2014年3月12日水曜日
平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月29日
平成4年の新年顔合わせですが、これは1月4日かあるいは3日であったと思います。私は遅れて出席しましたが挨拶程度の会合で散会も早かったと思います。残っている人も多くいたと思いますが、私は早い段階でその場を離れたと記憶しています。
その場で被告訴人HTNに誘われ、金沢市内諸江のKHさんの自宅へ行ったからです。諸江に家があるということは聞いていましたが、訪問したのは初めてでした。諸江の辺りは移転した石川県庁にも近いので平成4年当時とはずいぶんと様変わりしていることも考えられます。
平成4年当時はまだ県庁の移転の話すら本決まりにはなっていなかったのかもしれません。諸江の辺りは郊外の住宅地らしい感じでした。諸江といっても国道8号線バイパスをはさんで広いと思いますが、KHさんの家はバイパスの向こう側で問屋団地にも近い辺りだったと思います。
一戸建ての新しい家でした。HKさんが金沢市場輸送に来たのは昭和61年の12月頃ではなかったかと記憶しています。これは被告訴人IHKや被告訴人UHKの姿を見るようになったのとほぼ重なる時期です。イワシの運搬を一緒にやったT林も同じ頃でした。
平成1年の1月頃に能都町松波の港で自殺をした珠洲のTSさんも同じ頃で、浜田漁業金沢工場でミールの運搬の仕事が始まった頃でした。TSさんは宇出津の石川県立水産高校を卒業してすぐに金沢市場輸送に入社し、4トン車で長距離の仕事をしていたと聞いています。
水産高校 沿革 http://www.ishikawa-c.ed.jp/~hoksnh/suisan-e.htm の情報によると石川県立水産高校は平成11年か12年頃まで続いたようです。
水産高校には機関科、漁業科、製造科が宇出津の本校にあり、小木分校には無線通信科がありました。製造科の9割以上は女子だと聞いています。漁業科は定員自体も少なかったようにも聞きましたが、退学者を含めると13人程度の人数だと聞いていました。機関科は30人以上はいたようです。
小木分校は40人が定員でした。製造科も似たような人数と退学率だと聞いていました。退学率は漁業科や機関科が高かったようです。漁業科は最も人気がなく、それに学力も最低という話で、自分の名前さえ間違えずに書ければ入試に合格できるという話でした。
なかには専門職を目指した優秀な生徒もいて金沢市などからも来ているとは聞いていました。小木分校には短大相当の専攻科がありましたし、本校にもあるとは聞いていました。
被告訴人YSNは漁業科だったはずです。卒業アルバムを見せてもらったことがありましたが、同じ漁業科のクラスメートとして珠洲のTSさんの姿もあったと思います。YSNは素行もよくなく学業の成績もよくなく、首の皮一枚で奇跡的に卒業したと本人も話していました。
小木分校でも確か謹慎が3回か4回でリーチが掛かり、次に謹慎相当の問題を起こすと退学処分になるというのが相場という話だったと思います。喫煙や飲酒も謹慎になっていました。YSNはこの謹慎の回数もリーチになっていたと話してきたように思います。
水産高校を卒業したYSNはそのまま金沢の中央市場にあるウロコ水産に入社したと聞きます。中央市場は鮮魚と青果に大別できますが、青果の釣り場は石川丸果だけでした。鮮魚の売り場は、石川魚市とウロコ水産の2つがありました。
なにか親のこねのようなものもあったらしくYSNはウロコ水産という大きく安定した会社に就職できたようですが、仕事そっちのけで遊び回って半年ぐらいで辞めたと聞きました。なお、ウロコ運送という鮮魚を運ぶ運送会社もありましたが、ウロコ水産とは別物と聞いていました。
ウロコ運送は九州の福岡市長浜の魚市場から鮮魚を運ぶ定期便をやっていて、金沢市場輸送と一日交替で10トン車を一台だしていました。行き荷はトナミ運送の雑貨で、富山中央店と砺波店から荷物を積み、おろし先は北九州市と福岡市の西武運輸でした。
福岡の魚市場にはウロコ運送の駐在員のような人がいました。STという人で金沢大学を卒業したとも聞きました。魚市場の近くのマンションに住んでいて、運転手の休憩所にもなっていたようです。私はよくそこに行っていました。金沢市場輸送の運転手で利用する人は多くない感じでした。
定期便では金沢行きの鮮魚を積んでいましたが新潟中継の荷物もあったので、夜の20時か21時には金沢に着いていました。中央市場の鮮魚の売り場が混み出すのも23時ぐらいからで、それより少し早い時間に荷物を全部おろし終わることが多かったと思います。
東北便だと早い時間で金沢の売り場に入るのが23時過ぎでした。荷物の少ない時期だと0時過ぎに仕事が終わることもあったと思います。遅い時間になるほど混雑と待ち時間も長くなるので、荷物が多い時期は4時過ぎになることもあったかと思います。
東北便ではおでんや笹かまなどの練り製品などで中央市場の外の食品会社におろしにゆく荷物も多かったですが、平均すれば深夜2時頃に仕事が終わることが多かったように思います。
福岡からの荷物をおろし終えないうちに自社の東北便のトラックを見ると終わりまで手伝うのが普通でした。少なくとも自分はそのようにしていました。東北便も自社便が2台というのが普通で多いときは4台ということもあったと思いますが、そうなると1台は傭車も含まれていたかと思います。
一緒になって荷物をおろし終わると近くの食堂で食事をするのが恒例でした。ビールなどアルコールも飲んでいました。けっこう長い時間、会社や仕事の話をするのもお決まりでした。普段一人で乗務していることが多く荷下ろしを終えた開放感もあってか、話も弾みました。
福岡の魚市場では定期便以外のフリーで鮮魚を積むために入ることもありました。ほとんどが泊まりだったと思います。大阪や東京行きの仕事が多かったように思います。ウロコ運送の社長の息子がしばらくいた時期もありました。
STさんなども金沢市場輸送の運転手のことはよく知っていたと思いますが、仕事ぶりのよくない運転手というのもいるような話もちらほらとは耳にしていました。不平や不満があったり扱いづらいということもあるような話しぶりだったと思います。
被告訴人HTNと招かれたKHさんの家ではHTMと私、それともう一人いたような気もするのですが3人だけでした。当時も少し変には思っていたのですが、今考えるとなおさらおかしな気もしないことはないです。
夕方暗くなってからではなかったかと思いますが、被告訴人MHK社長とカベヤの二人が来ましたが、長い時間はいなかったと思います。私も19時頃にはおいとまをしたように思います。一度会社に戻ってトラックの中で仮眠をしてから岐阜にむかったような憶えがあります。
カベヤというのはMHK社長といつも一緒にいた人物です。年も同じぐらいに見えたし、幼馴染みのような旧知の間柄にも見えました。人の話では内装工事か左官の小さな会社をやっているという話だったと思います。能登でそういう話を聞いたことはなかったですが左官のことをカベヤと呼ぶとか。
呉服屋の若旦那のようでもあり、いつも手元に小さな鞄をぶら下げて集金に回っているようにも見えた印象があります。MHK社長も会社にいないことが多かったですが、二人で戻ってくる姿を見ることも多かったです。個人的な付き合いとは思っていましたが、新年会にまで出席していました。
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