2014年3月13日木曜日
平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年03月01日
竹林に関してですが、平成1年の12月頃から始まったイワシのシーズンが終わるとまもなく金沢市場輸送をやめたように思います。一月や二月は、長距離の仕事に戻って保冷車に乗務していたかもしれませんが、人知れずいつの間にかいなくなっていたという感じではなかったかと思います。
輪島のMYがやめたのもそれに近い時期だったような気がします。福岡行きの仕事だったと思いますが、決まっていた仕事に出てこないで、夕方に被告訴人MTKから代わりに走ってくれと頼まれたことがありましたが、断ったことも憶えています。
ぼんやりした記憶ですが年末で12月の終わりの方ではなかったかとも記憶しています。プライベートな問題を被告訴人TSK会長が会社で吹聴したことで、出てこなくなった可能性がありそうでしたが、それっきり戻ることはなかったと思います。
輪島のMYの弟は守田水産輸送で大型車に乗務していた時期がありました。長い間はいなかったような気もするし、重なったのかどうかもわからないのですが、MYもしばらくは守田水産輸送に入社していた時期があったように思います。O西さんが関わっていた可能性もあったように思います。
その後、輪島のMYはピアノ輸送という運送会社で運転手をしていると聞くようになりました。たまに見かけるトラックでしたが、深い緑色でずいぶんと地味なデザインのトラックという印象も強かったです。
ピアノ運送(株) 北陸営業所 - Google マップ http://bit.ly/1bTwdC1 Googleマップで調べたのですが、ピアノ輸送という会社自体は現在も金沢にあるようです。しかし、場所が全然違っていて現在は金沢港に近い無量寺にあるようです。
石川県金沢市神野町西634 - Google マップ http://bit.ly/1bTxmtw ← 私の記憶にあるピアノ輸送があった場所はこの辺りではなかったかと思います。
余り記憶がはっきりしませんが、西インターのトラックターミナルの裏の方のあたりであったように思います。めったに通るような道ではなかったですが、割と通る機会があり、その時はピアノ輸送の会社が目立っていました。
どこに向かうときにその道を通っていたのか思い出せないですが、西インターの方から松任駅の方角に向かって走っていると左側に会社があって、その前か後ろの方に大きなカーブがあったようなことも憶えています。
何時頃か思い出せないですが、誰かと一緒にそのカーブの道沿いにある居酒屋か焼き肉屋のような店に入って食事をしたことも憶えています。本来いく用事もなかった場所なので、その辺りで食事をしたこと自体珍しい体験として記憶しています。
一緒にいたのは竹林の可能性がもっとも高いと思いますが、違うとすれば輪島のMTか、あるいは配車係をしていたYTだったと思います。相手に誘われて入った店であることは間違いないですし、けっこうなじみになっている店という感じもあったような気がします。
輪島のMTは知り合った頃、金沢市神田の割と豪勢なマンションに彼女と住んでいました。その時も1回か2回遊びに行ったことがありました。
その後、中央市場の正面から見て、敷地の裏側の左側の角の辺りにある新築のような新しいアパートに住んでいました。市場急配センターの会社のすぐ近くでした。市場急配センターの前の道路ではなく、前からあった道路は裏の角から金石街道に出る通りがありました。
その道で金石街道に出る少し手前の左側に東京ストアーの倉庫があったこともありました。
ピアノ輸送のトラックに乗務するようになったとは聞いていたのですが、噂話のような感じだったと思います。その後、MTの話は余り耳にしなくなっていたようにも思います。
輪島のMTは、私以上に金沢市場輸送の発展に影響を与えた人物であったとも言えそうです。最後は被告訴人TSK会長に、得意満面でプライベートな問題を吹聴というか暴露され、それっきり姿を見せなくなったのですが、プライベートな問題なので。
ただ、真偽の程もわからず、被告訴人TSKの言動自体も、一般的な常識としては考えにくい、特異な社風、体質とも思えるので、本人に対する誤解を招かないためにも書いておいた方がよいとも思えます。
それは、裁判所から給料の差し押さえが来た、という話でした。被告訴人TSKは大喜びで、それを吹聴しまくっていたようです。私は夕方のすっかり暗くなった時間にその話をTSKから聞かされたと記憶しています。
よく考えてみるとそれはまだ、被告訴人TSKが会長ではなく社長の時代であったようにも思えます。あるいは市場急配センターが独立した直後の頃と思います。
被告訴人TSKが会長になって、金沢市場輸送の社長に被告訴人MTKが市場急配センターの社長に被告訴人MHKがなったという話を聞いたのは、晩秋から初冬に近い時期だったような記憶もかすかに残っています。
本日新たに重い出したことは、十分な記憶の自信は持てないのですが、平成3年の夏頃に、輪島のMYと市場急配センターの近くで顔を合わし、外でしばらく話をしていたことです。また、それと別の日だったのかもしれないのですが、2階の事務所でもしばらく話をしたような気もします。
MYとしては大型車の運転手として使ってもらいたくて顔を出したような感じもありましたが、被告訴人MHK社長の方で見切りをつけ、採用する気はさらさらないような態度をかいま見せてきたような気がします。余り重要視していなかったことなので、記憶の方もしっかり喚起できない状態です。
輪島のMYは私と一緒で、一時期パチスロに凝っていたことがありましたが、けっこう勝ったような話をしていたと思います。けっこう常勝でうまくやっているという感じでした。その後、競馬の方に凝るようになったという話があったかどうかは、はっきり思い出せません。
輪島のMYの紹介で初めに金沢市場輸送に入社したYAが、ずいぶんと競馬に凝り出したという話ははっきりと憶えています。ただ、それがMYがいなくなった後の可能性もあるので、なんともMYの競馬についてははっきりしないです。
YAは私の2つ年下でした。MYと同じ海士町だと聞いていましたが、YAと一緒に入社したOTが輪島崎であることを除いては、金沢市場輸送で大型車に乗務した輪島の若者は全員が海士町だと聞いていました。同時にOT以外は全員が小木港の遠洋漁船での漁師経験があるとも聞いたように思います。
YAとOTが金沢市場輸送に入社したのは昭和62年の6月ぐらいではなかったかと思います。ちょうど金沢港でスルメイカの仕事が多くなっていた時期であったとも記憶しています。なんとなくですが筍の時期にはまだいなかったような気もします。
YAとOTは金沢市新保のアパートに一緒に住んでいて、仕事もなく腹を空かせていたので、誘って紹介したようなことをMYは話していたと記憶しています。
金沢市には南新保と新保という地名というか町名があるのですが、場所は全然違っていて離れています。南新保の方は中央市場のある西念とは隣接していて市場にも近いです。新保の方は西インターの少し先で、西金沢にも近いあたりでした。
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