2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月25日


被告訴人YSNがアルバムを見せてくれたのは夏頃ではなかったかと思います。9月以降も行く機会はあったと思いますが、長距離の仕事をするようになってから会社以外で一緒に遊ぶ機会は少なかったと記憶しています。

平成3年10月6日には被告訴人YSNに同行して名古屋の北部市場に行ったと思いますが、彼のアパートには行っていないと思います。朝に出発したと思いますが、帰ったのも夕方でまだ明るい時間だったように思います。

Linuxのcalコマンドで確認しましたが、平成3年10月6日は日曜日になっていました。この翌日の月曜日だったと思うのですが、駐車場の奥の方に注射していたYSNの10トンウィング車がぶつけたとかぶつけられたとか、被告訴人MHKが疑いを私に向けて話しかけていました。

この時だけではなくMHKは、直接被告訴人YSNに対して注意をしたり問いただすということをまったくしようとしませんでした。別の言い方をすればずいぶんと遠慮がちで消極的な姿勢でした。君子危うきに近寄らず、という言葉のように様子見で警戒しているように見えなくもなかったのですが。

他の運転手や社員に対しても消極的で干渉しないというふうに見えていましたが、全く異なるような話も以前耳にしていたので、私としてはキャップも感じていました。会社の経営自体が安定期に入ったので、そう変わったのかと考えることもありましたが、実際のところはよくわかりませんでした。

前に聞いた話というのはMHKがO西さんの息子をクビにしたという話です。息子だけでなく息子の友達も一緒にクビにしたという話であったかもしれません。これも小林健一から聞いたような気がするのですが、だとすると自分の記憶とは一致しないところもあるように思われます。
O西さんの息子は市内配達の仕事をしていましたが、何度か会社の指示で長距離の仕事をやったこともあるようです。これは息子の友達も同じでした。私の知る限りその友達というのは2人いました。一人は前に書いているはずですが、一緒に長野から滋賀県の大津市にリンゴを運んだUです。

Uと別の一人は、名前を忘れていますが、Uとは異なり割とありふれた名前だったと思います。平成4年の秋だったと思うのですが、金沢刑務所の拘置所の廊下で、彼らしい姿の若者を見かけました。無口で暗い感じでしたが独特の雰囲気があったので、本人に間違いない可能性は高いと思います。

O西さんの息子に関しては、山中温泉キャッスルバーデンホテルの慰安会で一緒であったことをはっきり記憶しています。昭和62年の6月ではなかったかと思います。鶴来のHもいたはずかと思います。金沢市場輸送の事務所がまだ西念にあったことははっきりしていますが、もしかすると昭和63年かも。

鶴来のHとは輪島のMYと4人で内灘に海水浴場に行ったこともありました。鶴来の彼の自宅にも一度遊びに行った記憶があります。もう一人は同じく鶴来の若者でHよりは一つか二つ年下だったように思います。名前は忘れましたが割と長い間、金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていました。

鶴来というのは石川郡鶴来町のことですが、ATOK X3 for Linuxのアシストによると現在は白山市になっているようです。Hの上の名前は今も憶えています。元暴走族とも話していたと思いますが、年の方はよく憶えていません。同級生か一つか二つ年下だったとは思います。

鶴来のもう一人ですが、当時はまだ成人前の18歳か19歳の少年だったような気がします。印象的に憶えている場面があるのですが、それは昭和59年と同じ金沢市場輸送の事務所でした。夕方に近い時間、当時市内配達の責任者をしていた高田という人物が、電話をとりました。

鶴来のHではない社員の父親が急死したという連絡を受けたようでした。高田も慌てた様子でしたが、すぐに本人が入ってきました。何の前触れも理もなくいきなり父親が死んだのですぐに家に帰るように高田は言いましたが、余りのストレートさに側にいた方も驚きました。

高田がいなくなったのもそれからしばらくした頃ではなかったかと思います。既に書いたような気もするのですが、行方をくらまし、富山の右翼団体の6人ぐらいが戦闘服のような格好で事務所に来たことがありました。

0 件のコメント:

コメントを投稿