2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月15日


「嫌われ監察官 音無一六〜警察内部調査の鬼〜」という刑事ドラマを昼に見ていたところ、新たにいくつか思い出すことがありました。長い間忘れていたことですが、どうして忘れていたのかと不思議にも思いましたが、思い出してよかったとも安堵しました。

私が岐阜県海津町から戻って金沢市場輸送で市内配達の仕事をするようになったのは昭和61年の8月の25日頃のことでした。9月中か10月頃だったと思いますが、輪島のMYという男が入ってきました。最初は市内配達の運転手として入社したはずです。

中央市場内の売り場で初めて顔を合わせたことを今も憶えていますが、毎朝、同じ場所で鮮魚や青果物を積み込んでいたのですが、同じ場所で彼と顔を合わした回数は少なく、ごく短い間だったと思います。

彼はすぐに4トン車で長距離の仕事をするようになったと思います。彼は思い出話としても何度か、市内配達でサンテラスユニーに行き、食品売り場の中で青果物をのせた台車を押していて知人に会い、とんでもない恥をかいたとか話していました。

サンテラスユニーというのは金沢市中村町にあるデパートで1階が食料品売り場になっていました。この中村町の周辺の白菊町や増泉というあたりは、水商売関係や暴力団関係者が居住する割合の高い地域でもありました。金沢市内の中心部にも近く、徒歩の通勤も可能なエリアかと思います。

そのあたりはアパートも多かったので居住する若者も多かったと思います。金沢市内は戦災に遭っていないので古い町並みも残っており、同じ中心部でも他の辺りはアパートの数も比較的少なかったという気がします。

金沢市内の中心部というのは片町や香林坊のことですが、以前は県庁も香林坊の近くにありました。金沢市役所は今もその近くにあるのではと思います。その辺りは自分の市内配達の受け持ちコースでもありましたが、大通り以外は道も狭く駐車のスペースも少ないです。

輪島のMYは早い段階で長距離の仕事をするようになっていたはずですが、大型保冷車に乗務するようになったのは昭和62年4月の自分より遅かったように思われ、その分4トン車に乗務していた期間が長かったように思われるのですが、仕事内容が違っていたためか、顔を合わす機会は少なかったかも。

今となっては細かいことを思い出すのは困難ですが、彼も大型免許を取得したのは金沢市場輸送に入社した後ではなかったかと思います。彼は私より学年で2つ年上だったので、年齢や普通免許の経験という条件は問題なかったはずです。

私は昭和61年の11月27日に大型免許を取得しましたが、普通免許の取得自体が半年以上遅れていました。昭和57年の6月、自動二輪免許で1年間の免許取消処分を受けていたためです。大型免許には普通免許を取得してから2年か3年の経過という条件があったはずです。

大型免許を取得した日付を憶えているのは誕生日の翌日だったからです。市内配達をしながら会社に時間の都合を作ってもらい一発試験で合格しました。7回目ぐらいの合格ではなかったかと思います。試験自体は1回1500円の費用であったと記憶しています。実技試験自体も時間は短かったはず。

実技試験に合格したときだけは、手続きの時間も多少長くなり、費用も多少掛かったとは思いますが、プラスで2千円か3千円程度ではなかったかと思います。4トン車の経験があれば、5回ぐらいの回数が平均的とも聞いていたように思います。

試験に10回通っても2万円も掛からないぐらい、平均より若干少ない回数で合格すれば1万円程度の費用で済んでいたはずです。時間のやりくりも会社が面倒をみてくれていたので、仕事を休む必要もありませんでした。

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