2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月09日


被害者の兄とは一度だけ電話の応対を受けたことがありましたが時期がはっきり思い出せないです。被告訴人YSNの話ではロックバンドをやっていて片町で遊び回っているような話でした。この話を聞いたのは平成3年の秋だったと思います。計画的に作り上げられた被害者のイメージの一つかと思われます。

被害者の父親が自宅の電話に出たのは2回でした。1回目は平成4年1月21日の夜だったと思いますが、被告訴人HTNの自宅アパートから掛けた電話の時だったと思います。ものすごく丁重な対応で、戻ったばかりなのでわかりませんというような説明を受けました。ほとんど経験のない丁重さでした。

2回目は2月の中頃だったように現在の記憶の範囲では思われます。短い対応でしたが、側に被害者本人がいて、出るのかでないのか意思を確認したような様子でした。不在だとは言われましたが、なにか戸惑いが伝わる雰囲気でしたが、警戒する様子はなく手短すぎるとも思える対応でした。

居留守を使う目の前の娘に、ちょっと怒ったような雰囲気が伝わりましたが、干渉する親子関係ではないという感じで、強くて自然な信頼関係があるようにも思えました。母親との関係でも似たようなものを感じましたが、一度だけ警戒心を露わにするような反応がありました。

それは平成4年1月25日の夜に掛けた電話の時だったと思います。その日、彼女は珍しく17時の10分ほど前に、俯きながら泣いたような様子で小走りに退社していきました。私は事務所一階の運転手の控え室のような部屋から前を通り過ぎる彼女の姿を見ていました。

その日、彼女は真冬なのにセーター一枚の服装で目立つように金色のネックレスを首に掛けていました。クリスマスプレゼントとして自分が渡したティファニーのネックレスとも思えたのですが、それにしては長さがかなり違うような印象を受けていました。どちらかが長く短かったのです。

セーターの色は黒だった気がします。ネックレスの長さも含め現在は記憶が薄れています。寒い時期にそのような薄着をすることは事務所内でもなかったと思います。事件当日の4月1日、より露骨に薄い長袖のシャツで、線のはっきりしないパンクぽいデザインでしたが、ピエロ(道化師)の絵がありました。

長袖シャツにピエロの絵が描かれていると言うことは気がつくにも時間が掛かったと思いますが、その場の成り行きで忘れるのも早かったという気がします。宇出津には昔、横浜と同じピエロという暴走族があったということもあり、ピエロは印象的でした。

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