2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月06日

先に書いておこうと思うことがあります。平成9年の11月ぐらいから平成12年の年末一杯ぐらいに、中心的な働きをした可能性の高い、被告訴人KYNのことです。彼の場合、他の被告訴人とは違って、純粋に利用されていた可能性が最も高いのですが、現場実行者のような役割になります。

被告訴人KYNについては平成19年頃まで繰り返し御庁に提出した告発状、告訴状には詳細に書いていると思いますし、それ以上に具体的な事実を上申書などとして金沢刑務所の拘置所にいる平成11年、12年頃に提出しているはずです。ずいぶんと注意深く観察しており、細大漏らさずのはずです。

ところで、何より重要と思うのは平成11年の秋、片町の性的サービスの店のことです。場所は大通りに面したオーロラビルのスクランブル交差点から向かって少し手前だったと思います。あるいはオーロラビルの先だったのかもしれませんが、手前の方だと認識していたと思います。
かたちのうえでは、呼び込みの若い男性に声を掛けられたのだと思いますが、けっこう長い間、その場に足を止めて、あるいは歩道の作のようなところに腰掛け、入るか入らないか思案している様子でした。私に直接、どうするかということは言わなかったように思いますが、かなり不自然な状況でした。

その場をさっそうと足早に歩いていったのが、木梨松嗣弁護士と思われる人物でした。かなりラフな服装でした。セーターの上に羽織る上着は着ていなかったようにも記憶しています。クリーム色のセーターがベースだったように記憶していますが、数秒間のことと思われるのではっきりとは記憶にないです。

うまく表現できないのですが、かなり気合いの入ったような様子で、力強く大股で歩いていたような印象も残っていますが、それ自体がかなり異様にも見えました。連れがいるような様子は全くなかったです。本来、酔客がほとんどとも思えるような金沢の繁華街のど真ん中でのことです。

私も酒は入っていたと思いますが、この時も気持ちは冷め切っていました。当時はファッションヘルスなどと呼ばれていた店だったと思います。女性が口を使って射精させるようなサービスで、その頃、片町でそのような店が増えているという話も、割と有名になっていたかと思います。

本来、金沢市は観光地であり加賀百万石の伝統文化を売りにしているので、繁華街の規制も厳しいと聞いていました。路上の屋台ですら禁止になっていると聞いていたので、片町もずいぶん変わったものだと思っていました。

その場にいたのは被告訴人KYNの設備会社のK君とM君です。K君の話で私が入ってまもなく、飲み歩くようになったと話していました。もともと給料日の日には、KYNの家族連れで焼き肉屋に行ったりするけど、それで終わりだったと以前の不満を口にしていました。

私が被告訴人KYNの会社で仕事をするようになって初めての時も、それまでと同じように焼き肉屋にのみ行きました。それも私にとって思い出深い店でしたが、考えてみるとあの店に行ったのは、あれが初めで最後だったようにも思います。

店の住所は私が以前住んでいたのと同じ金沢市東力だったように思いますが、余り近くもなく、新神田や糸田に近い場所でした。労働基準局のはいる合同庁舎の近くでもありましたが、当時はその周辺は空き地が多く、焼き肉屋は離れたところからも目立っていました。

店の名前は「飛天竜」だったと思います。流行っている感じの店だったので調べていませんが、今もその場所に店がある可能性はあるかと思います。その店に初めて行ったのは昭和59年の12月頃のことで、被告訴人OKNら数人と行きましたが、たまたま入って店という感じでした。

自分の東力のアパートから近かったので他にも行く機会はあったような気もするのですが、周辺には他にも焼き肉屋があったので、特には記憶に残っていませんし、意識することもありませんでした。

その焼き肉屋に対して特別な意識を持ったのは、平成3年の8月の終わり頃だったと思いますが、市場急配センターで飲み会があったからです。このような焼き肉屋の飲み会は、私がいるとき他には一度もありませんでした。

その時の飲み会の目的というか名目は2つほどあったように思うのですが、一つは「北食」とかいう会社から二人の運転手が市場急配センターに入社したということだったと思います。それまでは下請けの社員のような感じで市場急配センターの仕事をしていました。

「ホクショク」と呼ばれていたと思いますが、北のあとの感じははっきり憶えていません。小さい運送会社のような話でしたが、社長が右翼団体の幹事というような話も聞いていたかもしれません。今日まですっかり忘れていたので別のことかもしれず、正確に思い出すことは出来ないです。

もう一つは、浅野という被告訴人MHK社長の友人が入社したことで、それら3人の歓迎会というのが名目だったと思いますが、あるいは他にもなにかあったのかもしれません。本来、歓迎会や送別会をするような会社ではなかったと思います。

焼き肉屋では2階のような部屋の貸し切りだったように記憶しています。8月の終わりということもありますが、まだすっかり明るい時間から飲み会が始まったと思います。被害者AAさんが、ビールのお酌に回って、私にも何か一声掛けてくれたような気もしますが、会話のようなものはなかったと。

皆で焼肉店を出た後、私は被告訴人YSNに強制的にアパートに送り届けられました。飲み会の途中に、ふざけて彼に対して「地獄の○○を知らないか」などと節をつけて歌ったことです。彼は自分がシンナーで精神病院に入った過去などを酔った勢いで暴露されるのを警戒したような態度でした。

忘れないように書いておきますが、片町のファッションヘルスのような店には入りませんでした。店は小さいビルの地下にあるような感じだったと思います。片町のお踊りで地下にある店というのも珍しいように思いました。金劇の方は地下街のようになっていたと思います。

飲みに行くのが増えたのはM君が入ってからでした。彼ももとは同業者の小さい会社の社員で社長も若かったようですが、一応倒産したような話で、失業したところを被告訴人KYNが声を掛けて、すぐに入社したような感じでした。

平成10年の1月だったと思うのですが冬でした。M君が入ったときの初めの現場は河北郡津幡町の日本たばこ産業の現場の仕事でした。そこは金沢市場輸送の長距離の仕事でも何度か行ったことのある工場でした。小さい現場で、長くは通わなかったと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿