2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月01日


年が変わって2014年になりました。年内もいろいろと考えていたのですが、より慎重を期すため大晦日と元旦に差し障りを招くような変化は避けることにしました。何から説明を書くかと言うこともずいぶんと迷いました。

私自身、被害者との関係においては理解しがたいこともあり、接触自体も断絶しているの知る範囲も限られています。私自身の記憶の整理もかねて経過の説明からしておきます。被害者のことをAA、被害者の父親のことを以降AKと表記します。

まず不思議にも思えることですが、平成4年6月18日に初公判があり同年8月3日に判決があった金沢地方裁判所の一審の公判において、被害者家族の姿を見ることは一度もありませんでした。

ただいま私自身の記憶によってのみ記述をしているので、正確な時期を特定しかねますが、控訴審の初公判があったのが平成4年の10月頃ではと思います。控訴審の初公判のことは割と印象的に憶えています。

まず裁判長が浜田武律という珍しい名前の人でした。浜田は濱田という字が正確かもしれません。新聞か何かで名前には見覚えがありました。何か戦国武将や軍人を連想させる名前でしたが、実際そのような感じの人物でした。

名前とともにいかめしい第一印象があったかと思いますが、弁護人である木梨松嗣弁護士に向け、心神喪失などの主張を確認し、砕けたような感じで、「ならば無罪じゃないか?」と言いました。

私か事件に対し、珍しい不思議さで臨んでいるようにも思えましたが、本心はわからず、次回以降に持ち越すような切り上げ方のごく短い公判であり、具体的な質問というのもなかったと思います。

この公判は午後に行われ、天気が悪くてそとがどんよりと薄暗く、法定内の電気が明るく感じられたという印象が残っています。北陸の冬特有の天候ですが、10月頃という時期を考えると、よほど雲が厚くてどんよりした天気だったのかもしれません。

次回の公判の時、裁判長が替わっていました。小島裕史裁判長です。この時も顔合わせだけのような短い時間の公判ではなかったかと思います。

いきなり裁判長が替わってずいぶん驚いたような気がするのですが、前もって書面が届けられるのが普通ではないかとも思えます。そういう書面を受け取ったという記憶もないのですが、その後、平成5年になってから陪席の裁判官一人も交代になっているはずです。

当時の名古屋高裁金沢支部の法廷は、裁判官の席に向かって左側が一般の通路、右側が外になっていましたが、間にそう幅の広くない通路があり、一階の被告人の控え室のようなところに階段で行き来するようになっていました。

その被告人が連行される通路で3階への階段というのはなかったと思います。金沢地方裁判所の建物自体が2階建てだったようにも思うのですが、現在は取り壊しの上、新庁舎になっているはずです。

法廷の外側の窓が被告人が連行される通路になっている構造なので、直接ではないですが、法定内には外の光もガラス越しに入るようになっていたはずです。

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