2014年3月13日木曜日
平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月27日
糸魚川インターでの重量オーバー違反ですが、同時またはほぼ同時に3人ぐらいの運転手が反則切符を切られたと聞いたように思います。ただ、断片的な情報で理解しがたいところがありました。今改めて考えると捕まったのは全部が4トン車だったような気もします。
やはり3人はいたような気もするのですが、しばらくの間けっこうもめていたようです。運行の状況にもよるのですが同じ社員の運転手でも半年ぐらい顔を合わせないことがあると昭和59年当時は聞いていたぐらいですから、一定期間、他の運転手と顔を合わさなかった可能性もあると思います。
昭和59年当時は大型車の仕事内容もずいぶんと違っていましたので、同じように見ることは適切ではないと思いますが、一月ぐらい顔を合わせないことは普通にあったような気もします。全ては配車係の采配であり、とりわけ権限を独占しワンマンでやっていたのが被告訴人MTNでした。
断片的に私の耳に入ってきた情報では、詰まるところ金沢市場輸送の会社や被告訴人MTNに対する不満を、糸魚川の警察でぶつけ、それが会社の不利益になったような話だったと思います。
具体的にはイワシの運搬に専属するため新車で納入された5台の平ボディ車になにか影響があったという話でした。名義と登録できず、浜田漁業に一時的に肩代わりをしてもらったような話であったような気もしますが、このあたりも記憶がかなり薄れています。
(株)丸北青果市場 - Google マップ http://bit.ly/1fsLMvo ← Googleマップで調べたところ、丸北青果は昭和59年当時と同じ場所にあるようです。
中央市場口とか書いてある交差点から市場の方に向かうと、この丸北青果の間の道を右折していました。30メートルほど行くとやや変則の十字路があります。
言葉だけで説明するとかえってわかりづらくもなりそうなので、Googleで地図を作成しました。次のURLです。
金沢市場輸送のトラックの駐車場所等(平成59年から平成4年頃の間) https://mapsengine.google.com/map/edit?authuser=0&hl=ja&mid=zWXtOqvyZ-Jo.ktHXsPOR6Gxs
似たような地図は前にも作っていて本書においても紹介済みと思いますが、当面の説明の内容に合わせて、別の地図を作りました。作成したGoogleアカウントも前のものとは別になっているのではと思います。
変則の十字路と書きましたが、右折した道路は行き止まりになっていました。その道路上にイワシの平ボディ車が駐車されていることが多かったと記憶しています。保冷車も駐車していましたが、余り動かさないトラックを駐車することが多かったように思います。
もともとこの丸北青果の間を入った道は、一直線の道でした。変則になっている交差点に道路が交差していたかどうか憶えていませんが、その交差点があった場所の向こう側は、空き地や畑、あるいは田んぼが広がって、中央市場の裏の方を見るのに遮るものはほとんどなかったように記憶しています。
左手の空き地は金沢市場輸送の駐車場になっていました。舗装もしてなかったと思いますが、かといって雨でぬかるんでいたような憶えもないので、砂利を敷き詰めた駐車場であったような気もします。
駐車場を越えると交差する道がありましたが、これを右に行くと中央市場の裏側にある道路と一直線につながっていたと思います。道路と言うより農地の敷地内の道という感じでした。左に曲がると金石街道に出る道がありましたが、普通に車が通らないような狭い道だったと記憶しています。
右に曲がるとすぐに右手に民家が一軒あったと思いますが、そのとなりに小林運送がありました。民家も小林運送の社員というか運転手の一人が家族と住んでいる家と聞いたように思いますが、家族らしい姿をみることはなかったです。
時代をさかのぼることになりますが、昭和58年の3月から4月ぐらい、期間にして短くて一月半、長くて3ヶ月ぐらい、私はその小林運送で、長距離トラックの助手という仕事をしていたことがありました。
4階建てぐらいの古い建物だったと思いますが、映画の舞台にでも出てくるようなちょっと変わった建物でもありました。もともとは病院の建物という感じでした。一応、そこの一室で寝泊まりしていましたが、病院にあるようなパイプのベッドが一つ部屋の中にありました。
私にあてがわれた部屋は金沢市場輸送の駐車場も見える建物の正面側にありましたが、着替え程度しか荷物は持っていなかったので、テレビも何もなかったと思います。休日の日などは、外に遊びに出かけていました。
どういう建物だったのか細かいことは憶えていませんが、一階が高くなっていて修理工場のようにもなっていたような気もします。実際に大型車を中に入れて、ちょっとした整備やオイル交換などを行うようになっていたのかもしれません。
小林運送へは、職業安定所に出ていた求人で行きました。金沢の職安がまだ金沢駅にも近い芳斉にあった頃でした。職安の前にはいつものように自衛隊の勧誘のおじさんがいるような時代でもありました。
小林運送の仕事は金沢の市場での仕事がほとんどでしたが、青果物の運送でした。メインの仕事は愛知県内からの野菜や青果物の運送でした。愛知県でも静岡県との境にも近い、豊橋や渥美半島の仕事が多かったと記憶しています。
横浜の本牧ふ頭や大阪の方にも行ったことがありましたが、愛知県内の他は静岡県内からの仕事も多かったように思います。それも高価と思われるメロンを運んでくる仕事でした。
助手の仕事というのは、主に運転手が仮眠するときの目覚まし時計代わりという感じだったと思います。荷物の積み卸しの作業も手伝いますが、寝過ごしによる延着の防止が一番の目的ではないかと思えました。
市場の仕事というのは競りの時間があって、それに間に合わないと延着と言うことになり、翌日以降の競りに回されることになり、鮮度が落ちるような品物だと大きな損害が出ると聞いていました。
鮮魚の方が青果物よりシビアで時間にも厳しかったはずですが、筍のように競りに間に合わないと、品物がだめになってしまうというものもありました。大量の氷を掛けガスもでるタイプの筍でしたが、九州の熊本県では箱に乾いた状態で入れてある筍もありました。
金沢の筍の場合、出荷のあるのは5月から6月辺りの、長くて一ヶ月間ぐらいの時期でした。その筍の時期が終わる頃から、今度は金沢港でスルメイカの仕事が多くなると言うのが毎年の恒例でした。6月から7月の初めぐらいで、これも一月ぐらいだったかと思います。
小林運送で助手の仕事をしていた頃は、運転などするはずもなく、すべて運転手任せだったので、どこを走っているのかと言うことも余り気にする必要がありませんでした。
そんななかでも印象に残ったのが、愛知県の田原町というところでイチゴを沢山積みました。当時人気絶頂だった、田原俊彦という歌手の名前もあって、印象的だったのだと思います。
愛知県のどのあたりだったのかも記憶になく町の名前とイチゴのことだけ憶えていたのですが、自分自身が大型トラックを運転してその田原町を通りかかったのは、平成4年の2月のことであったと思います。あるいは3月。
市場急配センターが小林運送の仕事をするようになったという話は平成3年中から耳にしていました。12月ではなく11月中にも、そんな話を少し聞いていたと思います。
その割に私に小林運送の仕事が回ってくることはなく、忘れた頃にやってきたのが平成4年の2月だったと思います。
私が小林運送の仕事をしたのは2回だったと思います。一度は渥美半島の先端あたりからトマトを中心とした混載の荷物を積みました。小林運送の運転手ではなく助手のような若者をトラックに同乗させ、出荷場をまわりました。
助手席に乗せて話をしていたことは憶えているのですが、どこで乗せてどこで降ろしたのか記憶に残っていません。金沢から乗せていったようなことはまずあり得ないと思います。また、トマトは石川県加賀市の大聖寺の市場でも荷下ろししたように記憶しています。
大聖寺の市場というのは滅多に行かない市場でした。そのあと小松市の市場で大半の荷物をおろしたようにも記憶しています。その頃は、和歌山県のかつらぎ農協から積んでくるミカンの仕事でも、小松の市場での荷下ろしが多かったと思います。
小松の市場というのは国道8号線から山手の方に向かって市内を外れた場所にありましたが、国道8号線自体も高速道路である北陸自動車道から大幅にずれていました。北陸道は海岸線に近い辺りを通っていました。
具体的に言うと、愛知県からだと加賀インターを降りて国道8号線を走ることになり、小松の市場で荷下ろしをしてから再び高速に戻るのは効率もよくないので、そのまま国道8号線で金沢まで走るというのが普通の選択であったと思います。
簡単にいえば国道を走るのは面倒くさいのですが、個人差はあるもののそれをとても嫌がるような運転手もいたかと思います。国道の方がのんびり走れて、その方がよいという考えの運転手もいたかとは思いますが、そういう人は出来るだけ市場の仕事は避けるのではないかとも思います。
運送会社には高速道路や有料道路の使用を極端に渋る、避けることで経費を削減するという会社も多いと聞いていました。そういう会社は急ぎの仕事でもなく、傷むような食べ物を運ぶ仕事でもなかったはずです。
金沢市場輸送という会社は、伝統的にそのあたりも変わっていて、鮮魚を運んでいても一般道を走らせるような会社でした。国道や県道などの一般道のことを、下道(したみち)と呼んでいたので、以降は下道と表記します。
東京の築地市場に鮮魚を運ぶときにも、富山インターから飛騨高山方面に国道で向かい、安房峠から松本市辺りに出て、諏訪インターからようやく中央道の高速に乗るという運行や、国道18号線で群馬県内まで下道を走るという経験もありました。
関越トンネルが開通する以前だったので、現在のように関越道を全線走るという選択はなく、一番急ぐ場合は、大阪方面と同じように米原JCまで行き、東名高速を走って東京に行きましたが、走行距離が100キロほど余計に走ることにもなっていました。
昭和59年に4トン車に乗務した頃は、新潟県内に鮮魚を運ぶ仕事がメインでした。直江津、長岡、小千谷、新潟の4カ所おろしの市場でしたが、柏崎が加わることもあったとも思います。
北陸道は富山県内で朝日インターが終点で、次に乗るのは新潟県内の上越インターという時代でした。そのうち名立谷浜インターまでつながり、半年か一年ぐらいで対面通行が多かったものの、全線がつながりました。
富山県の朝日から新潟県の糸魚川の間には、親不知という難所があり、迂回路もない一本だけの国道でありながら、大型トラック同士がまともにすれ違い出来ないような箇所があったり、交通量も多くて時間が掛かりました。
昭和59年の1月や2月は雪も多かったです。とりわけ小千谷のあたりは十日町にも近く、日本一の豪雪地帯でした。高速道路も雪の壁のようになっていました。新潟市内の市場は混み合っていて荷物もおろしにくかったと記憶しています。
そのような交通状況などまるでおかまいなしに、金沢を出発してからは国道8号線をひた走り。許可されている高速道路の使用は、上越市を超えた先の柿崎インターから向こうだけでした。
そもそも出発前には朝の8時か8時半頃の出社が当然のように義務づけられていて、中央市場の中で他に出勤してきた運転手とともに魚の荷物を積み、抱き合わせの小口の冷凍食品の集荷に回ったり、他の運転手の積み込みを手伝ったりしていました。
午前中に魚は積み終えていたと思いますが、伝票の出る時間が遅く、新潟に向けて出発するのは午後の4時頃とかそんな時間であったように思います。富山県の魚津市辺りでは夕方の渋滞にもあいました。
大阪行きの荷物もいろいろありましたが、むしろ新潟の仕事より輪を掛けて面倒で条件の悪い、各駅停車のような仕事が多かったです。京都の日向市とかで真夜中に荷物をおろしたり、早朝の早い時間から大阪の生野区で荷物をおろしたりしました。
とは言ってものんびりしたムードもありましたし、苦労話をすることが目的でもないのですが、バブル景気の追い風もあったのか、仕事の条件はずいぶんとよくなっていきました。
東北便も、宮城と山形の県境に笹やトンネルが開通してからは、本当に楽になりました。国道の急斜面を走っていた頃は、凍結で上りきれなかったり、下り坂はそれ以上に神経を使い、渋滞で時間が遅れることもありました。
まあ、色々ありましたが、いいところと悪いところがあるというのは、どんな仕事や会社でもよくあることかと思っていました。ただ、市場急配センターの場合、本当に仕事が楽だと思っていました。
それでも割りの悪い、他の運転手が嫌がる仕事を多く押しつけられてはいたようです。余り楽をしすぎると、いざ難しい仕事に当たったとき慣れていない分、余計にしんどい思いをするというのも、自分なりの経験値と思っていたので、さほど不満でもなかったのですが。
たとえば九州から市場の荷物を積んで、関東の市場に行った場合、行ったことのない市場でも自分で探して見つけなければならないのですが、他にもまわるところがあるので、間違いは許されない状況。頼るのは自分だけです。集中して最善を尽くします。
その過程で得る経験値もありますが、他のそれほど条件の厳しくない仕事だと心に余裕も出来るのか、なんなく当たり前にこなせるようになっていました。そういうことも、自分が余り意識しないうちに、信頼や評価にもつながっていたのだと思います。
市内配達の場合、そういう運転手としての経験が全くないところから始める人も多かったように思いますが、なかには見ていて気の毒に思う人もいました。
輪島の航空自衛隊にいたという人もそうでしたが、なにか仕事上のミスが多かったらしく、被告訴人MHK社長が最終的にクビにしたとも聞きました。歯車が狂い焦りが出ると、ミスが多くなると言うことも、ずっと後になってよくわかるようになりました。
決まった仕事を同じように繰り返しているのが楽な仕事かとも思いますが、金沢市場輸送の仕事は内容も行き先もバリエーションが豊富で、それなりに楽しみながらというか、飽きずに仕事の出来る職場という一面もあったかと思います。何かと自由な面も多かったですが、自己責任とも一体でした。
もともと私は長く長距離の仕事を続けるつもりはなかったです。本当はそうしたい気持ちも強かったのですが、もともと視力が悪くて目の負担が大きく、長続きは出来ないと考えていました。夜間や雨の日、は特に目を酷使しました。
青果の仕事は鮮魚ほど神経も使わず、余裕もあったので、市場急配センターの長距離をするようになってからは、そのほど目の痛みを気にすることもなくなっていたとも思います。
それにしても長距離の仕事は免許の点数を失う可能性が高いので、安定しているとはとても思えませんでした。大型車は80キロが最高の速度制限でしたが、高速の流れで120キロで走行していても、40キロの超過になります。鮮魚の頃は当たり前のように140キロのメータを振り切っていました。
乗用車であれば平均時速100キロで走れば一時間に100キロメートル走れるはずですが、大型トラックで重量を積んでいると、高速道路でも50キロまで下がることはざらで、30キロ以上でないという急勾配の坂もありました。中国自動車道の荷卸峠などです。
渋滞の時間も差し引かなければならず、それ以上に荷物の降ろし先が多いと、荷下ろしでの順番待ちもあるので、なにかと余裕を作る必要がありました。雪道など特に、無理をしすぎると本当に命の関わる問題と考えるしかありませんでした。乗用車などぶつければ大破する他人の命にも関わる問題です。
市場急配センターの場合、金沢市場輸送と違って他の運転手の仕事が見えにくくもなっていました。金沢市場輸送の場合、大きな黒板に日程表があって全体の把握がしやすく、荷主に対応した運転手の名前も掲載されていたように思います。
市場急配センターでも似たようなものが作られたように思いますが、一度か二度、見た憶えがあるぐらいで、その後はどうなったのかもわからず、そもそも二階の事務所のわかりづらい場所にあったように思います。本来ならば運転手が多くある丸一階にこそ、置いてあるべきものです。
他の運転手の仕事を余り気にするのもいやらしく、かえって嫌な思いで仕事をすることにもなりそうだったので、ほとんど気に掛けずに仕事をしていたようにも思います。
仕事には好みの問題や条件のとらえ方の違いのあるのですが、私は大阪や名古屋方面で、重量オーバーしたまま米原のバリアの通過するのが嫌で、できるだけ避けたいと考えていました。これは九州から鮮魚を運んできていた延長でもあったと思いますが、どきどきしながらバリアの料金所を通過していました。
市場急配センターでは給料が月給で一律50万円と決まっていたので、仕事内容のえり好みをする人が出てくるというのも、もともと避けがたいところではあったとは思います。本来ならば運送会社というのは歩合制が多く、基本でもあったと思います。
平成3年の終わりから平成4年の初めというのは、社会史的にみるとバブル景気の崩壊以降で、景気も悪くなり始めた頃であったのかもしれませんが、テレビニュースや新聞も余り見ていなかったこともあったのか、景気が減速しているような実感も不安も、全くもたないままに生活していました。
平成10年頃、自営業者として仕事をしていた被告訴人KYNは、経済的な情報にも関心を持ち新聞に目を通しているとも話、東京の景気の状態は金沢に2年遅れでやってくる、と話していたこともありました。真偽の程は不明ですが、いくぶんそういう傾向はあるのだろうとは思います。
インターネットがそれほど発達していない時代でもありました。平成9年の1月に福井刑務所を出て、世の中が変わったと一番感じたのは、携帯電話の普及でした。携帯の小型電話を誰もが普通に持ち歩いている時代が来るとは考えたこともありませんでした。
ただ、投資の大暴落で芸能人やタレントでも一夜にして莫大な負債を抱えることになったという社会問題は、平成4年4月の逮捕以前に、テレビで見て知っていたようには記憶しています。それが景気全体に悪影響を及ぼし、自分にマイナスに関わってくるとは、考えていませんでした。
テレビや新聞は余りみなかったと思います。仕事柄テレビを見る時間というのも限られていましたし、ビデオは持っていたものの番組を録画するという習慣は全く持っていませんでした。面倒で敷居が高そうと言う機器に対する苦手意識もあったと思いますが、録画の必要性を感じることもなかったです。
身近なところでは北都運輸が倒産したという話がありました。トナミ運輸や日通など全国規模で事業展開しているようなものを別にした地場の運送会社では、昭和58年頃から石川県内で一番大きな運送会社と聞いていました。2番目が国勝運送。
昭和58年頃は、友人が2,3人北都運輸で米飯とか言う給食の配達のような仕事をしていたこともありました。野々市と聞いていたように思いますが、国道8号線の外れの方にトラックが沢山停まった会社があったことも記憶しています。
既に少し触れたように思いますが、私自身、平成1年の5月か6月ぐらいから10月か11月頃まで、専属で北都運輸の仕事をしたことがありました。野々市の中心部に近い倉庫でしたが、北都運輸の看板が出ているようなことはなかったように思います。
古くて小さな倉庫でしたが、配送センターという感じでした。マヨネーズやドレッシング、ジャムが中心でしたが、冷凍食品も少しあったように思います。取り扱いの品物としてもカナカンに行くことが多かったと記憶しています。
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