2014年3月12日水曜日
平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月02日
軽視できないのは被告訴人MHKが来てすぐに、T林がMHKの過去を語り出したということです。T林だけの話ではなかったのかもしれませんが、瞬く間に社内の誰もが知っているような周知の事実のようになっていたという印象が強く残っています。
T林の話によると被告訴人MHKは競馬にのめり込んで会社の金を横領し、クビになったということでした。刑事事件になったとまでは聞いていなかったような気もしますし、私の方からも突っ込んで話を聞くようなこともなかったと思います。
既に書いていると思いますが、被告訴人MHKの姿を最初に二口町の金沢市場輸送の事務所で見たのは、昭和63年の8月の終わりか9月の初め頃でした。その後、初めの頃はちょこちょこと顔を見ていたように思いますが、しばらくするとほとんど顔を見ることがなくなったという印象も残っています。
いずれにせよ金沢市場輸送の事務所にいることは少なかったですし、机や椅子に何かをしているという姿も見た憶えがありません。席自体がなかったのではと思います。顔を合わせて早い段階から車のセールスを持ちかけてきて、少し話をするとすぐに試乗車まで持ってきたことを憶えています。
新型になったカローラだったような気がします。カローラにはカムリという兄弟のような車種もありましたが、テレビのCMでも全く見かけなくなって久しいです。トヨタカローラという呼び方もあったと思いますが、小型の大衆車の代表格ではなかったかと思います。
しばらくすると態度が急変したように全く車のセールスの話をしてこなくなりましたが、私の妻のサラ金の借金のことで難があるとわかったことで態度を変えたという感じでしたが、それがかなり露骨な印象として残っており、むしろ演出というか演技ではなかったのかと考えることもありました。
市内配達の現場は会社ではなく、中央市場内の売り場ということは、市内配達の仕事をしていた経験もあるので人一倍理解はしていたつもりでしたが、それにしても物を書く仕事もあるだろうに、机もなしにどこでやっているものかと、不思議に思うことはありました。それだけ姿を見る機会が少なかった。
市場急配センターの新しい事務所では大きな社長の机がありましたが、そこに座っている姿というのも目にする機会は少なかったです。いつも空いているので、私などはその席に座ることも多かったです。机は大きいだけでなく、色々とおいてある物も多かったという印象はあります。
もともと被告訴人MHKは営業が得意という感じの強い人物でした。横領でクビになったという会社も石川トヨタでした。T林も同じ石川トヨタの社員だったと話していました。T林の話しぶりから察すると部署は違い、直属の上司ではないような感じでしたが、よく知っていると噛みしめてに話す感じでした。
石川トヨタといえば中古車を含め車の販売業界を代表するような会社であったと思います。金沢市内に大きな会社の建物もありました。増泉にも近かったと記憶しています。クラウンも取り扱い車種だったはず。
トヨタのクラウンという車種は現在でもテレビCMで見かけていますが、トヨタの国産車として代表的な高級車という位置づけでした。さらに上位にはセンチュリーという車もありましたが、日産のプレジデントと同様、一般とは異なる特別な車種だったと思います。
日産のプレジデントの方はさほどでもなかったかもしれません。かなり古い感じという印象も残っていますが、中西運輸商の社長の車もプレジデントでした。中西水産輸送と中西運輸商の違いは、昨年中に本書においても説明済みかと思います。
ついでに書いておきますが、被告訴人TSKは中西水産輸送の窮地を救ってやった恩人だと、自慢話をしていましたが、やけに熱の入った語り口でもありました。金額など具体的なことまでは話していなかったように思います。
私は中西水産輸送の社長本人の口から被告訴人TSkのことに触れる姿も目の前で見たことがありました。TSkか・・・と、しみじみ懐かしむと同時に呆れたように口にしただけで、それ以上のことは口にしませんでした。憎めいないやつというようなニュアンスと感謝の念のようなものもあるようには。
中西水産輸送の社長は、一言で言えば猛烈でめちゃくちゃな人物でした。昭和の時代の遺産というか現在ではあり得ないタイプの社長かもしれません。結局、中西運輸商が佐川急便の仕事をやめてからは噂を聞くこともなくなってので、その後のことはさっぱりわかりません。
中西運輸商の社長は見た目も体つきも、寺の門にある仁王像という感じの人物でした。仕事の電話で取引先の相手に、今からお前を海に鎮目に行ってやると、怒りまくっている姿を、目の前で見ていたこともあります。
中西運輸商の事務所は金石街道沿いの金沢市寺中町にありました。寺中町は畝田とも隣接していたと思いますが、畝田や藤江と違って町内の範囲は狭く、丁目は少なかったと思います。数百メートル先に行くと同じ金石街道沿いで金沢西警察署がありました。
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