2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月11日


ようやく思い出した気がするのですが九州で日榮運送に変わり青果物の仕事を請け負うことになった富山市内の運送会社は池田運輸だったと思います。日榮運送の配車係の紳士的な人物は以前金沢市場輸送の事務所にもちょくちょく姿を見せていたのですが、深刻な仲違いがあったようです。

どうも配車係の被告訴人MTKが相当な不義理をしたような話でした。具体的な話としては記憶に残っていないのですが、山三青果の仕事ももとは日榮運送の仕事だったと聞いたような気もします。

日榮運送は個人の運送会社としてはずいぶん待遇がよいとも聞いていました。全体にしっかりした経営で信用もある運送会社だったようです。日榮運送の仕事をしなくなってから九州の青果物の帰りには池田運輸がほとんどではなかったかと思います。高田農協に駐在の担当者がいました。

自分より少し年上ぐらいで20代後半という若さではなかったかと思いますが、富山ではなく地元九州jの人だったように思います。A川という名前だったような気もします。

古河の青果市場の仕事を専属でするようになるちょっと前は、群馬県内の館林市など埼玉県にも近い農協などからキュウリなどの野菜を運ぶ仕事を何度かした憶えがあり、それも池田運輸の仕事だと聞いていたように思います。請負先は日報にも記載する必要がありました。

2度目のイワシの運搬のシーズン、市場急配センターの社員で金沢港の現場を管理するようなことをやっていたのが小林健一。小林に間違いはなかったと思いますが、健一というのは現在ちょっとだけ記憶に自身がもてなくなっていますが、9割以上は間違いないと思います。

すでに本書においても昨年(2013年)中に書いていると思いますが、あえて名前を書いておく必要があると判断した人物です。その彼に前橋市内の国道50言線で、信号待ちで停車中に声を掛けられたのも、池田運輸の仕事で群馬県の埼玉県境にキュウリを積みに向かっているときだったかもしれません。

あるいはすでに古河の青果の定期便が始まっていた頃かもしれません。その運行は、まず富山県内から熊本県の八代市の古くて大きい港のような場所にアルミサッシを運びました。なにか戦前の軍港をイメージさせるような独特の雰囲気がある場所でした。

八代でアルミサッシの荷物を降ろした翌日だと思いますが、鹿児島市内の市場から白菜を積みました。荷物の行き先は長野県内の市場、2カ所だったと思います。一つは長野市内だったと思いますが、夜のうちに荷物をおろしおえました。長野県内の市場というのは余り行く機会がなかったと思います。

長野から夜中のうちに群馬に向けて移動し、碓氷峠を下りてから右側に何件もある大型ドライブインのひとつに入って食事をし、そのまま朝まで仮眠をしました。そして午前中だったと思いますが、前橋市内で大型バイクに乗った小林健一に声を掛けられたのです。

ろくな挨拶もなく、逃げるようなかたちとも言えなくはない感じで会社からいなくなっていました。実際にいなくなる結構前に、父親が体調を崩したので実家に帰らなければならなくなった、というような話をしていたような気もするのですが、辞めていなくなる前は、不審さが目につく印象でした。

既に書いていると思いますが、彼と入れ替わりのようなかたちで、金沢市場輸送の事務所で姿を見るようになったのが、被害者AAさんだったのです。彼女の場合、一日中事務所にいることはなく、初めのうちは中央市場内の仲買の事務員が仕事に来ているのかと思っていました。

彼女は当時、斬新なデザインとして発売されるようになったホンダのトゥデイという軽四の新型車に乗っていたので、会社の駐車場に車が止まっているとそれだけでも目立ちました。昭和50年代以前のホンダのシビックなどのどうかと思うデザインを知っている世代なので、ホンダ車の変化は大きかったです。

辞める前の小林健一は、周囲の様子をかなり気にして後ろめたそうだったので、なにかそれだけの理由があって噂があったのかと今は考えますが、私の耳にはいるような話はなく、運転手や社員の間で彼のことが話題になるようなこともほとんどなかったと思います。

一応、運転手と社員を分けて書いたのは、当時はすでにけっこうな割合で、トラックを持ち込みで仕事を請け負う形態の運転手がいたからです。他に傭車という運転手もいました。イワシの運搬のM浦なども社員ではなく、特別な契約で仕事をしているような感じでした。

小林健一がイワシの運搬の現場責任者のようなことをやっていた時期というのは平成元年の12月から平成2年の3月いっぱいぐらいだったと思います。4月中にもイワシの水揚げで現場に出向くことはあったのかもしれないですが、暇を持てあますような姿が多かったと思います。

昼間から近くのラーメン屋で酒を飲んだりしていましたが、彼の場合飲むのはほとんどが焼酎ではなかったかと思います。当時、大きなペットボトルの焼酎というのは出始めた頃で、銘柄も樹氷ぐらいしか自分は知らないぐらいでした。

その樹氷のペットボトルだったと思いますが、彼はイワシの運搬の金沢港の現場でも常にその焼酎のペットボトルを携帯していたような気がします。飲酒運転に関してはけっこう寛大で罰則も緩い時代だったとは思いますが。大きな焼酎を携えて仕事をするというのは、やはり尋常ではなかったかもしれません。

酔っぱらって車を運転する姿を見たというはっきりした記憶もないのですが、現場での待機時間が長いことはあっても、かなりアルコールの残った状態で運転をしたり、責任者ということで急に用事が入って運転することの可能性も高かったことが考えられます。

新たに思い出したことですが、小林健一は石川県警で警察官をしていた頃、加賀温泉のソープランドで出てきたソープ嬢が交通事故の処理をした相手で驚いたとか慌てたとか話していたことがありました。山代温泉と言っていたような気もします。他に山中温泉、片山津温泉などがありますが。

人命救助の活動で酸素ボンベなど潜水道具一式を自費で揃えたとか言っていたのは小松警察署の時と話していたような気もします。それを10万円だったかで買わないかと言われ、彼の家まで現物を見に行ったのはその時だったように思います。

海の潜水に関心はあったのですが、呼吸法などの作法があり間違えると死ぬこともあるとか説明されて、面倒だと思い買うことはなかったです。彼の家に行ったのはその時一度だけでしたが、玄関先より中に入ることはありませんでした。

それというのも家の中から、ただならぬ彼の妻の声が聞こえ、追い払われるような拒絶的対応を受けました。初めて行った家で、そのような経験を受けた経験はなかったと思います。出て行けと塩をまかれたり、警察を呼べと言われて逃げた経験はありましたが、息子の不良付き合いを心配した親の対応でした。

彼には二人の小さい子供がいて二人とも女の子だったように思います。幼稚園児ぐらいだったような気がするのですが、その子供の姿は何度か見かけた憶えがあるものの、妻の姿を見ることは一度もなかったように思います。

その家というのも貧乏長屋のような一角でした。住所としては若宮町になるのではと思いますが、出雲町に隣接したようなあたりで、金沢市内にこういう場所があるのかといささか驚いたぐらいでした。長屋と言っても同じような古い一軒家の集まりだったように思います。

なにか特別な映画の舞台セットのような異様な雰囲気が感じられる場所でした。建物自体が古いだけでなく見たこともない感じだったのですが、なによりも彼の妻の対応に驚いて、その場の雰囲気にのまれたことが、不思議な映画のワンシーンのような強烈な印象になったのかもしれません。

家の外側が途端で赤茶色の錆止めの色になっていたような気もします。同じような家が並んでいたのですが、前後の家の間は何もないスペースが広かったという印象も残っています。舗装されたスペースではなく、時代劇に出てくる土埃が舞い上がるような状況として記憶に残っています。

金沢市内でもずいぶんと古い町営住宅のような建物やアパートというのは珍しくなかったのですが、後にも先にも見たことのない町並みの一角でした。そういう場所に住んでいる不満が、訪問者に対する攻撃的な態度につながったことも考えられますが、相当の恐妻であることは間違いなさそうでした。

けっこうくどく説明を書いたと思いますが、これには他に理由があります。その後、この時といくぶん似たような経験をしたことがあり、そちらの方は思わぬ急展開もあったので、比較の上でもできるだけ詳しい説明をしておこうと考えた次第です。

小林健一は私が24歳ぐらいの時に、27歳かあるいは28歳と言っていたように憶えています。今思えばさほど年も離れていなかったようですが、普段は落ち着いた雰囲気でかなり年配という感覚で接していたように思います。話し方もきれいな標準語に近かったような気がします。服装も小ぎれいでした。

大型のバイクの他、車も所有していたと思いますが、車の方はかなり低価格な中古車という印象が残っています。やけにこざっぱりした服装も落ち着いた物腰と話し方も、今思えばいかにも警察官らしい特徴でした。服装は作業着が多かったと思いますがいつも新品のようなものを身につけていたような。

バイクはスポーツタイプではなく落ち着いたツーリングタイプという感じでした。白バイ隊員をやっていたというぐらいなので、バイクは相当に好きだという感じですが、スピードを出すのが好きだという風ではなく、トラックでも普通以上にゆっくりとした運転をしていたように思います。

酒も相当に好きな様子でしたが飲むと決まって陽気になり、終始笑い続けていたという印象も残っているぐらいです。焼酎のボトルをラッパ飲みしていたような記憶もあるのですが、今思えば水で割ることもなく、常にストレートで焼酎を飲んでいたことが考えられます。

仕事に対する姿勢はまじめそのものという感じでしたが、仕事の内容については余り一緒にしたという記憶もなく、特に仕事が出来るとか頑張っているという話も耳にすることはなかったと思います。初めは10トンの平ボディで石川県内や富山県内のローカルの仕事をしていたようです。

仕事の内容が違うので運転手としては一緒に仕事をする機会も少なかったですが、イワシのダンベの仕事では一緒になることがあったと思います。ダンベというのは平ボディの大型トラックに全部で16個平積みで乗るような水槽で、水槽の一つ一つはフォークリフトで運べるものでした。

小分けに区切られている分、走行中に揺られて魚が傷むことも少なく、養殖ハマチの餌として冷凍加工する工場に運ぶことが多い仕事でした。私自身は三重県の白塚町というところに運ぶことが多かったとも記憶しています。四国や石巻に行くこともありましたが、まとまった台数の仕事でした。

小林健一が平ボディ車以外に乗務するのを見た憶えはなく、臨時で保冷車に乗るような仕事をしたという話は聞いておらず、無理な配車をすることが多かった被告訴人MTKには頼まれることもあったとは思われますが、強く拒絶していたのではと思われます。

保冷車と平ボディでは仕事の内容がかなり異なるのですが、平ボディの仕事はミールとダンベが多かったはずです。特にイワシの運搬がある冬場の時期は。ミールの方は加工品なので他の時期も仕事はあったと思いますが、やはり冬場がメインでした。

さきほど説明が途中になったと思いますが、5台の平ボディが新車で入りました。トラックはイスズが2台、三菱ふそうが3台ではなかったかと思います。初めのシーズン、運転手もおらず、まともに稼働していたのは2台だけと思います。

二人ほど運転手が乗務しましたが、どちらもすぐに辞めていったと思います。一人は富山県の福光市から来たというサラリーマンのようないい年の人でした。名前も憶えておらず、とにかくすぐにいなくなったと思います。

もう一人は浜田というよくある名前の人だったと思います。新潟県の直江津でガソリンスタンドで働いていたような話で、女性と一緒に不倫か何かで駆け落ちしてきたような話でした。この人物の容貌が江村正之検察官によく似ていたので、悪夢を見るような気持ちになったこともありました。

短い間で余り話をした憶えもなく特に接触もなかったように思いますが、イワシを石巻まで運んだとき、大勢で荷下ろしの後、食堂に入ったときその浜田という人と彼女のような女の人の姿があったことは、なんとなく印象的に憶えています。そのうち姿を見なくなりましたが長くはいなかったはずです。

もう一人、名前の方は思い出せないですが、漫画のゴルゴ13のような雰囲気もある人物でした。M浦の紹介で入ったように聞いたと思うのですが、他の誰とも話をすることがなくいつもトラックの中で一人でいるような人物でした。身だしなみもしっかりしていて筋の入ったヤクザもののようにも見えました。

実際話してみると、そう暗い感じでもなく人付き合いを拒絶するようなタイプにも思えなかったですが、現場では仕事にのみ専念すると割り切っているようにも思えました。シーズンの初めからはいなかったような気もするのですが、途中で辞めることもなく終わりまでいたように思います。

彼も平ボディに大きな水槽を積んだものに乗務していました。イスズのトラックだったと思います。自分もイスズのトラックを選んでいました。どうせ空いているので三菱ふそうのトラックに乗務することもありましたが、他社に比較しブレーキ性能が格段によかったイスズ車がほとんどだったと思います。

イワシの運搬の仕事というのは時間的にずいぶんと不規則で待機時間も長いものでした。長い待機時間に会わせて自宅に帰ったりしていましたが、基本的に24時間態勢で漁船と工場の都合に合わせるという仕事でした。

工場の機械は原料であるイワシがなくなると機械を停止するしかなく、いったん停止してしまうと、次に動かすとき70万とか80とか言う費用が掛かるという話でした。

漁船の方も金沢港の港を出てすぐのところに大量のイワシがとれることもあれば、片道十数時間とか掛けて舞鶴沖や、新潟県の佐渡島の近くまでイワシを探しに行くという話でした。工場の機械のトラブルで荷下ろしが出来ないと言うこともあったように思います。

待機時間が長いと暇を持てあますこともあり、外食も多かったと思います。初めのシーズンの時は、大Nと一緒にいることが多く、おまけに食事のほとんども彼が私におごってくれていました。以前から能登では遠洋漁業の漁師の先輩や友達におごってもらう習慣は多かったのですが、金沢では珍しかったです。

さすがにどうかと思うぐらい頻繁におごってもらっていました。一緒に食事に行くと決まって支払いをしていてもらっていたように思います。年は親子ほど離れていましたが、けっこう気の合うところもあったのか、退屈することもなかったです。

大Nはその後、金沢市場輸送を辞め、守田水産輸送で運転手をしていたこともあったのですが、そのうち守田水産輸送で鮮魚の中継の仕事の現場を任されるようになっていました。

以前から金沢市場輸送の石巻、塩釜の定期便では富山県の高岡の市場行きの分を守田水産輸送に中継として出していました。富山市の市場は高速道路のインターからも近く、直接おろしていたと思います。福井の市場分は、自社の4トン車が初めの頃より中継をしていました。

金沢市場輸送で一番多い仕事だったと思いますが、東北陸運の仕事で石巻と塩釜から、それと塩釜の宮城陸上の仕事も別にやっていました。宮城陸上の仕事はおでんなどの練り製品が比較的多く、東北陸運の塩釜では北海道の苫小牧からフェリーで運ばれてきた荷物が多かったです。

季節によってサンマや鱈などの荷物が多いこともありましたが、荷物の量も時期によって倍以上の違いがありました。正月前など多いときは一日に大型車4台分以上の荷物がありました。4トン車の数は少なかったですが、プラスになることもありました。

市場関係の仕事では帰り荷がメインというのがほとんどでした。その帰り荷の積み込みに合わせ、現地で泊まりになるということも多い仕事でした。泊まりといってもトラックの中で寝るだけというのがほとんどです。

このような時間を持てあますうちに、パチンコやパチスロで散在するようにもなったのですが、そのうち完全にやめていました。そのうち泊まり自体をずいぶんと苦痛に感じるようになり、泊まりの多い金沢市場輸送をやめるという動機の一つにもなりました。

仙台おろしの荷物だと荷下ろしをしてすぐに積んで帰るという仕事も多かったのですが、配車の調整で泊まりになると丸一日に近い待機時間になりました。九州では連休などをはさむと、2,3日の連泊というのもありました。

市場急配センターに移ってからは極力泊まりは避けて欲しいとも配車に頼んでいました。ウィング車だったので魚を運ぶことはなかったですが、青果でも泊まりになることはありました。数が少なかったのでその分記憶にも残っているのですが、その一つが静岡県清水市での荷下ろしでした。

長距離特に市場関係は時間に追われることもあり、免許の点数を失う可能性が高いものでした。スピード違反もそうですが重量オーバーも神経を使いました。時間があるときは、取り締まりの可能性のあるインターから高速に乗ることを避けたりもしていましたが、走行中にパトカーに引っ張られることもある。

免許証を失ってはもともこもありませんし、次第に市内配達かローカルの中継のような安定志向の仕事をしたいとも考えるようになっていました。大型車は高速でも最高速度が80キロなので雪道や渋滞のロスを考えると120キロ以上で走行することも多く、常に一発で長期免停のリスクと背中合わせでした。

自分の場合、結婚し子供が生まれた頃、長期の免停とかで人一倍難儀した経験もあるのですが、その後は違反なしの満点の期間も長く、一度に沢山の点数を失う違反で捕まるようなこともありませんでした。

金沢市場輸送でのストライキ絡みのごたごたもあって、私は守田水産輸送の大Nに中継の仕事で使ってくれないかと頼んでいました。こういう仕事は空きも少ないはずなのですぐにというのは期待せず機会があればと声を掛けていたのです。守田水産輸送の中継は都商事という会社名になっていたかと思います。

後にも先にも大Nから自宅のアパートに電話があったのはその時だけだったという憶えもあるのですが、忘れた頃になって中継で使ってもらえるという連絡がありました。しかし、それは市場急配センターで仕事をすることが決まった直後のことでした。あるいは当日かもしれません。夜でした。

金沢市場輸送と守田水産輸送の間にはいくつか運転手の行き来もありましたが、定期便を一緒にするという時期も1年かもう少し長い期間がありました。もともと守田水産輸送がやっていた青森の定期便を一日交替でするようになり、帰り荷として守田水産輸送のトラックが石巻、塩釜の定期便をするように。

金沢市場輸送の事務所が西念から二口町の新事務所に移転した頃を挟んでいましたが、移転してしばらくの間は、守田水産輸送のトラックが事務所と一緒につくったスタンドに給油に来ていたぐらいでした。そのうち仕事のやりとりはなくなりましたが、はっきりした理由を耳にすることはなかったかと。

この頃、守田水産輸送では宇出津のTという人が大型車に乗務しているという話でした。自分よりかなり年上で7歳ぐらい年長のように聞いていたと思います。私より被告訴人OKNの方がよく知っている人のようでしたが、そのうちトラブルがあったらしく、Tにひどい仕打ちを受けたように話していました。

特に関心のある話でもなく聞き流し、突っ込んだ話も聞いていないので記憶にもよく残っていないのですが、これも車の売買を巡る問題ではなかったかと思います。被告訴人OKNはずいぶん腹を立てた様子で、ずいぶんといい加減な人間のようにTのことを話していました。

Tとは仕事で顔を合わすこともあり、何か話をする機会もあったように思うのですが、これも記憶には残っていません。ただ噂に聞いていたのとは印象が違い、がっしりしているものの体も小柄に見えたように憶えています。

どちらが先か後か重なる時期であったかどうかもはっきり思い出せないですが、もう一人、宇出津の人が守田水産輸送の運転手をしていたことがありました。名前はN田としておきますが、自分と同じ町内にある名前で、一つ年上に同じ名前の人がいました。被告訴人OSNの同級生でした。

同じグループで遊び仲間だった時期もあるはずです。宇出津の一部の町内でしか聞いたことのない名前でしたが親戚である可能性は高く、そういう話もして否定はされなかったようにも思います。

一度、石巻で一緒に泊まりになったことがあり、魚市場の前にトラックをとめて、じっくり話をしたことがありました。年齢はかなり年上で40歳ぐらいではなかったかと思います。守田水産輸送には長い間はいなかったと思います。

その後数年ぶりに再会したのが平成4年の2月頃のことで、場所が市場急配センターの一階の休憩室でした。休憩室というよりは運転手の控え室という感じでしたが、出来て間もない頃に、運転手は用事があるとき以外は2階の事務所ではなく、この部屋にいるようにというお達しがあったからです。

決まった呼び名もなかったと思いますが、そういうことで実質を踏まえた控え室ということで説明をしたいと思います。N田さんの姿を見たときも驚きましたが、被告訴人東渡好信と輪島のHさんとは以前から顔見知りだったらしく、彼らを訪ねてきたという様子でした。

以前から顔を出していたことも十分考えられますが、私が顔を合わせたのはその時が初めてで、その後も3月の10日前後に一回、姿を見たことがあったようなないような曖昧な記憶しか残っていません。彼はその時、木材を運ぶトレーラーに乗ってきていたように思います。

城山運輸という少ししっている運送会社のトレーラーだったとも記憶しています。東渡好信や輪島のHさんは、以前木材の運送の仕事をしていて、どちらもトレーラーに乗っていたという話だったと思います。木材と言うよりは丸太だと思いますが、金沢港では丸太置き場のような土地も広がっていました。

この丸太を運ぶ、トラックやトレーラーの話は前から聞くことがあったのですが、急ブレーキを踏んだ場合、後ろから丸太が飛び出して運転席を突き破り即死するという話で、とてもやる気にはなれないと自分としては考えていました。

被告訴人東渡好信はHらに「さんちゃん」と呼ばれることが多かったのですが、なぜ名前にない言葉が出てくるのか不思議に思い、控え室で輪島のHさんに質問してみたことがありました。普段は気さくに受け答えする人でしたが、答えは返らず、それ以上の質問はしませんでした。

その時の会話の内容だったのか、これも現在の記憶でははっきりしませんが、N田さんが木材のトレーラーの仕事をするようになったのは、比較的最近のような様子に私には感じられたと記憶に残っています。3人ともかなり前からの顔見知りで最近になって知り合った関係ではないとははっきり感じました。

小木運送にいたという話は前に聞いていましたが、この小木運送という会社も自分にはよくわからないところがあります。昔からある同じ宇出津の漁運会輸送ですら、私はほとんどしらないのですが、そういえば被告訴人OKNが一時期、漁運会輸送で仕事をしていたということがありました。

小木運送のある小木港は現在は宇出津と同じ能登町ですが、確か平成17年の、合併以前は珠洲郡内浦町小木でした。宇出津は寒ブリも名産ですが定置網などが主体の地場の漁の港です。一方の小木港は遠洋漁業が主な港で、イカの町ともいうぐらい船内凍結イカが名産になっている港です。

現在ではイカ漁の規模も小さくなっているようですが、以前は北洋のサケマス漁もやっていました。遠洋漁船に乗る若者も多く、昔付き合いのあった友人知人も、遠洋漁船の経験者が多かったです。金沢市場輸送の運転手で能登の人間のほとんども、小木の漁師の経験者でした。

小木の遠洋漁業がふるわなくなったのは国際問題となった二百海里問題が起こってからで、拿捕や操業停止という深刻な問題もが立て続けに怒っていました。その影響は漁業にとどまらず、大工なども失業して、出稼ぎに出ると人が多いと聞いていました。

宇出津でも夜逃げをしたり自殺する人が相次いだと聞いていました。それはちょうど自分が初めに金沢市場輸送に入社した昭和59年の時期とも重なっていました。その年の春頃に大型運転手として入社してきた珠洲市若山のTという人も大工をしていたけど仕事がなくなって金沢に出てきたと話していました。

その若山のTさんは、その後、守田水産輸送に移って運転手をしていましたが、たまたまなのかそのうち顔を合わす機会がなくなりました。同じく珠洲市若山に家があると聞いていたSさんは、小木運送の運転手でした。

珠洲市若山のSさんは一時期、金沢市場輸送の傭車として専属的に仕事をしていたことがありました。けっこう長い間だったと思います。一緒に仕事をする機会も多かったので、色々と話も聞いたように思いますが、ないときは自分で仕事を探すという普通の運転手とは違う会社との関係のようでした。

同じく金沢市場輸送で傭車をしていたKさんはトレーラーを持ち込みで所有していましたが、以前は小木運送の運転手だったとも聞いていたと思います。さらに小木運送の金沢の事務員だった女性と結婚したとか。Kさんも小木中学校だったはずですが、小木の近くの集落だと聞いていました。

余り具体的に書くことを避けますが、この小木の近くの集落では他に二人、金沢市場輸送で仕事をしていた人がいました。一人は昭和59年に私が入社したときにいたTさんですが、小木の漁師で、漁のない時期だけ金沢市場輸送で運転手をしていると話していました。

基本的に小木の遠洋漁船の漁師は5月か6月頃に出漁して12月の中頃に戻り、次の出漁まで休みになるという話でしたが、ちょうど自分の友達が漁師をするようになった頃には漁の仕事だけでは生活が厳しくなって、休漁の期間は出稼ぎに出たり他の仕事をするということが普通になりつつあったようです。

その一昔前は、3ヶ月ほどで500万円ほど稼げることもあり、休漁の期間は酒を飲み歩いて遊んで暮らす人が多かったとも聞いていました。

2度目のイワシのシーズンで一緒になったTさんもそんな小木の漁師という話だったと思います。彼も小木の町ではなく、他の二人と同じ集落だと話していたように憶えています。12月中にその姿はなく、1月中華途中から参加していたように思います。三菱ふそうの平ボディに乗務していました。

イワシの運搬を一緒にやったTさんとは、T林と3人で片町に飲みに行ったこともありました。無口で自分から話しかけるようなことも少なく、タイプはかなり違いますが前のシーズンにいたゴルゴ13似の人に、どこか通じるようなところもあったという気もします。

T林は長距離の保冷車の運転手でしたが、私の2度目のイワシのシーズンでは、同じく平ボディでイワシの運搬の仕事をするようになっていました。けっこう偏屈なところもありましたが、彼とは一緒にいる時間も長く、おごってもらうことが多かったです。食事より飲み屋が多かったと思います。

彼とは長距離運転手をしていた頃からの付き合いでした。入社は私より遅く、昭和61年の12月頃ではなかったかと思います。改めて考えてみると被告訴人IHKや被告訴人UHKと同じ頃の入社かと思います。幾分少しだけ早かったかもしれません。初めのうちは4トン車に乗務していたと思います。

昭和63年には新車でイスズの冷凍機付きの10トン保冷車に乗務していたと思います。この時の新車からナンバーがそれまでの「石」から「石川」に変わっていました。

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