2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月16日


KOは北安江のアパートに住んでいたようです、何かの機会にアパートの前まで行った憶えがあるのですが、中になることはなかったです。木造の古いアパートで家賃も安そうでした。余り行くことのない辺りでしたが、平成9年頃にはそのあたりも随分と変わっていたと思います。

平成9年になると、北安江は中央市場の方から来る新しく広い道も出来ていました。その頃になると近くにアルプラザ平和堂という大きなデパートが出来たこともあり、金沢市内でもけっこうな一等地という感じになっていました。元々、駅西という金沢駅の近くだったのですがアパートの相場も安かったかと。

金沢市の駅西というのは元々、駅の裏手で辺鄙な感じだったのですが、大きな西口が出来てそのあたりの駅構内の店も増えていました。そのうち香林坊の近くにあった石川県庁が、駅西から8号線パイパスをこえた辺りに移転になりました。地名は鞍月だったかと思いますが、以前は田んぼだったと思います。

県庁が移転する前の感覚で言うと、駅西の真ん前あたりは別に、北安江を含め少しでも離れると、貧乏人や低所得者が多く住むというイメージあったかと思います。アパートの家賃の相場も安かったと思います。買い物など生活上の不便もあったかと思いますが、店も増えては行きました。

中央市場のあるあたりは西念ですが、昔から土の質が悪く畑にも適さないやせた土地であったと聞いたこともあります。周囲を含め、少し離れると空き地や田んぼ、あるいは畑の多い地域でしたが、平成9年の時点でもずいぶんと変わったものだと思っていました。

私自身、平成9年の7月の初めから北安江の借家で住むようになったのですが、それも思いも寄らぬことではありました。住むことが決まったのは入居する一月ほど前だったと思います。とんとん拍子でことが運んだのも被告訴人OKNのおかげではありました。

石川県金沢市北安江4丁目15−30 (株)北栄 - Google マップ http://bit.ly/1mlfz2N ← 思い出して調べてみたのですが住所はほぼ違っていないと思います。一時期、市内配達でよく行っていた配達先でした。

KOのアパートもこの北栄の近くであったと思います。北栄にはよく行っていましたが、長距離の仕事ではなかったと思うので、北都運輸の市内配達をしていた平成1年の春から秋だと思います。マヨネーズやドレッシング、ジャムを主に運んでいました。業務用が多かったとも思います。

KOが10トンウィング車に乗務したようなことは、割とはっきり記憶にあるのですが、その後、仕事でも余り顔を合わせなかったような気がします。今改めて考えてみると、平成3年の秋以降に、会うこともなかったような気もします。保冷車というか魚を運ぶ仕事に戻ったとは耳にしたように思っています。

既に書いたと思いますが、茨城県古河市の山三青果の仕事が始まったのは平成2年の12月の初め頃で、本格化したのは平成3年の1月に入ってからだと思います。私が乗務した日野のウィング車はイラク攻撃が始まった1月17日の朝に、納車になりました。

栃木へのトナミ運輸の定期便と、千葉と埼玉県岩槻市の2カ所おろしの日通の定期便があって、その2便が、復路の山三青果の仕事とセットになっていました。基本的に毎日大型車2台の積み荷というなっていたと思いますが、大型車一台分の荷物というのも少なくなかったと記憶しています。

山三青果の仕事では行き先というか荷物のおろし先が4カ所と決まっていました。富山、高岡、金沢、福井です。2台入っているときは、基本的に2カ所に分けて積み込んでいたと思います。一カ所だけ極端に荷物が多い場合は3カ所と1カ所になっていたと思います。

これが1台となると、4カ所おろしになりました。仕事内容はかなりきつくなりますが、1カ所おろしでも運賃も給料の歩合も違いはなかったと思います。今考えると、私は4カ所おろしが多かったという気がするのですが、嫌がる運転手が多かったので、これも集中的に割り当てられたのかと思います。

高岡の市場は高速道路である北陸道のインターからも離れていたので、それも手間でした。鮮魚では滅多に行くことはなかったですが、青果物では行くことの多い市場でした。富山の市場は高速のインターに近く、鮮魚の時も必ずに近く立ち寄っていました。

4カ所の場合でも福井の分は、金沢で4トン車に中継に出すことになっていました。ほとんどの場合、中継に来ていたのは被告訴人UHKか被告訴人TTKでした。被告訴人HTNは一度だけ来たようにも思います。福井まで同行したような記憶も残っています。

希に4トン車には乗りきらないほどの福井分があるときがあり、3回ぐらいでしょうか。被告訴人TTKを10トンウィング車に同乗させて、福井までおろしに行くこともありました。以前はこまかい日付まで、ほぼ特定できていたかと思います。

(株)古河中央青果地方卸売市場 - Google マップ http://bit.ly/1b9GkSS ← それらしい名称になっていますが、山三青果が入っていた市場とは違っています。建物も比較的新しく見えます。ストリートビューで見ることが出来ました。

私の記憶にある古河の青果市場はバイパスではない国道4号線沿いで仙台方面に向かい、古河の中心部を抜けてすぐ、新幹線のような高架が交差する陸橋の手前を右に入った左手にある敷地でした。敷地の中には食堂も一軒ありました。山三青果を含め10にも近いような業者の数だったと思います。

茨城県猿島郡境町塚崎2817 山三青果店 - Google マップ http://bit.ly/1bVm8iI ← 古河の市場の中の山三青果は出張所という感じで古くて狭い事務所でした。会社の住所はこのように猿島郡になっていました。

平成3年の9月にはいると、山三青果の仕事は金沢市場輸送から離れ、市場急配センターの仕事になりました。それにともない金沢市場輸送から被告訴人東渡好信と、輪島のHさん、諸江に自宅のあるKさんが、市場急配センターに移動してきました。

金沢市場輸送で乗務していたウィング車と一緒に移ってきたように思います。東渡とHさんは、その年の3月か4月に納入されたウィング車に乗務していました。どちらも日野だったと思いますが、あるいは東渡の方は三菱ふそうだったかもしれません。2台ともそれまでとは違うカラーとデザインでした。

諸江のKさんですが、初めにどのトラックに乗務していたのか思い出せません。しばらくして東渡が配車係をするようになってからは、それまで東渡が乗務していたウィング車に乗るようになっていたような気もします。長距離の出先の仕事で一緒になることもほとんどなかったように思います。

東渡ら3人が市場急配センターに来るような話は、実際に来る一月ほど前から話が出ていたと思いますが、被告訴人IHKも被告訴人UHKも当初は、不安そうなそぶりを見せたり、面白くなさそうな態度を見せていました。

被告訴人東渡好信が白昼に包丁を振りかざし、被告訴人MHK社長を追いかけ回したという話は既に書いていると思いますが、その原因と言うことになっていたのは、東渡が金沢市場輸送で乗務していた新車のウィング車を取り上げ市場急配センターに持って行くと話を決められたことに腹を立てたことでした。

被告訴人TSK会長と被告訴人MHK社長が相談も断りもなく勝手に決めたことに逆上したということになっていましたが、それが本当の事実とは思えませんでした。移動先の市場急配センターの方で反発を予想して、威嚇を込めた演出とも考えましたが、3者で通じているだろうとは思っていました。

実際に私が金沢市場輸送を辞めようと思った動機の一つは東渡好信の勝手な振る舞いがありましたが、市場急配センターに移ってからは割り切って考えるようにもなっていました。ただ、彼らが来るなら私が辞めると言い出すことを、彼らが予想したことは十分に考えられるとは思います。

そういえば思い出しましたが、平成4年の1月か、2月に入ってから日差ディーゼルの新車のウィング車が2台入ったように思います。一台は、被告訴人HTNが乗務したように思います。もう一台が諸江のKさんだったような気もしますが、2台だったかも記憶がはっきりしなくなっています。

ついでに思い出しましたが、3月になると保冷車か、それに冷凍機までつけた10トンウィング車が新車で入って、それに輪島のHさんが乗務したようなことを思い出しました。当時は鮮魚も運べる10トンの保冷のウィング車というのは珍しかったし、値段も高いと聞いていました。

金沢市場輸送のトラックはほとんどが極力安上がりに作られていました。冷凍機でも本来は6トン車に取り付けるものを10トン車に取り付け、体裁を取り繕っているとも聞きましたし、急ぎの鮮魚や冷凍魚など重量物を運ぶ運送会社としては、かなり珍しくターボ車を使っていました。

保冷車のエンジンはV型エンジンで8気筒のV8か10気筒のV10がほとんどでした。ターボ車は馬力はありましたが、坂道での力強さに欠け、下り坂でのエンジンブレーキのききもよくはなかったです。V型エンジンに比べると燃費が極端に良かったことも、会社にしては好都合だったようです。

イワシを運ぶトラックやダンプはすべてV型エンジンにはなっていたと思います。他にも細かいことまで色々ありましたが、極力安上がりのトラックするというのが金沢市場輸送の伝統的方針でしたが、市場急配センターのMHK社長の方は割と気前の良いところもありました。

初めに金沢市場輸送から市場急配センターに来たウィング車は、三菱ふそうのウィング車で車番が2313号だったと思います。2313号については、数日前にも説明を書いていると思います。9月に入る前の8月の終わり頃でした。

その2313号の初めの運行で、私は被告訴人YSNと二人で神奈川県に荷物を運びました。運行自体は9月にまたがっていたようにも思います。何を積んでいったのか憶えていませんが、貸し切りの雑貨のような荷物だったと思います。

神奈川県でも厚木市ではなかたかと思います。配送センターのような倉庫の前の広い駐車場にトラックを止めていたのですが、夜中に騒がしい音や声で目が覚め、外を見ると敷地内にあったファミリーレストランの店員が、酒盛りをして騒いでいました。

帰りの荷物は、荷下ろしをした午後に、東京の晴海で外果の果物を積みました。外国から輸入されてきた果物を外果と呼んでいましたが、バナナやオレンジ、キウィ、パイナップルなどがありました。

平成9年の9月から10月頃は、このように東京から外果を積む仕事が何度かあり、晴海の他、豊海にも積むところがあったような気もしますし、有明には2,3回行っていると思います。

金沢市場輸送で東京の港から外果を積むような仕事はなかったような気もします。大阪や神戸の方では時期的にけっこうあったと記憶しています。市場急配センターでも一度、泉北とかいう辺りの泉佐野市だったかにキウィを積みに行ったことがありました。

この泉佐野市の倉庫から会社に電話を掛けたときも、電話のなかで印象に残ることが被害者AAさんとの間にありましたが、これも現在は具体的なことが思い出せなくなっています。

このあと会社の指示で、被告訴人YSNと同乗して長距離の仕事に出たという記憶は、現在明確には浮かばないのですが、9月に入ってから市内配達の仕事をすることはなかったと思います。

考えてみると日野の新車のウィング車である3068号が納車されたのは平成3年10月12日だったので、それまでの間、どのトラックに乗務していたのか、どんな仕事をしていたのかも、現在はすっきり思い出せず、記憶の衰えを改めて感じました。

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