2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月10日


平成4年1月25日以降、彼女の家に電話をすることは余りなかったかと思います。母親が心配し警戒した様子だったので、電話を掛けることを控えていたと思いますが、依然と違って彼女自身が電話に出るようになっていたので、母親が対応して声を聞く機会がなくなっていたようにも思います。

平成4年2月14日の前後にも彼女の家に電話をしたような気もする。同年3月5日は、会社への電話で自分のアパートの方に電話をしてくれるように頼んだように思う。始めに彼女が会社に指輪をつけてきた日のこと。午前中は、七尾市内の川沿いで、栃木県葛生町から積んできた石灰を粉まみれで荷下ろし。

平成4年3月23日も会社で彼女に自分のアパートに電話をしてくれるように頼んだ。電話を掛けてきた彼女は、外にいるといい久安にいると答えた。車が通るような音が電話口に聞こえていたので、てっきり外にいるものと思っていた。

午後に被告訴人MHKが間に入って会社の近くの金石街道沿いのフランディとかいう名前の喫茶店で会っていた。この時のきっかけは2回目の指輪が原因で、静岡県清水市おろしのミールを積み込んだ日のこと。金沢市内高畠付近の倉庫、五高倉庫という名称だったと思う。

清水市行きのミールは確か積み置きで、翌々日おろしだったと思う。間に挟んだのは休日だったと思う。清水市で荷下ろししてから向かったのは茨城県古河市の青果市場の定期便だったと思う。急いではいなかったはずなので、翌日済みで向かったはず。

東名高速で神奈川県内に入ったパーキングエリア(レストランもガソリンスタンドもない)から会社に掛けた電話で、彼女を罵倒し、彼女はすごいショックを受けた様子でそのまま電話に出なくなった。かわって電話に出たのが被告訴人MHK社長。

被告訴人MHKは初めに「お前いったいあの子に何ゆうたんや。」とかいい、続けて「あの子のこと好きなんか、あきらめや、彼氏おるし」などとあらかじめ用意していたようなことを言った。会社辞めると言って泣いて帰った、とも言っていたような気もする。

さらにこれもあらかじめ用意していたように帰ったら3人で話をしよう、と言い出した。この運行から戻ったのが3月23日の月曜日。古河市の青果市場の仕事は山三成果の定期便。市場急配センターにおける一番のメインの仕事でもあった。

現在記憶の整理をする必要があるけど、山三成果の仕事はもともと金沢市場輸送でやっていたもので、当時から金沢港のイワシの運搬の仕事と同じく、市場急配センターが受けた仕事を、金沢市場輸送にやらせるというかたちになっていたはず。なにか税金対策の意味があるとは聞いていた。

金沢市場輸送で山三青果の仕事を本格的するようになってまもなく、日野自動車の新車の10トンウィング車に乗務するようになった。新車の納車は朝早く、日野自動車がトラックを持ってきたと記憶。ちょうどその時、会社のテレビで湾岸戦争勃発イラク攻撃開始のニュースをやっていた。

1月17日であったことは何となく記憶していたけど、先ほどネットで検索すると平成3年だったみたい。ウィング車が来る前は、冷凍機付きの保冷車に乗務していたと思うけど、12月の10日あたりから、ちょこちょこ山三青果の仕事が始まっていたと思う。

初めに古河の青果市場に野菜に積みに行ったのは10トン保冷車に乗務するようになって間もない昭和62年の5月か6月頃だったと思う。4月に新車で乗務するようになった石7599号で初めての運行は、タケノコを四国の松山市内まで運び、翌日に徳島県内からニンジンを積んで、翌日に東京都内の市場で荷下ろし。

東京都内のニンジンのおろし先の市場は4カ所ぐらいだったと思う。世田谷の市場では明るい時間に荷下ろしをしていたことを憶えている。翌日の朝には千葉県銚子市に行っていたと記憶。場所を探しているうちに、昔漫画で見たような犬吠埼に出て、イカ焼きを買って食べたようなことも憶えている。

銚子では白菜かキャベツを積んで金沢に戻ってきた。地図を見ながら道を選んで、国道4号線を横切ったのが古河市内だった。こんなところに出てくるのかと印象に残っていたところ、暫くして古河の青果市場に行くことがあったので余計に憶えている。

これは金沢の日榮運送の仕事であったような気もする。日榮運送では九州から青果物を積んで北陸に帰ってくるという仕事が多かった。長崎市の長与農協のみかんの仕事は冬場のみかんの時期の定番の仕事だった。他の時期は熊本市近くがメインで、スイカなど野菜を運んだ。

日榮運送は九州から青果物を北陸に運ぶ仕事をメインにしていたけど、長野県からリンゴを運ぶ仕事も定期便にしていると聞いていた。一度、長野県の飯田市からリンゴを4トン車に摘み、滋賀県の大津市内まで運んだこともあった。まだ大型車の保冷車に乗務する前で昭和61年の12月か翌年初めの冬かと。

この時は臨時の仕事で同乗者がいて、大Nの息子の友達で市内配達をしていたU。大Nの息子らはほぼ3人同時に入社したように思う。3人ともに当初から色々問題を起こしたり、人を驚かせる行動をやっていた。昭和61年の9月か10月頃から市内配達の仕事をするようになっていたと思う。

Uは藤江の陸橋の近くに住んでいるといい、だいたいの家の場所を教えてくれていた。前は松任市内になると思われる8号線バイパス沿いのけっこう名の知れたレストランで働いていたとも話していた。テレビCMをやっていたかもしれない。

大Nは昭和59年に自分が初めて金沢市場輸送に入ったときに、大型保冷車の運転手をしていた。丁髷ではないけど髪型や頭の形が織田信長の肖像画に似ていて、一緒にイワシの運搬をしていた頃であったか、50歳になったとか話していた。当時の50歳というのは仕事面では現在の70歳に近い感覚かも。

自分が金沢港のイワシの運搬の仕事をしたのは2シーズンで、初めの時が昭和63年の12月の終わりぐらいから翌平成元年の2月一杯ぐらいまでだと思う。12月の20日頃には配車係のYTを同行して石巻市内まで、オモチャを運んだことを憶えている。たぶんハローマック石巻店。オープン前後の時期。

イワシの仕事自体は11月中か12月の初めには始まっていたと思うけど漁獲量が少なく、本格化するのは1月2月で、3月も漁獲が落ちて4月中も少しはやっていたと思う。漁獲の少ない時期はダンプと八戸の白ナンバーグループでやっていたので、自分ら平ボディに出番はなかった。

イワシの仕事が始まってまもなく、臨時に頼まれて大Nと一緒に茨城県水戸市のデパートに展示会の荷物を運んだことは既に書いていると思います。大Nはダンプに乗務していました。

金沢市場輸送でイワシの運搬の仕事をするようになったのはその前のシーズンで昭和62年のことと思いますが、2台のダンプが納車されたのが3月ぐらいと思われ、シーズンの終わりに近く試験的な段階であったように思います。

2台のダンプはどちらもイスズのトラックでした。自分が新車で乗務した7599号もイスズのトラックでしたが、半月から一月ほど前にダンプの姿を見るようになったと記憶しています。

その昭和61年の12月から昭和62年の4月頃までのイワシのシーズン。金沢港からのイワシの運搬というのは試験的な段階でしたが、そのイワシを原料に加工したミールという魚粉の運搬はすでに本格的にやっており、自分も従事することが多かったと記憶しています。

ミールの仕事は金沢市内と松任市内の倉庫への移動と、名古屋方面への運搬が主でした。名古屋は知多半島が多かったと思いますが、養鶏場の餌として運ぶこともあり、他県への運搬もあり、九州の福岡や、四国の徳島にも運んだことがありました。

初めにダンプに乗務したのがM浦でした。もう一人連れがいて、もう一台のダンプに乗務していたのですが、昭和63年12月の2度目のシーズンにが姿がなく、変わってもう一台のダンプに乗務したのが大Nだったのです。

この時はシーズンにあわせて5台の平ボディ車が全て新車で納入されました。平ボディにFRPの大きな水槽のようなものを乗せていました。特殊な水槽で和歌山県の田辺市の工場に発注したようです。一度、その田辺市までトラックを引き取りに行ったこともありました。南紀白浜の近くのようです。

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