2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月12日


被告訴人KYNは同じ宇出津ですが、小学校、中学校だけでなく、高校も同じ石川県立水産高校小木分校無線通信科に進学しました。鉄道の通学だったので登下校時も一緒になることも多かったと思います。

小学生の頃も何度か遊んだことがありましたが、中学生の頃はたまり場にもなっていた彼の家によく遊びに行っていました。高校1年の時もそれに近い感じだったと思いますが、高校2年になった頃から学業に専念するようになった感じで、以前ほど遊びに行くこともなくなっていたと思います。

私自身は高校一年生で留年となり、しばらくもう一度一年生をやったあと、昭和56年の6月頃に自主退学しました。勉強しなかったのも原因ですが、欠席と遅刻が多くて単位が足りなかったようにも聞きました。入学したのは前年の昭和55年4月になるはずです。

中学校時代のKYNは剣道部の部活動にも熱心に取り組んでいました。剣道部は男子と女子が一緒になっていて女子の方が多かったような気もします。部活のリーダーというまとめ役で後輩の指導も熱心に取り組んでいたようです。

能都中学校には体育館が二つありました。普段学校の行事にも使われる行動とは別に、古くてやや小さい第二体育館がありました。ステージはなく、更衣室があって、更衣室の間にマットなどがおいてある用具室がありました。

講堂のある体育館ではバレー部とバスケット部。第二体育館では剣道部と卓球部が、毎日放課後になると部活の練習をしていました。私自身は、相撲部で水産高校本校の方に練習に行っていたので、放課後に校内に残っていたことは少なかったという記憶です。

そういうこともあって、放課後の部活の練習風景については記憶に残っていることも多くはないですが、校舎と通路をあわせると口の字になったような校内の廊下を各部員が走り回っているというのがいつものことでした。

被告訴人HTNは一つ年上でバスケット部でした。同級生の間でいじめのようなことをする乱暴者だとは聞いていました。私たちが1年生の頃も、3年生の方がまじめな生徒が多くしっかりしていて抑えもきいている、という感じでした。

それこそ戦前などの伝統を継承しているような時代で、年々薄れていたとは思いますが、上下関係も厳しかったです。基本的に登下校時は先輩を見ると挨拶をしなければならず、さん付けで呼ぶことになっていました。

金沢に出るとそういう上下関係はないと聞いたのも意外でしたが、当時は方言も強く、普通の日本語とはかけ離れたような言葉を普通に話していました。ずいぶん前から、学校の方でもしっかり標準語を教えるようになったとも聞いていますし、昔のような話し方をする人はいなくなっています。

上下関係のけじめがきつかったことや3年生の抑えがきいていたことを考えると3年生が卒業して、自分たちが2年生になってからだったと考えられますが、被告訴人KYNとTYが下克上のようなことを起こし、被告訴人HTNに体育館で土下座をさせたという話が広まりました。

土下座をさせる前に暴行があったのか否か、暴行があったとしてその程度はどれぐらいだったのか、ということを含め、私は詳しいことをしらなかったのか、憶えてはいません。土下座という言葉自体なじみがなく、聞いたことがなかったような気がします。

それだけ被告訴人HTNのいじめがひどかったというようにも聞いていましたが、当時の先輩後輩の関係の中で、土下座をさせられたHTNの屈辱感も並々ならぬものとして伝わり、詳細を聞くのがはばかれる、話題にするのもはばかれるというような雰囲気があったと記憶しています。

KYNはもともとガキ大将のような存在でしたが、中学生の頃になると率先して模範的な行動をするような一面もあったかと思います。たしか3年生の時は、生徒会長にもなっていたような憶えがあります。部活での後輩の面倒見もよい感じだったので、その延長で土下座をさせたのかもしれません。

TYの方は野球部でした。ふだんは外のグラウンドで練習をしていましたが、雨の日はどこで練習をしていたのかよく憶えていません。体育館でやっていたことも考えられます。KYNとTYの関与の度合いも、どちらが主導的だったのかも私にはよくわかっていません。

同じギターの趣味もあったので夜にはよくKYNの家に遊びに行っていましたが、そこでもHTNを土下座させたことを話題にするようなことは一度もなかったと思います。

体格のよかったTYらが相撲部に入部すると私はまもなく相撲部をやめました。熱心に誘われて入部してきた期待の選手で、体格も小さかった私は戦力外もいいところだったので、いるだけ無意味という気持ちにもなってやめたのです。

もともと好きで相撲部に入ったわけではなく、小学校の5年生ぐらいから付き合いのあった近所に住む一つ年上の先輩に誘われ、入部したのです。初めは同級生の部員は私ともう一人の二人だけでした。もう一人は100㎏を超えるような恵まれた体格で、期待の新人でした。

期待されただけの実績は残せず、大会で上位になったという話も聞かなかったと思いますが、体格や資質を買われたのか、相撲部の選手として金沢市の金沢高校に進学しました。推薦か何かは憶えていないですが、とにかく相撲をするために進学したと聞いています。

当時、地元における相撲の人気は根強いものがあったと思われます。大相撲では能登出身の横綱輪島関が現役で活躍している時代でもありました。輪島と言っても輪島市ではなく、七尾市の石崎の出身だということです。

相撲部の練習はほとんどが水産高校で高校生と一緒にやっていました。半透明のトタンで作ったような小屋に土俵が一つある練習場でしたが、私が中学一年生の年には金沢市の卯辰山の全国大会で、準優勝になっていました。練習も厳しかったです。

その4,5年前には同じ卯辰山の大会で全国優勝しました。考えてみると私が宇出津に引っ越した後だったと思います。町を挙げて祝福したり、パレードのようなこともやっていたような記憶があります。辺田の浜から宇出津の小棚木に来たのは昭和50年の4月でした。

静岡県の富士宮東だったかに決勝戦で負けて準優勝になったのは昭和53年の大会と思われます。そうやって考えると、全国優勝した人たちとも、これまで思っていたほどは年が離れてはいなかったようです。小学校4年生の時の高校3年生ということになると、これまでの認識と違いはないですが。

そういえば、被告訴人HTNが宇出津のあばれ祭りで、神輿にちょっかいを出し、強い制止を受けてけっこうな怪我をし、しばらく入院していたということがありました。怪我をさせた相手が全国大会で優勝した時の大将だと聞きました。あるいは個人戦でも全国優勝していたかもしれません。

高等学校相撲金沢大会|歴代優勝校・優勝者 http://hk-event.jp/sumou/winner.html ←こちらに資料があったので確認できました。私の記憶には間違いがあり準優勝は昭和52年、優勝したのは昭和49年の大会になっていました。個人戦の優勝もなかったようです。

宇出津のあばれ祭りというのは現在7月の第一の金曜日と土曜日になっていますが、10年ほど前までは7月の7日と8日に決まっていました。祭りで怪我をしたHTNは、持木病院に入院したと聞いていたように憶えています。

同じ年ではなく翌年ではなかったかと思うのですが、輪島の祭りでも怪我をして、持木病院に入院していました。一度、病室に見舞いに行ったのもこの輪島での怪我の時ではなかったかと記憶しています。

どちらも金沢のヤクザをやめた後のことであったと思います。輪島の祭りというのは私自身見に行ったこともないのですが、近年の情報によると輪島大祭と呼ばれ、8月の23日から25日の3日間にわたって行われているようです。

7月も8月も本来、小木や姫の遠洋漁船の漁師は地元にはいない時期だと思います。中には日本海と呼ばれ、北海道の小樽港には行くものの一月に一回ぐらい陸に上がるか小木に戻っている漁もあると聞いていましたが、稼ぎも少なく若者は余り乗らないとも聞いていました。

輪島の祭りでは金沢でのヤクザ仲間数人といたらしく、「輪島がなんぼのもんじゃい」と啖呵を切ったところ、一緒にいた仲間が逃げ出していなくなり、大勢に袋だたきにされ、バットで殴られたという話も聞きました。

グループ同士で喧嘩になって、一緒にいた仲間が一斉に逃げ出して、袋だたきになり半殺しにされたような話は、他にも何度か聞いたことがありました。

大怪我にはならなかったようですが被告訴人KYNも片町で似たような目にあったと話していたように思います。それとは別に、ヤクザとトラブルになり面倒なことになったと話していたこともありましたが、それも黒田2丁目のマンションに移った後のことだと記憶しています。

当時の彼は災難続きだったのか車の事故のことでも、どこかの家に謝罪に行き、相手の家族がしゃぶしゃぶを食べていたとか話をしていました。一方的な彼の話だけ聞いていたのですが、相手が金持ちなのに理不尽なことになったような話だったと思います。

同じ事故の関連だったのかは憶えていませんが、自分の車を板金の修理に出したところ、エンジンを載せ替えたと言われ、びっくりするような請求を受けたと話していました。金沢市の専光寺の方にある川上板金という工場でした。「かわかみ」でしたが、漢字ははっきり憶えていません。

金石から松任市内に行く主要道から少し入ったところでしたが、周囲が田んぼばかりだったので、大きな建物ではなかったですが、割と目立つ建物でした。板金屋としては割と大きな工場だったと思います。

この板金屋のことは昭和58年頃から知っていたと思います。金沢市内観音堂の被告訴人YSNのアパートに転がり込んでいた頃のことですが、8号線バイパスの藤江の陸橋の側に、2階建ての割と大きなアパートがあり、輪島の暴走族のたまり場になっていました。

被告訴人YSNが乗務していたトラックのペンキの塗り替えで彼とこの川上板金に行ったのは平成3年の秋で、10月中ではないかと思います。あるいは11月中です。これには驚きましたが、YSNに昔話をすることはなかったと思います。

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