2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月31日


髪型を変えたS藤に金沢港で会ったことはすでに書いていると思います。それも被告訴人OKN絡みの問題でした。問題の当事者はS藤ではなくS田でした。彼は単なる付き添いだったと思いますが、パンチパーマの髪型はまるで借金の取り立てに来たチンピラヤクザという印象でした。

S田と被告訴人OKNとの間のトラブルは、その時に初めて聞いたのではなく、少し前に被告訴人OKNの方から愚痴のような感じで聞いていたように思います。車の売買を巡るトラブルだったとも知っていたように思いますが、余り具体的な話という印象は受けなかったと記憶しています。

その時点でS藤を連れたS田はトヨタのレビンかトレノという小型のスポーツタイプの車に乗ってきていました。デザインのわずかな違いで名前が違うというタイプの車だったと思います。マーク2とチェイサー、クレスタという感じで昔は多かったと思いますが、最近はほとんど聞かない感じです。

色は白だったと思います。その車に3人で乗って、金沢港の八幡のすし弁の近くにあるコンビニのような酒屋の前を通ったことを記憶しています。自販機も多くある店で、よく利用していた店でもありました。金沢ではコンビニがさほど普及していなかった頃だったとも思います。

髪型も変わっていましたが、かなり久しぶりに会ったという印象も強く、すでに忘れかけていていたような印象も残っています。

色々と当時のことを思い返してみたのですが平成1年はO西さんと一緒にやっていたイワシの運搬の仕事が2月いっぱいか3月に終わってから、私は長距離の仕事には戻らず、元々、小林健一が10トン平ボディでやっていたローカルの仕事をしようとしていたと思います。

その10トン平ボディのトラックは日通カラーになっていました。もともとは日通の仕事を専属でやるために作ったトラックだったと思いますが、私が初めに入社した昭和59年当時にあった新車で同じものが2台あって、原田さんと棟方さんという人が乗務していたと思います。

小坂さんという人も同じく10トン平ボディに乗務していたと思いますがその頃は日通カラーではないものに乗務していたように思います。あるいは型の古いイスズの10トン平ボディだったかと思います。この古いイスズの平ボディは私が大型免許を取って間もない頃ミールを運んだりしていました。

昭和61年の8月に入社した頃には棟方さんはやめていなくなっていたように思います。原田さんは私が中西水産輸送にいるときに金沢市場輸送をやめて移ってきました。ツーマンだったように思いますが、売上トップで表彰のようなものを受けていた様子も一つの場面として憶えています。

私の紹介というかたちで中西水産輸送で運転手をするようになり、その後配車係となって、昭和63年の12月頃には私の紹介というかたちで金沢市場輸送に移って配車の仕事をするようになったYTに聞いた話によると、原田さんは別の運送会社に移った後であったように憶えているのですが。

群馬県の高崎市付近の国道17号線で事故を起こし死亡したといいます。これと似たような話は平成15年頃か、被告訴人YSNの口からも聞きました。事故を起こした場所が群馬県の同じ辺りという話でしたが、死亡したという人は、市場急配センターで運転手をしていた大倉という人でした。

社員ではなく4トン車の持ち込み運転手というかたちだったと思います。平成3年の9月の初め、被害者AAさんが大倉さんのトラックに軽四をぶつけられたことがきっかけで、フィルム貼りの手伝いがあり、私とAAさんは急接近することになりました。8月中には意識する感じにはなっていました。

大倉さんもカベヤと同様に被告訴人MHK社長の友達という感じでした。風貌がゴリラーマンという人気漫画の主人公によく似ていると個人的に思っていたのですが、一目置かれるような存在でもあったのか、冗談でもそんなことを口にする人は私の知る範囲いませんでした。

ぱっと見た感じはいかつい顔立ちだったようにも思いますが、話し方や物腰はやわらかかったので、大人しい人とは思っていましたが、交友関係も広そうな感じでした。もとは社長として商売をしていたという話も、あるいは耳にしていたかもしれません。

大倉さんについて書き出して思い出したのですが、平成4年1月の片山津温泉せきや、での新年会のこと。大倉さんが被告訴人TTKら若い社員2,3人だったかを連れて、ソープランドをおごり、戻ってから麻雀で大負けしたような話があったように思います。あるいは20万円程度の負けだったかも。

金沢市場輸送の大きな特徴の一つに夕方17時頃から、毎日のように麻雀荘のようになっていたということがあります。私自身麻雀はおぼえなかったし、しませんでした。二口町に事務所が移転してからのことでしたが、市内配達の社員がいる頃は、そうでもなかったような気もしなくはないです。

中西水産輸送から来たYTもよく麻雀をしていましたが、彼は金沢市場輸送に来てから麻雀のルールをおぼえたと話していたように思います。連日のお決まり行事のようになったのは被告訴人東渡好信が来てからだったかもしれません。彼も常連メンバーの一人でした。

なかには余り見かけない市場急配センターの社員のような人もいましたし、会社とは無関係の人も交じっていたと思います。ゼンゴとか呼ばれた人物は、麻雀で見かけるようになった後に、しばらくイワシ関係の仕事をしていたように思いますが、細かいことは忘れてしまいました。

特に印象に残っているのは小木の元漁師という恰幅のよい人物でした。顔もなんとなく覚えていますが、体型が特徴的でした。マッチョという言葉がありましたが最近は余り聞かなくなっています。ボディビルダーのような体型ですが、それと相撲取りのような肥満型を合わせて割ったような体型。

金沢市場輸送に来た当初から傍若無人な振る舞いをしていた被告訴人東渡好信を小僧扱いでいびるような場面もありました。その割に他の人たちには配慮というか気を遣っているようにも見えました。確かに話し方も小木の人らしい感じでした。

私が生まれ育った宇出津と小木は距離にして10キロ弱で現在は同じ能登町でもありますが、話し言葉や発音にはかなりの違いがありました。他の金沢の人などには区別もつかないかもしれないですが、特有のものが数多くありました。

なかには遠洋漁業の漁師特有の言葉というのもあったように思います。たとえば妻や彼女のことを「じゃーま」と呼びますが、宇出津でも小木の漁師の経験者でもほとんど使う人はいないと思います。前にネットで調べたところ富山の方でも使うようです。

小木の漁師は、北海道の女性と結婚することが多く、母親が北海道の子供が多いとも聞いていました。人見知りをしない開放的な雰囲気というのも小木の方が現在でも強いような気もします。町の雰囲気も昔ほど違いが強かったですが、話し言葉も金沢の方に近くなり、聞かなくなった方言も多いです。

最近では減りましたが私は魚釣りで小木に行くことが多いです。宇出津より魚も釣れるし水深や風向きでも釣りがしやすいからです。特に大きいアジを狙えます。したがって今でも小木の人の話し方を耳にすることはありますが、年配者でも以前ほど、際だった特徴は薄れていると思います。

私が石川県立小木分校に入学した昭和55年頃は、クラスメイトとなった小木の女子が、「ゲッサァー」などと連発しているのに驚いたものでしたが、まったく耳にすることがなくなった言葉です。そういう言葉よりアクセントや方言の使い方に特徴が強かったと記憶しています。

金沢市場輸送の社長となった被告訴人MTKは最も常連の麻雀のメンバーでした。17時を心待ちにして麻雀を始める姿など見ていたので人一倍麻雀が好きなのだとは思っていましたが、彼の場合、配車係として配車の仕事を仕切るという意味合いでも会社にいる時間が長かったので仕事と一体化していました。

被告訴人MTKについては富山で飲み屋を数店舗経営していたことや静岡でサラ金をやっていたことなど、昨年中にいろいろ書いておいたことがあると思います。彼自身が語った経歴をあわせても、天才詐欺師のような雰囲気を身にまとっていました。

昭和59年の時点で金沢市場輸送で最古参の運転手だと聞いていましたが、それでも入社して7年か8年目という話であったとはっきり記憶しいています。それだけ人の出入りも多かったということになりそうですが、免許の停止や取り消しなど点数を失うリスクも多かったはずかと思います。

何時の時点であったかはっきり思い出せないですが、被告訴人MTKは50歳になったと話していました。まだ金沢市場輸送の社長になる前ではあったと思います。そのいくらか前だったと思いますが、運転手の武田さんから被告訴人TSKが還暦を迎えた赤いチャンチャンコを送るという話を聞きました。

当時の私は還暦という言葉の意味もわかっておらず60歳になった祝いということを初めて知ったようにも憶えています。それより辛口の評価が多かった武田さんが、TSKに贈り物をするという話をした方が、意外にも感じられました。

昔のことをいろいろ考えているうちに、マルモ整備のことを思い出しました。社長という人は当時50代だったと思いますが、柳田村の出身と話していました。現在は宇出津と同じ能登町ですが、以前は石川県鳳至郡柳田村でした。これも数年間長い間、すっかり忘れていたみたいです。

昭和59年の時は、武田さんは10トン車ではなく6トン車に乗務していたように思います。6トン車は2台いてもう一台に乗務していたのが越田さんでした。越田さんは10トン車に乗ることなくずっと6トン車に乗務していたと思いますが6トン車がなくなってからは4トン車に乗っていたかもしれません。

平成2年秋頃には金沢市場輸送にいたと思うのですが、もともと無口で存在感が薄い人でもあったので、いつのまにか辞めていなくなっていたのかもしれません。かなり地味な感じでしたが、話しかけると割と明るく受け答えしていたような印象もあります。

たまに会社に来ていた被告訴人TSK会長とは、ちょくちょく将棋をさすのを見かけていました。会社で将棋をするような人は他にいなかったと思います。ちょっと不思議な存在でもありましたが、6トン車は仕事内容も異なることが多い感じでした。

武田さんは昭和61年の8月に私が再度入社した時点では、10トン車に乗務していたと思います。保冷車なので他の運転手と同じく鮮魚の仕事が多いぐらいでした。野菜でも冷凍機をつけていないと積ませてもらえないとことになったのは昭和63年ぐらいからだと思います。

武田さんは被告訴人MTKよりいくぶん年が若かったと思いますが、いくぶん老けて見えたかもしれません。運転手というより技術者という雰囲気もあったように思いますが、本人も昔は電気工事の仕事をしていたようなことを話していたかもしれません。

武田さんとは仕事でよく一緒になりましたし、いろいろと話もしました。かなりの倹約家でもあり食堂に入って食事をするようなタイプでもなく、これも他の運転手とは異彩を感じさせるところでした。地味にも見えたのですが、連れ添いの年上の女性は派手でした。

水商売の女性のように見えましたが、とにかく衣装も化粧も際だって派手でした。独自の他には見ない服装で、いったいどこに売っているのかと不思議に思ったことも憶えています。戦後の一昔前の雰囲気を濃厚に持つ年配の女性でした。

はっきり聞いたのか、それも今となっては正確に思い出せませんが、正式な夫婦ではなく内縁関係にあるような感じでした。たまに長距離の仕事に同行していました。長崎県の長与農協で一緒になったことも憶えていますが、近所のスーパーに一緒に弁当を買いに行き、トラックで食べたと思います。

コンビニで買った弁当をトラックで食べるということはよくあったと思いますが、仕事先でスーパーに入って弁当や惣菜を買うという発想も経験もほとんどなかったと記憶しています。深夜の時間帯など近くに食べるところがなければ、コンビニの弁当で済ませるという感覚でした。

普段は倹約をしているけど、たまには連れ合いの人と、一人一匹の蟹を買ってきて贅沢に食べるとも話していましたが、長距離の仕事中の食事は、ずいぶんと切り詰めていたようです。今考えると一般の感覚ではそれが普通なのかもしれないですが、当時はずいぶんと変わって見えました。

その倹約ぶりというのは当時金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKの夫人にも通じるところがありました。吝嗇というのか徹底した倹約ぶりと聞いていましたが、その話の大半も武田さんに寄るところが多かったとも思います。

武田さんは金沢市内の寺町に住んでいるとも聞いていました。持ち家かアパートなどかとまでは聞いていなかったように思います。寺町は金沢の中心部にも近く、神社仏閣の観光地というイメージもあります。

チャンチャンコを贈ると言ったこともありますが、TSK夫妻とは特別な間柄なのかもしれないと考えることもありました。実際、会社のスパイではないかと言葉を漏らすような運転手もいたような憶えもあります。

TSK夫妻の家が金沢市の野町、それも石坂(いっさか)にあるということはしばしば聞いていました。地理的にも寺町に近いはずですが、昔の遊郭とか伝統のある場所とは聞いていました。近年では金沢の三大茶屋街の一つ西の茶屋街として知名度も上がり、観光地のようにもなっているようです。

TSKの夫人も以前は片町でスナックのような小さな飲み屋をやっていると聞いていました。昭和59年頃に聞いていた話では、暗い感じの店で、二度と行きたくないような店だという運転手もいました。若くない女の人が他に一人か二人いるような話でもあったと記憶しています。

TSKの夫人自体が、当時は地味で暗い印象でした。顔立ちなどはもともと美人だったという気もしますが、とにかく会社ではメガネを掛けて、机に向かってのみソロバンをはじいているという感じで、他の人と話をしたり周囲を見渡す様子も見た憶えがありません。

前にも書いていると思いますが、片町というのは金沢で一番、おそらく北陸3県でも一番の飲み屋の集中した繁華街です。そこで飲み屋をやっているとなると、華やかな印象も抱きがちですが、無愛想でギスギスした印象しか、当時は残っていません。

一つには金沢市場輸送の経営自体が、相当深刻に厳しい状態であったということが考えられますし、実際にそのような話を聞いていました。北浜太一さんの弟のように、給料日に給料がもらえるだけましという人もいました。

風向きが変わったのは金沢市場輸送だけでなく、日本社会自体が世に言うバブル景気に突入したというのが、何よりも大きな要因だったと思います。やり手の被告訴人MTKが配車係になったというのも金沢市場輸送としては大きかったというのも否定できない要因かと思います。

既に書いていることと思いますが、金沢市場輸送の事務所が西念町のテナントから二口町の新築事務所に移転したのが、昭和63年の7月だったと記憶しています。それと同時に、TSK夫人は片町の飲み屋の仕事をやめ、金沢市場輸送の会社の仕事にのみ専念することになったとも聞きました。

その頃よりTSK夫人の性格も別人のように明るく変わっていったという印象が残っていますが、とりわけ私に対しては、どうかと思うぐらい好意的に感じることがありました。長い間の苦境から脱したという安堵感と、業績を改善してくれたという感謝の気持ちが強かったようにも思われます。

近年になってより強く思うようになったことですが、そういう夫人の私に対する感情と評価はAAさんにも影響を与えたことだと思います。実際、平成3年の終わりか平成4年になった頃からは、輪島のHさんや被告訴人HTNが、TSK夫妻が私を養子にして会社を任せるつもりだとも言い出しました。

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