2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年01月08日


そのほかの公判では例外なく、弁護人と検察官が先に席に着いていて、時にはけっこうな時間待たされた後で、3人の裁判官がそろって、背後のからくり扉のような出入り口から、登場していたはずです。木梨松嗣弁護士はあえて、時間を遅らせて現れたとしか思えなかったです。

その医師がどんな服装であったかはっきりとは憶えていないですが、制服のようなスーツの上から白衣を着ていたことは間違いないと思います。それは通常の病院での医師の姿とは異なる異様なものだったので、そちらの方に気がとられ、またその時の公判自体も、顔合わせ程度の短いものだったような。

精神鑑定があったのは3月1日から同月31日までの丸一ヶ月間でした。拘置所の金沢刑務所から金沢大学付属病院というのは金沢市内でも比較的近い場所でしたが、全ての荷物を持って出て、完全に出所して、また入所するのと同じ手続きだったと思います。

金沢大学付属病院では閉鎖病棟ではあるものの他の入院患者と同じような生活をしました。ちょっと変わった個室でしたが、少なくとも消灯前の時間は比較的自由な行動が出来ました。鑑定留置だったのは自分だけでしたが、閉鎖病棟内は割と広く、ロビーでテレビも自由に見ることが出来たと思います。

この間、弁護士を含め母親の面会も一度もなく、また、許可がおりなかったのか外部に手紙を出すこともなかったと思います。

その精神鑑定の実施が決定されたのは20日ぐらい前の公判の時でした。午後の遅い時間で天気も悪かったのか、外は暗い感じで、法定内の電灯の明かりが強く感じられたことを憶えています。まるで夜のようにも思えましたが全体を通して自分の公判で17時を過ぎるようなことは一度もなかったと思います。

精神鑑定自体、木梨松嗣弁護士は控訴審の早い段階から主張していたはずですが、なぜ必要なのか、説明のようなものは一度もなかったです。そもそもとっかかりすら与えられない状態だったので、不安が先行していたと思います。どの公判においても事前の打ち合わせのようなものはないに等しいものでした。

あったとすれば事前準備書というものが郵送されたぐらいです。具体的な内容の打ち合わせのようなものはなく、全くのぶっつけ本番の公判で、どれぐらいの時間が与えられているのかもわからず、全く見通しのたたないものでした。

木梨松嗣弁護士から具体的なアドバイスのようなものがあったのは、裁判所に宛、上申書を出すということでした。上申書に書いた内容は、裁判官の面前において話したのと同じ効果があると、真摯な表情で、切実に訴えかけるぐらいの意気込みで説明をしたことがありました。

現在はっきりとは思い出せないのですが、上申書はカーボン紙を使って2部を作成し、一部を木梨松嗣弁護士に郵送していたような気がします。控訴趣意書においては同じくカーボン紙を使って5部必要だったので、2部であってもずいぶん楽に思いました。割り印と訂正印も必要なので手間が掛かりました。

これも記憶が曖昧ですが、平成5年に入ってからの木梨松嗣弁護士の接見というのは、精神鑑定を挟んで前後に1回ずつではなかったかと思います。木梨松嗣弁護士から郵送が届くことはありましたが、事前に何時接見に行くという連絡は、ただの一度もなかったように思います。

木梨松嗣弁護士からの郵便で印象に残っているのは、「貴殿におかれては益々ご清栄のことと」といった書き出しのものでした。こういう形式の文面を見たこともなかったのですが、拘置所の独房に収監されている被告人に対して、どうにも理解に苦しむ違和感を覚えたからです。

木梨松嗣弁護士から郵送があったのは被害者の病状照会の回答書と事前準備書で、一緒に送ってきたもので、時候の挨拶もその時につけられていたものと考えられます。だとすると、木梨松嗣弁護士から郵便物があったのか、この時1回だけということになりそうです。平成4年の10月頃ではと思います。

私が具体的な供述をした、供述の機会を与えられた公判というのは、その事前準備書が用意されたただ一度の公判の時だったと思います。平成4年の10月か11月なのですが、12月の20日頃の公判でも具体的なやりとりがあったような憶えもかすかに残っています。クリスマスも近く考え込む時期でした。

控訴審における供述は公判記録として残されており、ほぼ私の記憶とも一致していたかと思いますが、一つに編綴されていたものをばらばらにしていたためもあってか、別々の公判が一つにまとめられていたような気もするのですが、公判の期日が特定し難かったという憶えが残っています。

平成5年になってからの公判だと思いますが、陪席裁判官の一人が交代になっていました、そのあとだったように思いますが、裁判官から公判で質問を受ける機会があり、陪席裁判官に陰茎について質問を受けたことが、とりわけ印象に残っています。まるで通じていないような無力感と失望感を感じました。

もっと早い段階、10年以内ぐらいに控訴審の公判の状況をしっかり整理し記録にしておけばよかったと悔やまれるのですが、控訴審の判決が小島裕史裁判長の真意によるものとは、どうにも理解が出来なかったです。最近では木梨松嗣弁護士の口車に乗せられ、利用されたのかと思えるのですが。

当時は、真相解明の手段として、孤立無援で極めて不利な状況にある自分が、まずは精神鑑定を受けて精神と記憶に問題がないことを証明しなければならないのかと考え、そんな方向に理解と納得を持ってゆこうと努めましたが、なすすべもなく推移を見守り、成り行きに任せる他はなかったです。

控訴審の全体を通して、最近の私の記憶の整理では、平成4年中に多くて4回の公判、平成5年中は判決を入れて多くて4回の公判ではなかったかと思います。

ほぼ全ての公判で被告訴人OKNの姿が傍聴席にあったという印象と、被害者の父親AKさんの姿を傍聴席で、OKNと一緒に見たことは一度もなかったような印象が残っています。

本格的な被告人質問のあったただ一度の公判においては被告訴人OKNの姿があったという印象がかすかに残っています。富来出身の友人OTの姿が傍聴席にあったのもその時であったかもしれません。OTが傍聴に来ていたのはその時一度だけだったと思います。今し方、数年ぶりに思い出しました。

OTは被告訴人が本陣不動産株式会社に入社するきっかけを作った人物であり、彼の紹介で入社することになったと聞いていました。OTは同じ本陣グループでも本陣住宅の所属で、別会社と聞いていたかと思います。他に本陣建設があったはずで、以前はテレビCMでも本陣グループとして見かけていました。

OTは金沢西警察署の留置場にいた頃も、一度面会に来てくれたことがあり、沢山のお菓子を差し入れてくれたことを憶えています。この時は一人で来ていたはずです。

拘置所にも一度だけ面会に来たことがありましたが、OTは被告訴人OKNとHMの3人でした。HMは結婚で婿養子となり姓が変わりました。少なくとも平成9年には新しい姓になっていて、そちらはNMです。

平成9年の夏には、被告訴人の口添えで、NMが部長になっていた建設会社で仕事をした時期もありました。長くで3ヶ月ぐらい。辞めたのは10月頃だったと思います。

このOT、HMとの付き合いは、昭和59年の夏以来で、すでに本書においてある程度の説明をしているかと思います。OTは私と同じ時期、平ボディだったと思いますが、同じ金沢市内の運送会社で4トン車の長距離運転手をしていたこともありました。

なにがきっかけだったのか細かい話は忘れましたが、本陣住宅で不動産の仕事をするようになり、まもなく被告訴人OKNを紹介して、同じ不動産の仕事をするようになっていました。運転手をしていた頃は、電車の野々市駅だったかの近くのアパートに住んでいました。

野々市と言っても、外れの方で松任市に近かったと思います。そこのアパートにはちょくちょく遊びに行くこともあったかと思います。不動産の仕事をするようになってからは、河北郡内灘町で小さな家を建てて住んでいました。多くないですが何度か遊びに行きました。

冬のイワシの運搬の時期にも、イワシを運搬する平ボディのトラックに乗って彼の家に遊びに行ったことを憶えていますが、その頃には会う機会もずいぶん少なくなっていたと思います。

私が初めにイワシの運搬の仕事をしたのは昭和63年の12月頃だったと思います。まもなく一緒にイワシの仕事をダンプでやっていたOMと一緒に臨時で、茨城県水戸市内のデパートに展示会の荷物を運ぶことがあり、ちょうどその頃に昭和天皇の崩御のニュースがあったので、よく憶えています。

そのイワシの仕事が始まった頃、被告訴人OKNは彼女と一緒に金沢港に近い金沢市無量寺のアパートに住むようになっていました。既に入籍は済ませ、結婚していたことも考えられます。その半年ぐらい前までは、兵庫県の神戸市内に住んでいたはずです。

神戸市内の山手の閑静な住宅地に住んでいると聞いていましたが、結局一度も遊びに行く機会はありませんでした。初めは宝塚市のステーキ店で住み込みで働いているような話をしていて、その後、長距離トラックの運転手をして、神戸に移り住んだ頃は、中古車のブローカーをしているような話でした。

金沢市場輸送で石7599という10トン保冷車に乗務していた頃、宮崎県の都城市から輸出用と思われる大きなタイヤを積み込み、中一日を挟んだ神戸降ろしというような仕事がありました。その荷物を降ろした後だったと思いますが、神戸の市場の近くの倉庫で、彼と落ち合ったことがありました。

その時も彼はプジョーとか言うフランス製の変わった車に乗ってきていました。その後ではなかったかと思いますが、お盆休みに帰省したときも同じフランス製の車に乗ってきていたかと思います。兄の妻と折り合いが悪いという愚痴のような話もその時していたかと思います。

その兄の被告訴人OSNですが、1年ほど東京に行っていた時期があったと思います。何かのセールスの仕事をしていて、出張中の岡山県内で事故を起こし、けっこう大きな怪我をして、金沢市内の病院に入院していました。市内入江の病院だったと思います。

保険がらみで融通が利くという噂の病院でした。その病院には酔っぱらってダンプと相撲を取ったという被告訴人KYNも入院していた時期がありましたので、その病院には何度か見舞いにいきましたが、似たような若者が何人か集まっていて、楽しそうに過ごしていました。

被告訴人OSNは、そのまま東京には戻らず、再び金沢で生活するようになったと思います。妻となる女性が住んでいた増泉のアパートで一緒に生活するようになっていて、そこにも2,3度遊びに行った憶えがあります。

被告訴人OKNが神戸からお盆に帰省していたのは昭和63年の8月だったと思います。私の長男を含め、宇出津新港の堤防でカメラ撮影したのは、長男の成長の具合からも昭和63年であったと思います。宇出津新港は数年前に出来ていたはずですが、それまでまともに足を踏み入れることもなかったかと。

そのことから考えると昭和63年の秋の早い段階で被告訴人OKNは神戸から戻り金沢に住むようになっていたはずです。初めは車のブローカーのような仕事をしているという話を聞いていました。確か福田自動車という名刺も持っていて、市内高畠辺りに会社があるような話を聞いていました。

いろいろと人間関係のつながりの細かい話を聞いたような憶えもあるのですが、余り憶えてもいません。ただ、UHが関わっているような話は聞いていたように思います。UHは一年ほど交通刑務所に行っていたはずですが、その時期もはっきりとは憶えていないです。

イワシの仕事が始まった12月のことは印象的に憶えています。それもイワシの運搬の初日だったと思います。イワシの仕事はもう少し早い時期から始まっていましたが、シーズンの初めと終わりの方は漁獲も少ないので、ダンプと八戸の白ナンバーのグループが中心でした。

まだ市場急配センターとして独立する前の金沢市場輸送の市内配達で顔見知りの二人が、被告訴人OKNとの車の売買をめぐるトラブルを、いきなり私のところに持ちかけてきたのです。それも待機中のイワシの現場でした。

一人はよく知る顔ですぐにわかったのですが、もう一人はいかにもチンピラのようなやくざ風の男でパンチパーマの髪型でした。その髪型でしばらくわからなかったのですが、その男も顔見知りの市内配達の運転手でした。どちらも上の名前は憶えていますが、S田とS藤としておきます。

S田はM田という確か同級生の友達がいて、二人とも早い段階で金沢市場輸送の市内配達の仕事をしておりました。入社も同時ではなかったかと思いますが、とにかくいつも決まって二人でいるという間柄でした。少女だとよく見かける二人連れのタイプでしたが、男となると珍しくもあり印象的でした。

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