2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月01日


S藤のことですが平成1年の12月にS田とともに金沢港で会って以来、ほとんど顔をあわす機会はなかったように思います。特に意識する相手でもなかったということもありますが、仕事内容も異なるので会う機会が少なかったということもあります。

大きな変化は市場急配センターの事務所が中央市場の裏側の側に出来て、運転手がまるごとそちらに移転したということでした。関係が続いたと言えば、市場急配センターのトラックが金沢市場輸送に給油に来ていたと言うことでしょうか。給油機の鍵は別になっていたと思います。

この給油は市内配達の2トン車や4トン車だけではなく10トンの大型車も同じでした。私自身、平成3年の11月か12月頃までは、金沢市場輸送の事務所に給油に行っていました。金沢市場輸送で給油した方が安上がりだという話でしたが、特に優先するようにしろという指示はなかったと思います。

というのも大型車の仕事の多くは長距離の仕事であり、県外で給油することが多かったからです。関東への運行であれば満タンのまま行き帰りが出来たので、県外での給油が不可欠というわけでもなかったのですが、給油のカードを持っていました。

もともと金沢市場輸送では昭和59年当時から一光のカードを使っていたのですが、途中から太陽鉱油のカードを使うようになったと記憶しています。金沢市場輸送の事務所と一緒に給油機が出来てから太陽鉱油を使うようになったような気もするのですが、はっきりしたことは憶えていません。

一光の場合だと8号線バイパス沿いにカードの使える給油所がありました。Googleマップで確認すると住所は磯部町になるのではと思います。金沢市民球場の近くです。当時は周りに何もないところでしたが、8号線バイパス自体がだいぶん前からにぎやかになってずいぶんと様変わりしています。

この一光の給油所だとどこへ行くにしてもさほど不便は感じませんでした。西念町に事務所があったころは高圧洗浄機もなかったので戦車にもよく利用していたはずです。特に魚を積む保冷車の場合、トラックの洗車自体より、他の荷物を積むための荷台の洗浄がけっこう重要でした。
一方、太陽鉱油の場合は金沢市内にカードの使える給油所がなく、国道8号線沿いではありましたが、河北郡津幡町まで行く必要がありました。富山方面ですが、金沢東インターを離れるとすぐに、国道8号線と高速道路である北陸道は、別の方向に枝分かれしていました。

ちなみに北陸道と国道8号線は富山県内でもほとんど交わることがなく離れた別のルートになっていました。逆方向の金沢西インターも福井方面の国道8号線とは、県境近くの加賀インターまで、かなり離れたルートになっていました。

高速と一般道が大きく外れていたと言うこともあり、通過点として津幡の給油所を利用することは少なく、能都方面の七尾市に向かうときは、さほど遠回りでもないということで、寄って給油することはあったかと思います。後で説明しますが市場急配センターでは七尾市からの積み荷が多かったです。

私の場合、運行の通り道ではなく給油のために津幡まで給油に行くことが多かったのですが、荷下ろしが終わった夜中に行ってそのままトラックで寝ることもけっこうあったと思います。アパートに帰って冷たい布団にはいるよりましということもあり、入浴をすることも出来ました。
長距離の大型トラックが利用するガソリンスタンドでは入浴設備のあることが少なくなかったです。有料というのは経験がないです。それに店員に頼むと、頼んだ時間に起こしに来てくれるので、寝過ごしの心配もなかったです。

自分の場合、平成3年の11月から平成4年の1月の間は、和歌山県のかつらぎ農協からミカンを摘んでくる仕事が多かったです。他の運転手が嫌がる仕事だったので、回ってくる割合が多かったですが、これは茨城県古河市の山三青果の仕事も同じでした。

古河の市場や山三青果についてはこれまでにも説明は書いていると思いますが、市場急配センターのメインの仕事で、この仕事のために長距離を始めたという感じでした。もとは金沢市場輸送でやっていましたが、これもイワシの仕事と同じく、市場急配センターの仕事を金沢市場輸送にやらせるかたち。

金沢市場輸送で山三青果の仕事を始めた頃は、行き荷もセットになってスタートしていました。一つはトナミ運輸の仕事で栃木県の宇都宮市への定期便でした。宇都宮市でも市内の外れか、あるいは住所自体が宇都宮市に隣接した別の市町村だったかもしれません。

もう一つは日通の仕事で金沢の高柳店から埼玉県の岩槻市と千葉県の千葉市の2カ所おろしという定期便でした。日通というのは日本通運のことですが、当時日本一の運送会社とも言われながら、組織や業務形態としてややこしいところがあって理解しがたい会社でもありました。

金沢市では増泉と高柳の日通が大きかったと思います。他にもあったと思いますが、私が仕事に行ったのもこの二つぐらいではなかったかと思います。どちらも支店になっていたように思うのですが、高柳の方は違っていたかもしれません。

金沢市の高柳と行ってもわからない人が多いと思いますが、金沢駅と東金沢駅の間にあって貨物ターミナルとしての物流の拠点という感じにもなっていました。線路の上に乙丸陸橋があって、市内の方に向かっておりた右側が浅野本町、少し行くと金沢東警察署もありました。

乙丸陸橋の反対側はしばらく走ると国道8号線バイパスにぶつかり、そこが田中の交差点とも呼ばれる交通の要所になっていました。右に少し行くと北陸道の東インターがあり、バイパスを突っ切って直進してしばらく行くと、右側に佐川急便の大きな建物がありました。木越という辺りです。

東インターを超えるとすぐ右側にはトラックステーションがありました。ここを左折するとこれも木越の方に行きますが、河北郡宇ノ気に至る農面道路と呼ばれる主要道路でした。木越の辺りは瑞樹団地なども出来てかなり様変わりしていると思います。

宇ノ気は能登路の玄関口のような歴史もあるそうです。現在は高松町と同じくかほく市になっているのかと思います。宇ノ気で国道159号線にぶつかりますが、能登方面に少し走ると、白尾インターから能登有料道路にのることが出来ました。昨年の4月あたりに無料化され、名称も変わっています。

金沢市内から能登方面に向かうにはこの白尾インターを使うことが多かったと思います。白尾インターの先には内灘料金所がありましたが、時間的にも違いは余りなかったように思います。内灘町も河北郡でしたが、隣接する粟崎は金沢市内だったと思います。

農面道路には少し離れた道沿いに金沢競馬場がありました。周囲は田んぼが多かったと思いますが、しばらく走ると右手に浜田漁業金沢工場がありました。金沢港からイワシの運搬をするときは、競馬場のあたりから入って東蚊爪のあたりを通過していました。

東蚊爪は石川県内では知られた場所だと思います。というのも運転免許センターがあったからです。昭和58年の時点では金沢市観音堂の方に免許センターがありましたが、昭和59年か60年あたりに移転していると思います。

私自身、平成21年の1月以来、もう5年ほど金沢市には一度も行っていないと思います。羽咋市から戻ったのがその年の3月の15日のことでしたので、それ以来、羽咋市より南の方にも行っていません。羽咋市は能登にはなるはずですが、石川県に住む感覚としても能登という感じよりは金沢に近いです。

金沢市内で生活をしていたのは平成11年の8月まででした、羽咋市には平成15年の11月の下旬から生活するようになり、金沢市内にはちょくちょく買い物にも行っていましたが、全体的に道も店も増えて、ずいぶんと様変わりしていました。ここでも時間が止まっているようなものです。

とにかく農面道路や競馬場、東蚊爪の周辺も以前は田んぼが多かったです。平成15年を過ぎてから感じたことの一つは、東蚊爪のあたりも工場や会社が増えていたということでした。被告訴人HTNの会社事務所を発見したのも、ほとんど偶然に目についたのがきっかけではなかったかと思います。

社名の方は平成11年の時点で知っていたはずです。運転免許センターの近くですが、用事や買い物で通るあたりではなかったと思います。たまたま気が向いて、車を走らせてみたというのがきっかけだったかもしれません。

反対方向にはなりますが同じく東蚊爪の運転免許センターの近くにあった北陸ハイミールの建物は、気になって目的意識を持って見に行ったことがあったと思います。廃棄物の処理場のようになっていて、昔の面影はほとんど残ってはいないという印象でした。

北陸ハイミールの工場の近くには河北潟が広がっていましたが、どうろから河北潟が見えることはほとんどなかったように思います。浜田漁業金沢工場も少し離れたところに河北潟がありました。浜田漁業金沢工場の前を通過して宇ノ気に行く道とは別に、手前から左折して宇ノ気に行く道がありました。

左折して少し行くと割と大きな橋があり、これが河北潟にかかっていたと思います。この土手のようなあたりで一度、被告訴人OKNに誘われて行き、ゴルフの練習をしたことがありました。平成3年12月22日のことであったと思います。

当日は金沢市場輸送の事務所の近くにあるパチンコオーロラのとなりぐらいにあった花屋に行き、そこで被害者AAさんの自宅に赤いバラの花を10本クリスマスの夜に届けてもらうように注文しました。

初めに行ったのが8号線バイパス沿いの県立中央病院にちかいあたりにある喫茶店のようなレストランだったと思いますが、今考えると、どこで待ち合わせをしたのかと考えてしましました。もともとの習慣として場所を決めて待ち合わせをするということは余りなかったと思います。
被告訴人OKNはその平成3年の4月頃に、それまで住んでいた金沢市無量寺のアパートから、金沢市大場町東の一軒家に引っ越していました。その時も、まず初めに大場町東の家を私が訪ねたように思います。

書いているうちに思い出したのですが、この時も私はどこかの店でショートケーキを買い、それを手土産に持参して大場町東の被告訴人OKNの家に行ったと思います。

大場町東も地理的に金沢競馬場に近い場所でしたが、OKNが引っ越しするまでは車で通るような場所でもなく、こんなところがあったのかという感じの住宅地でした。住宅地といっても古い感じの町で昔からの農家が多いという雰囲気も感じたように思います。

なんとなく記憶に残っている程度ですが、農面道路沿いのように田んぼではなく、大場町東のあたりは畑が多かったような気もします。はっきり憶えていることは、被告訴人OKN自身が、競馬場の話をし、近所には競馬場の関係者が多く住んでいると話していたことです。

記憶に自信がないですがなんとなく思い出したことがあり、その平成3年のいくらか前に、競馬場の関係者が絡んだ殺人事件があり、新聞で大きく報じられていたように思います。OKN自身も、その事件に関連して何か話をしていたような気もするのですが、直接関係のある話としては聞いていなかったです。

被告訴人OKN自身が競馬に行ったとか競馬をしているという話は聞いたことがなかったです。後年を含め仕事の時間つぶしにパチンコ屋に入ることはあると話していましたが、ギャンブルにのめり込んだという話を聞いたことがなく、父親の失敗を見て育っているので兄同様に可能性は少ないと見ていました。

イワシの運搬だけでなくミールの仕事でも、浜田漁業金沢工場に行くときは金沢競馬場の側を通っていたので、なんとなく身近に感じていたと思いますが、私自身、競馬には縁も興味もなかったです。

初めに競馬場に入ったのは、一緒にイワシの運搬をしていたO西さんの付き合いだったかもしれません。既に書いていると思いますが、このイワシの運搬は昭和63年の12月から翌平成1年2月一杯か3月の初めぐらいまでの時期です。このイワシの仕事が終わると、会うこと自体なくなっていったはず。

次の年のイワシの時期はO西さんの姿はありませんでした。同じようにイワシの仕事を一緒にやりながら行動を共にすることが多くなったのが、これも既に書いているはずですが、T林です。彼は金沢競馬場とも強い縁を持つ人物でした。

競馬にのめり込んだ時期があるという過去形の話であったと思います。きっぱり縁を切っていると思ったし、疑うことも全くなかったです。彼とはパチンコ屋に一緒に行くことはあったと思いますが、さめた感じでやっているという印象でした。

ギャンブルとしての競馬にのめり込んだのか、それより馬が好きだったのか、当時の会話はごく断片しか記憶していないのでわかりようもないですが、一番印象に残っているのは、彼の母親が競馬場で働いているとか、働いていたという話でした。

日付が変わっていることを忘れていました。

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