送か名鉄運輸の営業所か支店があって、そこからの九州便がありました。

九州の各地を順番に荷下ろししていくとか聞き、最後は鹿児島とも聞いていました。荷物の積み込みのホーム作業を手伝いに行ったことがありましたが、午後の明るい時間帯で、その頃はまだホーム作業の雑貨の仕事をしたことがなかったと思いますが、夕方以外はかなり珍しいと思います。

雑貨の定期便というのはホームでの積み込みになり、集配されてきた荷物を仕分けて積み込むものです。基本的に大型車の仕事であり、中西運輸商の時も4トン車というのは予備のおまけという扱いで、ほとんどが最終便でした。

ついでに書いておきますが、中西運輸商での佐川急便の広島・九州便では、金沢の痕、加賀や福井の支店から残り物の荷物を積んでいくことが多く、忙しく交通事情のよくない雪の時期では、福井で荷物を積み終えて出発してから高速に乗るのが3時頃というのも何度かあったように思います。

米原ジャンクション辺りまで来ると、朝の5時頃で、明るい中をとても眠い思いで、交通量の多い名神高速を走って、九州に向かうと言うことが何度かあったと記憶しています。

当時の佐川急便の仕事では荷物は隙間なしの満載が原則でした。荷物と荷物の隙間に拳が入るようではダメとも指導されていました。運賃は1つでも満載でも同じだと聞いていましたし、立ち寄り支店の数も運賃とは無関係だったと思います。

実際に一箱だけの積み忘れの荷物を持って横浜まで行ったときもありました。この時は暇もあったのか2,3人で乗用車に乗り日帰りで持って行きました。被告訴人OKNもいいたかもしれません。

午後の4時ぐらいに金沢に戻り、それからアパートに集まって買ってきた豚肉をフライパンで炒めて食べたようなことも憶えています。押水町出身というDTが一時期、中西運輸商にいた頃だったと思います。年は私の一つか二つ下で、元は雷神という暴走族のメンバーだったとも聞いていました。

大人しくて優しい少年だったというイメージが強く、やはりその頃はまだ18か19歳で未成年だったように思います。富来出身のOTの友達として知り合ったと思います。東力のアパートにしばらく居候としても生活していたように思います。

中西運輸商ではファミーとかスーパーの名前が箱に書いてあるオンボロの4トン車に乗っていて、岡山県の津山市あたりだったか中国自動車道ですが、トラックを横転させたような話があったかと思います。ちょっと記憶があいまいですが。

ふと思いだしたのですが、京都市内で引っ越しの荷物の積み卸しをしていて、会津小鉄会という大きな暴力団の組員の車にこすったとかぶつけたという話がありました。さすがの中西運輸商の社長も頭を抱えたとか聞きました。

それが押水のDTであったか記憶ははっきりしません。また、別の事故絡みの暴力団とのトラブルであったか、運転手の一人が口をきいて解決したというような話も聞きました。その口利きをしたという人の顔は今でも覚えているのですが、まとまって数人で入ってきた運転手の一人だったと思います。

福井のYTはその人物とも親しくしていたように思います。YTが入社した時期と被告訴人OKNや富来のOTがいた時期とは重ならず面識もなかったと思うのですが、YTは押水のDTのことをよく知っていたような気もします。以前から知っていたような関係ではありません。

会津小鉄会のトラブルというのも福井のYTの口から聞いていたように思いますが、押水のDTが中西運輸商にいた時期というのは長くはなく、長くても2ヶ月ぐらいではなかったかと思います。寝過ごしやミスをしながらも頑張っていたという印象も残っています。

押水のDTのことは当時はまだ結婚していなかった私の妻もよくしっていました。その後しばらくしてぱったりと会うこともなくなったのですが、羽咋市か押水町辺りの国道沿いのパチンコ屋で、たまたま顔を合わせたことがありました。会ったのもそれが最後でした。

昭和63年の正月になるのではと思います。あるいは昭和62年です。宇出津に帰省した帰り道、妻と子供を連れながら、国道沿いのパチンコ屋に入りながら金沢に帰ったことがありました。妻はすごく不機嫌でしたが、お金をせびりながらやっていました。

初めて宇出津の大橋組にあるパチンコ屋でパチンコをしたのもその正月休みの時でした。以前は、斜め向かいにある被告訴人OSNの家から、先輩を探しに行くように言われて、何度か入っていたパチンコ屋でした。能都町の長者番付で毎年1番とも聞いていたパチンコ屋でした。

その時には藤波の辺田の浜にもラッキーというパチンコ屋が出来ていました。その店に入ったのも初めてでしたが、小木中学校の相撲部だった一つ年上の先輩に会って、少し話をしたことも憶えています。暴れ者としても有名な3人の1人でしたが、中学を出て小木の漁師をしていました。

小木のその先輩の家にも一度遊びに行ったことがありましたが、よくは憶えていません。私の前後の年代では地元でもっとも恐れられているような3人の1人でした。そのうち2人は小木中学校の相撲部でした。ここでは一応3人のグループのように書いていますが、詳しいことはわかりません。

噂に聞くことが多い3人だったのです。しかし、そのうちの一人で元相撲部ではないYMさんだけが、その後、宇出津の私の友人知人との付き合いが多くなっていきました。

被告訴人HTNが水産高校小木分校を退学になったのは昭和55年の5月か6月の頃です。退学になって間もない頃は、よくその小木の3人のグループと付き合いをしているとも聞いていました。長い髪を金髪に染め、ホーク2というバイクに乗って、校門の前まで来ていた姿も記憶しています。

被告訴人HTNが小木分校を退学になった理由についてはまだ書きそびれていたと思いますが、その時点においても松波のある同級生に対して、強い恨みのようなものを持ち、それを私たちにもストレートにぶつけていました。

その同級生の名前については思い出せなくなりました。私や被告訴人KYNからすれば一つ先輩でした。部活が同じだったのか被告訴人KYNの方が付き合いもあってよく知っていたと思います。部活はバスケット部ではなかったかと思います。

小木分校は専攻科ありましたが、一学年の定員が40名でした。退学者がいないとしても3学年で120名という計算です。部活の方も自ずと数も限られ、あったのは柔道部とバスケット部、それと野球部があったようななかったような感じです。私は柔道部でした。

夏休みだったと思うのですが、部活の合宿で夜に学校にいたことが一度あったように記憶しています。前にある墓場に肝試しに行くとか行かないとか、3年生の二人の女子のマネージャと話をしていたようなことも憶えています。

それ以外に日が暮れる時間の早い冬を含め、暗くなった時間に学校に残っていた記憶というのもさっぱりなく、小木や姫の友達の家で、汽車の時間待ちをしていたことが多かったと記憶しているので、部活というのは熱心なものではなかったです。

それでも一度は、金沢の県大会に行きました。鳴和の新しい武道館の建物でした。宿泊は森本だと聞く山の方の温泉のような割と大きな旅館でした。3年生の女子のマネジャーもいたことを憶えているので、一年生でも早い時期ではなかったかと思います。

高校というのは4月の初めに入学して学校生活がスタートするものだと思います。他の中学校から来た生徒ともうち解けて落ち着いた頃に、遠足がありました。5月になっていたんじゃないかと思います。その時海水浴をしたぐらいですから、6月かそれに近い時期かもしれません。

私は被告訴人KYNらとは別の友達と海水浴などしていました。天気が良かったので体操着のまま海に飛び込んだのですが、近くに幼稚園児の遠足のような姿があったことも記憶しています。

場所は同じ珠洲郡内浦町でしたが松波に近い赤崎というところでした。住所としては松波とは別になるのかもしれないですが、当時の私たちは松波の赤崎という認識だったと思います。その頃からイチゴ狩りで地元では知られた場所だったと思います。岩場の海がありました。

歩いていけるような場所ではなかったので、バスか何かを使った遠足だったと思います。その時は何も知らずに、遠足から帰りました。

遠足から戻って数日すると大問題が怒っていることを知りました。2年生と私たち1年生の多くの生徒が、遠足中に赤崎に近い松波の2年生の生徒の家に行き、集まってタバコを吸っていたのが発覚したという話でした。

タバコは男子であれば半分からそれ以上が吸っていたと思いますし、私もそうですが、毎日普通に学校に持って行っていたと思います。喫煙が見つかれば停学になることも知っていました。停学は3回までで4回目は退学になるとも聞いていました。

女子と男子の比率は学年によって多少の違いはあったと思いますが、だいたい1:3ぐらいの比率だったと思います。2年生より1年生の方が多かったようにも思いますが、半分近い生徒が摘発を受け、停学になったような話だったと記憶しています。摘発という言葉はどうかと思いますが、とりあえず。

だいたい私はその現場にもおらず、松波の先輩の家も知らなかったのでまったくわからないのですが、とにかくこの問題で、3回の停学を既に受けていたという被告訴人HTNが退学になったと聞きました。

被告訴人HTNは能都中学校でも同じでしたが、1,2年生の頃私は相撲部に入っていて、授業が終わるとすぐに歩いて水産高校本校に練習に行っていたので、放課後に学校内にいることも少なく、被告訴人HTNのことはそれほど知りませんでした。

それでも早い時期から被告訴人HTNも私のことは知っていたと思います。ちなみに能都中学校の私の学年は204人でほぼ40人ずつの5クラスでした。前後の学年は多少生徒数も少なかったと思います。二つ下になるともっと少なくなり、クラスの数が一つ減っていたはずです。

ついでに書いておきますが、能都中は、宇出津小学校、神野小学校、真脇小学校と三波小学校の一部から集まっていました。

三波小学校は波並にあったと思いますが、三波というのは宇出津から近い順に藤波、波並、矢波になっていました。このうち藤波は宇出津に近い順に辺田の浜、柳倉、間島の3つで、間島の生徒は三波中学校に行っていました。矢波の生徒は鵜川中学校でした。

国道249号線の海岸線でもありますが、矢波の先には七見という集落があって、その先にあるのが鵜川でした。当時も宇出津と同じ能都町でした。被告訴人YSNはその鵜川の出身です。既に書いているはずですが、鵜川中学から水産高校漁業科を卒業しました。

鵜川にはスーパーもあったり、他の集落よりははるかに大きな町でした。その先の国道249号線を進むと国道は海沿いではなく山間の方向に進んでいますが、いくつかの小さな集落があって、その先に瑞穂という鵜川ほどではないですが、そこそこの集落があります。

瑞穂を超えてしばらく走ると穴水町に入りました。私たちの頃は瑞穂中学校もありましたし、その周辺の集落にもいくつか小さな中学校があるように聞くことがありました。国道から外れると、私が未だに踏み入れたことのないような集落もいくつかあると思います。

そういう集落の名前を言っても通じないこともあるので、近辺の割と知られた集落の名前を出して、そちらの出身のように話すというのは珍しいことではなかったと思います。

実際、被告訴人OSNは被告訴人HTNが金沢で、出身を宇出津だと人に言っていると話していたこともありました。私の経験でも金沢では宇出津と言っても通じないことがあるので私は珠洲の手前の方、と答えることもありました。珠洲は私の知る限りの前から珠洲市がありました。珠洲郡は消滅しましたが。

こみ入った説明をしましたが、本件において気になる存在の人物として、その瑞穂の出身だという西○がいたからです。たしか金沢の尾山台高校を出たとも聞いていたと思います。金沢の私立高校では最低の学力レベルとも聞いたことがあったように思いますが、詳しくは知りません。

西○は事件の真相について知っている可能性の堅い人物であると同時に、いろいろとしがらみの強い立場であることも考えられるのですが、真実追究の公益をはかるためにも、この際、実名で行こうと思います。下の名前までは知りませんし、割とありそうな名前でもあります。

西口という名前でした。前にいくらか触れていると思いますが、金沢市場輸送の山田という大型運転手の娘の婚約者という話で、金沢市場輸送に入ってきました。最大級のキーマンの一人被告訴人YSKとほぼ同時期だったと思います。

同じく同時期にいて年頃も同じぐらいだったS藤についての事実も、まだ記述が途中になっていると思います。S藤の名前はそのまま出せないです。元暴力団員ということではなく、事件を起こし有罪判決を受けているからです。

キャベツのような入れ墨を入れていたということは書いているはずですが、組を辞めるとき必要もないのに指を一本詰めたという話もありました。一時はそれだけ真剣に更生したいという気持ちもあるいはあったのかもしれません。

S藤が女子大生と交際しているという話は聞いていましたし、その女性の姿を見たこともあるように記憶しています。顔までは記憶にないですが、大人しくまじめそうな普通の女性だったと思います。短大生であったかもしれません。金沢短期大学というのもありました。

最近はテレビでも見かけないし聞いていないので、あるいは学校名が変わっているのかもしれません。付属の高校もあって「たんこう」と呼ばれていましたが、女子校だと聞いていました。よく知らないですが、短期大学の方も同じく女子校ではないかと思います。

S藤については金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていたものの、いつの間にかまったく姿を見かけなくなっていました。市場急配センターの事務所が出来て、市内配達がそちらに移ってからは、一度も見かけていなかったように思います。

もともと余り付き合いもなく顔見知り程度だったのですっかり忘れていたと思います。再び姿を見るようになったのは平成3年の秋でした。市場急配センターの一階に休憩所のようなものが出来てからのことです。

この休憩所についても説明が中途半端になっていたと思いますが、出来たのは平成3年の9月の20日頃ではなかったかと思います。大工が工事を始めて一週間か10日ぐらいで、完成していました。畳の座敷も作られていたのですが、短い間にできあがっていたと記憶しています。

この工事中に被害者AAさんのフィルム貼りの手伝いがありましたが、こちらも十分な説明は済ませていないと思います。運転手の控え室という感じでもありましたが、休憩室とも控え室とも呼ぶ者はいなかったと思いますし、たんに一階とか言っていたように思います。

休憩室が出来る前と出来たあとの違いもあるので、これからは休憩室ということにしておきたいと思います。わりとくつろいだ利用をする運転手もいました。テレビがあって寝泊まりも出来るような畳の座敷もありましたが、私はほとんど座敷に上がることがなかったです。

その座敷で横になって眠ろうとしたことは一度だけありました。結局寝付けず、そのうち時分のトラックに戻ってトラックの中で寝たように思いますが、その時その場にいたのも西口でした。

それはちょうど平成3年の仕事納めの日であったとも思います。あるいはその前日です。仕事納めの日ではなかったと思います。仕事納めの日の夕方は、長女が生まれたという被告訴人YSNに祝儀袋を渡すため、彼を捜していたという記憶があるからです。

中央市場口の交差点に近い金石街道沿いのパチンコオークラで被告訴人YSNを見つけて、店の外で祝儀袋を渡しましたが、まったくありがたそうなそぶりもなく、面倒くさそうにも見えたようにも記憶に残っています。渡すだけ渡してすぐにその場を離れました。

もう一度考えてみると、その後であった可能性もあるかと思います。とにかく正月休みに入ろうという時期だったと思います。夕方すっかり暗くなっていたと思います。私は時間帯的にも珍しく金沢市場輸送の給油機のところにいました。

なお、その金沢市場輸送の給油機はちょっとしたブロック塀のようなもので仕切られ、パチンコオークラの駐車場と隣接していました。パチンコ店の店のすぐ裏の駐車場ではなく、道路をはさんだ別の一角の駐車場でした。割と空いていることも多かったので、そこにトラックをとめることもありました。

そこでトラック同士の荷物の積み替えをすることもありました。平成3年の4月頃、再会して数日経った頃には、被告訴人YSKが輪島屋鮮冷の4トン車で来て、何か荷物の積み替えをしたこともありました。

思えば輪島屋鮮冷と金沢市場輸送の社長兼配車係であった被告訴人MTKが、輪島屋鮮冷と仕事のやりとりをするようになったのも、その一月ぐらい前からであったかもしれません。もともとは付き合いがあると聞いたこともない、あるとも考えないような運送会社でした。

輪島屋鮮冷のトラックを見かけるようになったのは、私が金沢市場輸送で保冷車の仕事を初めて、そう長くない時期であったように思います。あるいは昭和59年かもしれません。

初めのうちは金沢港の県漁連の魚市場の前に駐車してある4トン車をよく見かけていました。6月か7月初めのスルメイカの時期だったと思います。当時は丸中水産の仕事で行っていたように思います。

丸中水産に関する説明も中途半端に途切れていたと思います。私がその仕事を初めてまもない昭和59年の春頃だったと思いますが、丸中水産は若旦那のような社長が、先代から跡を継いだばかりのような状況とも耳にしていました。歌舞伎役者の若旦那みたいな人でした。

その頃に聞いていた話は、丸中水産の先代の社長が、当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKにかなり大きな義理があるとかで、切りたいけどやむなく金沢市場輸送に新潟便を任せているという話でした。

私が二度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年8月には、丸中水産の仕事はなくなっていました。ちょっと何かあって金沢市場輸送が手を引いたところ、すかさず守田水産輸送がとって変わったという話で、守田水産輸送になってからは仕事や荷物の量もずいぶんと増えたと聞きました。

誰から聞いたのかも憶えていないですが、急に減った仕事が増えるはずもないので、金沢市場輸送との縁を切るための策略ではなかったのかという感じにも聞こえ、よほど腐れ縁を切りたかったのかとも考えました。実際のことは部外者でもあり正確にはわからないです。

昭和59年の5月か6月頃の時点では、イスズの新車の4トン保冷車の保冷の箱に「金沢丸中水産」などと大きく書いていたぐらいですから、将来的な関係の継続を踏まえていたのだろうとは推測します。

そのイスズの新車の4トン車にはエアーブレーキがついていました。大型車はエアーブレーキが常識でしたが、4トン車でエアーブレーキを見たのはそれが初めてだったと思います。丸中水産と書いた保冷車は、それ一台で終わったと思います。

はじめに被告訴人OKNが乗務していたと思います。その後、兄の被告訴人OSNが乗務したのですが、名古屋の市場で荷下ろしをした帰り、居眠りで街路樹に激突、トラックは大破し廃車になったと聞いたように記憶しています。

トラックの本体と保冷の箱は別物というのが基本でした。箱の載せ替えでトラックだけ新車にすることもあったぐらいです。箱の方まで使えなくなったとは聞かなかったように思いますが、以降、丸中水産と大書きした箱の4トン車というのは、はっきり見たという記憶も残っていません。

昭和59年当時は大型車の数と4トン車の数も余り違いがなかったと思います。事務所に黒板があって、左側に大型車、右側に4トン車の配車が書いてあって上の方から運転手の名前がありましたが、左右の数がそれほど違っていなかったと記憶しています。

平ボディ車が3台はありましたし、6トンの保冷車も2台ありました。既に書いていると思いますが、大型の平ボディ車には原田さん、棟方さんが日通カラーで、もう一台に小坂さんが乗務していたと思います。6トン車には武田さんと越田さんが乗務していました。

昭和62年になると原田さん、棟方さんの姿はなくなっていましたが、平ボディ車には亀谷さんが乗務していました。イワシのダンベの仕事もよくやっていましたが、辞めたという話は聞かなかったものの平成3年頃には、姿を見ることがなかったようにも思います。

亀谷さんはもともと小松市から来ている人だったので、トラックをなかば通勤にも使っているような状態ではなかったかとも思いますので、会社にいること自体、他の運転手より少なかったとは思います。

畠山さんという人もけっこう長い間、10トンの平ボディ車に乗務していました。しばらく経ってからわかったようにも思いますが、その人は私の妻の母親の弟でもありました。

平成2年の秋頃、東渡好信らが入ってきた頃はまだ金沢市場輸送にいたように思います。その後、急に姿を見なくなったのですが、群馬県内の伊勢崎市辺りで夜中の速度違反取り締まりに引っ掛かり、相当大きな速度違反だったとも聞きましたが、捕まってすぐにいなくなったような話でした。

畠山さんも輪島の海士町で、単身出稼ぎのようなかたちで金沢に来ていると聞きましたが、金沢のどこに住まいをしているという話も聞かなかったように思います。また、海士町には妻の家に養子に入ったと聞きましたが、畠山という名前は元々の名前だと思います。

妻から母親の旧姓が畠山と聞き、羽咋市辺りの出身とも聞きました。由緒のある家系らしいとも聞きました。歴史的にも畠山氏というのは室町時代の能登の守護になっているようです。詳しくは知りませんが、能登を統治していた殿様のように聞いた憶えもあります。

前にも紙面を割いた説明を行っていると思いますが、最近では聞かないものの昭和の時代の輪島の海士町というのは特異な存在でした。歴史的にも身内意識が強く近親婚を繰り返してきたとも聞いたことがあります。そういう土地に婿養子に入って元の姓を名乗っているというのもどうかなとは思っていました。

畠山さんも金沢市場輸送で麻雀をしていたような気もしますが、どうもそれほどはっきりしたことは思い出せず、時々参加をしていたとしても、さほど常連という感じではなかったように思います。平ボディ車とは仕事の内容も違っていたので、顔を合わす機会もそう多くはなかったとも思います。

それでも畠山さんも亀谷さんと同じく、小林健一と一緒にイワシのダンベを運んでいた時期があったと思います。本来はミールの方を多くやっていたと思いますが、小林健一の方がそれほどミールの仕事をやっていなかったようにも思います。ミールを積み込む姿を余り見かけた記憶がないからです。

昭和63年の一月になるかと思いますが、ダンベのイワシを積んで大人数で四国の香川県丸亀市あたりまで運んだことがありました。丸亀市の先の善通寺市だったとも思います。

ダンベの降ろし先は瀬戸内海の海に面した、なんとなく水産試験場のような場所でした。ちょうど泳いでいる大きなブリの姿や、それを捕まえて引きあがるような作業を見物していたことを憶えています。聞くとかなり大きなブリでしたが、1本5千円とか聞き、ずいぶん安いものだと思いました。

ちょうどその四国の運行から戻って数日後に、被告訴人KYNの結婚式が宇出津であり、あの5千円とか言う養殖のブリを買って、結婚式のお祝いに渡せば良かったかなと考えたことも割とはっきり憶えています。

その四国へのダンベの運行には、小林健一も亀谷さんもいたと記憶していますが、畠山さんの姿となるとはっきりとは思い出せません。ただ、なじみの顔ぶればかりで、人数も多かったので、畠山さんがいた可能性のある程度高いのではと思います。

そもそもいつ頃から畠山さんの姿を見るようになったのかも思い出せないのですが、金沢市場輸送の事務所が西念町にあった頃には、見かけていなかったように思いますし、前の事務所やその付近で話をしたという場面の記憶もありません。

被告訴人KYNの結婚相手ですが、同級生だと聞いていました。瑞穂の出身で金沢で知り合ったと聞きましたが、宇出津の同級生YYの紹介とも聞きました。そのYYも結婚式には参加していたと記憶しています。

YYのアパートには被告訴人KYNと一緒に遊びに行ったことがありました。金沢市入江と聞いていましたが、ニュー三久の神田店にも近く、住所としては玉鉾にも近い辺りのように思いました。確か神田店となっていたと思いますが、住所は神田ではない感じでした。

先日、たまたま調べてみたのですがGoogleのストリートビューでは現在、セブンにイレブンのコンビニになっていて驚きました。東力に住んでいた頃、金沢市場輸送との中間ぐらいの場所でもあり、よく家族と買い物をしていたスーパーでした。

Googleマップで確認したのですがニュー三久のスーパーがあったのは入江のようですが、道路の向かい側の一帯は新神田になっていました。ニュー三久も神田店ではなく、新神田店だったと思われます。高岡中学校も住所が新神田だったとは、ちょっと意外でした。新神田は思っていたより広いようです。

同じくGoogleマップの地図で周辺を見ていて気がついたことですが、金沢市神田あたりにあったはずの中央自動車学校が跡形もなく見当たらなくなっていました。別に調べたところ、2007年6月のブログの記事で最近倒産したという情報を見かけました。

ついでなので、これも忘れて書き漏らしをしないうちに書いておきたいと思います。中央自動車学校について、一つ書いておく予定の事実があったからです。

現在は前後のことが思い出せなくなっているのですが、夕方に近い時間の被告訴人OKNとの電話の一場面だったと記憶していますが、断片的な記憶となっています。

前後のことが思い出せないのできっかけもわからないのですが、被告訴人OKNが父親の殺人事件について何かを語ろうとしたときのことでした、明るい期限の良さそうな声でしたが、取り急いでいる雰囲気も電話越しに伝わってきました。

中央自動車学校の教官がなんとかで、それが今、自分が住んでいる金沢市円光寺の家の購入とも関係があるような話をざっとして、続きはあとで会ってから話すようなことを言っていたように記憶しています。

数時間後か、実際夜になってから被告訴人OKNと会ったように思いますが、前の話の続きをするようなそぶりを見せなかったので、私の方からも電話の会話の続きに触れるようなことは口にしませんでした。

被告訴人OKNの電話での話はかなり不自然に思え、なにか探りを入れるために、そんな話を持ち出したとしか思えなかったからです。

円光寺の家の購入については他の機会にも何か話を聞くことがあったように思いますが、父親の殺人事件と関連や中央自動車学校とのつながりについては、まったく見当もつきませんでした。刺激をしてもよくないと思っていたので、向こうが触れてこない以上、聞く気もなかったことです。

父親の殺人事件についてはそのずっと前から知っていて話も聞いていたと思います。本当の初めこそ、思いだすのも嫌そうに話をしていましたが、その後はほとんど抵抗なさそうに話をしていました。ずいぶんと迷惑を受けたとか、自分らの被害を訴えるような話が多かったという印象もあります。

仕事の上でも肩身の狭い思いをし、心ない言葉を受けたようなことも憂さをぶつけるように話していました。そもそも彼の苗字はほとんど聞かないものでした。漢字2文字の組み合わせを分解すると、誰でも読めるような漢字でしたが、名前としては彼の親戚外に聞いたこともなかったです。

子供のこともずいぶん案じている様子だったので、ほとぼりが冷めるまで妻の旧姓に変えてはどうかと言ってみたこともあるのですが、自分の名前に特別な思いを背負っているような感じで、そういう選択はあり得ないというように言っていたように思います。

過剰に被害者性を強調しているようにも思いましたが、実際彼が周囲に期待した以上の同情や理解も得ているようにも見えました。あとあとになると、けっこう面白がっていたんじゃないの、という感じにも思えることがありましたが、事実それに近いものはあったようです。

今思い返してみると、それは直接顔を合わして交わした最後の会話だったかもしれません。平成13年12月31日の金沢刑務所の出迎えが本当の最後の顔合わせになったかと思いますが、事前の連絡もなく正門の前にワゴン車に乗って待っていたもので、また違うものでした。

平成11年の4月中だったと思います。私が逮捕されたのは8月12日だったので、その間にもあるいは1回ぐらいは会ったことがあったかもしれませんが、会話らしい会話というのはやはりその時が最後であったように思います。私が彼を信用することもなくなっていました。

場所は西金沢の住宅でした。建て売り販売の内見会のような住宅でしたが、家の周りにのぼりの旗が何本か立っているぐらいで、住宅の中にもパンフレットのようなものは置いてなかったように思います。当時はそれほど意識していなかったことですが、改めて考えるとかなり不自然です。

西金沢といっても、自分の感覚としてのだいたいの場所です。Googleマップで、出来る限りの場所を特定しておきたいと思います。全体のマイプレイスとしては、以前、印をつけたこともあるので、データは残っているはずですが、新たにこれだけを特定しておきます。

石川県金沢市押野1丁目196 - Google マップ http://bit.ly/MRLK9K ← この通り沿いの野々市方面に向かって左側にあったことははっきりしているのですが、もっと奥の方であったか、手前の方であったかはっきりしません。

手前の方だと住所が西金沢になるようです。西金沢の踏切の手前、古い工場の敷地の壁沿いのような通りは、昭和59年当時も野々市方面への裏道として利用していたことがあり、馴染みのある道でしたが、奥の方へ行くと道路事情もすっかり変わっているようです。

その展示場のような住宅の近くは道が多少折れ曲がる場所があったような気もするのですが、それらしい場所は西金沢の住所で手前の方になりそうです。

閑静な住宅地という感じでしたが、昔は裏道として交通量も多かったような気もしました。他に便利な道がいろいろできたので、交通量も減ったのではないかと思われますが、昔を知らない人は、通ることもない道であったようにも思えます。

会ったのは日曜日で午後だったと思います。当時は日曜日も仕事が多かったので、それ以外の曜日というのも考えにくいです。内見会のようなのぼりは出ていたと思いますが、人が来るような雰囲気はほとんどなく、外からは中に人がいるようにも思えなかったとも思われます。

家はグレーに近い色がベースになっていたように思いますが、まあ、建て売り住宅という感じでした。西宅建株式会社の建て売り住宅だったと思います。上荒屋の住宅よりは小さかったと思いますが、同じ建て売りなので、いくらか似ている建物にも思えました。

自分で設計した家を建て売り販売する、それが西宅建の社長のスタイルとも被告訴人OKNから聞いていました。株式会社にもなっていましたが、事務所というのも住宅の一部屋という感じでした。妻が仕事を手伝うことはあるとも聞いたような気もしますが、従業員がいるとも聞かなかったです。

Google マップ http://bit.ly/1cebCIM ← ストリートビューで探し回ったのですが、西宅建はこの場所にあったのではと思います。確信は持てませんが、70パーセント以上の確率はあるかと思います。

石川県金沢市古府2丁目164−3 ← こちらが住所です。古府であったこととこの辺りであったことは間違いありません。ただ、建物の方がすっかりなくなっているようです。平成11年の1月や2月のことなので、15年前と言うことにもなりそうです。

西宅建の建物をGoogleマップで探したのは今回が初めてではありません。ある程度の範囲は絞り込めているので、その周辺はもれなく目を通していると思うのですが、建物自体が土台からなくなっていることは間違いないと思います。

気になるのはその周辺に鉄塔のようなものがあったはずなのですが、Googleマップでははっきりそれらしいものを確認できませんでした。近くのテレビ金沢の建物にあるのが、その鉄塔なのかもしれません。

西宅建の近くに鉄塔があることについては私自身、意識したことはなかったのですが、被告訴人KYNが「あの鉄塔の近くにある詐欺師みたいな不動産屋やろ」というようなことを私に投げつけたことで、そういえば近くに鉄塔があったような気がするとその時は頭の中で考えていたのです。

当時はいろいろあってので、そんなこともすぐに忘れていたのか、その後も西宅建の建物には行っていたと思いますが、どこに鉄塔が見えるのかと、辺りを見渡したような憶えはありません。

被告訴人KYNに鉄塔と言われたとき、私は南新保に近い西念の辺りを思いだしていました。そこには昭和59年頃から大きな鉄塔が見えていたのですが、周囲に法務局などの大きな建物も建って、鉄塔自体はそれほど目立たなくなっていたと思います。

その鉄塔の近くには金沢市場輸送の寮と聞く、一軒家もありました。一度はその中に入ってことがありましたが、誰と一緒に誰を訪ねていったのかなどは憶えていません。昼に行きましたし、何か会社の方で、用事を頼まれてそこに行ったような気もします。

部屋の中に座ってくつろいだという記憶も全くないので、やはり何かの用事で行ったのだと思います。着の身着のままというか、寝泊まりするのに最低限の物しか置いてないような光景を見たようにも記憶しています。

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