2014年3月12日水曜日

平成4年の控訴審公判において初めて会った被害者の父親と兄 2014年02月17日


3068号が新車で来たときのことを書いたので、ついでに当日の様子も書いておきたいと思います。昨夜まですっかり忘れていましたが、前後のことを計算に入れても10月12日で間違いないと思います。カレンダーでも確認しましたが土曜日です。

なおカレンダーはパソコンのLinuxでcalというコマンドを利用しています。「cal 1991」とコマンドを押すと、平成3年のカレンダーが表示されます。間違っているようなことはまずないと思っています。

新車は午後に日野の方から市場急配センターの会社に持ってきたと記憶しています。しばらく待たされたようなことも憶えています。被告訴人IHKと被害者AAさんが事務所にいて、IHKがトラックが来たら私たちを乗せて欲しいと言いましたが、私は返事をしませんでした。

IHKの発言にすぐに反応するようなかたちでAAさんは、「わたし、運転してみたいぞいね。」とも言っていました。この時も彼女はおだやかでしたが、ちょっと反省しているような感じでした。

私が初めてAAさんに付き合って欲しいと言ったのは、ちょうどその一週間前の平成3年10月5日のことで、これも土曜日でした。当時はまだ大きな会社や銀行などをのぞくと土日休みの週休二日というのは、さほど社会に浸透していなかったと思います。

9月の中頃に、フィルム貼りを手伝ってもらったことがあり、その後も会社で彼女の方から話しかけてくれることが何度かあったのですが、私は8月に離婚していたことも隠していたので、対応に戸惑い、満足に返事をすることもなかったのです。

8月に入った頃の段階で彼女のことは意識するような存在になっていました。まさかという思いも強かったのですが、彼女が仕事を中断してフィルム貼りの手伝いに来てくれたときは、本当に驚きました。

その場の目撃者は、被告訴人TTKと津幡のYTという運転手、そして被告訴人MHK社長の友人で頻繁に会社に出入りしていたカベヤとも呼ばれた人物。カベヤの直後には被告訴人TSK会長も歩いて通りかかり、ずいぶんと驚いた反応を見せていました。

一番わかりやすかったのは「カベヤ」ですが、「お前ら、夫婦やったんか?」と反射的な感じで声を掛けてきました。この質問自体があり得ないという気もしたのですが、演技をしていたようにも思えませんでした。

それと前回、マルモ設備について書いたときに思い出したのですが、マルモ設備のパンチパーマの整備士も、もの凄く驚いた顔をしていました。。私としても忘れかけていた人だったので、久しぶりに姿を見ただけでも驚いていました。

前回、どういう流れでマルモ設備のことを書いたのか、ちょっと思い出せないのですが、金沢市場輸送にいた頃、よく行っていた整備工場です。ちょっと説明しにくい場所なのでGoogleマップで調べてみます。金沢市なのか野々市町なのかも、微妙なあたりかと思います。

調べているところなのですが、私が金沢市内だと思っていた御経塚が、現在は野々市市になっているようです。御経塚までもが野々市市であれば、マルモ設備があった場所も野々市市内に間違いはなさそうですが、そもそも野々市市は最近出来たもので、以前は石川郡野々市町でした。

スーパーオートバックス・金沢野々市店 - Google マップ http://bit.ly/1frUnPJ ← だいたいの場所になりますが、このカー用品点は隣にゲームセンターがあって、そのどちらかの裏手のちょっとはいったところにマルモ設備がありました。

つい最近新しくなったGoogleマップでは関連した店舗の写真を見ることが出来ましたが、野々市店だとすると平成の初め頃とは店舗がまるっきり違っていますし、駐車場自体がずいぶんと広くなっています。8号線バイパスに面しているはずですが、当時は店舗自体もほぼバイパスに面していました。

マルモ設備にはちょっとしたトラックの修理にも行っていたと思いますが、ほとんどはオイル交換が目的はなかったかと思います。会社の指定でオイル交換に行っていました。大きな不調とかになると、日野やイスズのトラックのメーカーの工場に行っていました。

私は2度目に金沢市場輸送に入社した昭和61年の8月以降は、移転した市場急配センターを含め、保険を使うような事故は一度も起こしていないので、事故の修理についても記憶には残っていないのですが、ちょっとした修理はマルモに行っていたと思います。

トラックのオイル交換は1万キロ毎、ということになっていたと思います。一月に1万5千キロぐらい走ることが多かったと思いますので、2ヶ月に3回という頻度で、マルモ設備にオイル交換に行っていたということになりそうです。

初めの頃は、直接トラックに乗ってマルモ設備に行っていたという記憶が多いのですが、そのうち会社に取りに来てもらうようになっていたような気もします。よくわかりませんが、平成2年頃になるとマルモ設備にはほとんど行っていなかったような気もします。

マルモ設備には何かのついでに行くことも多く、妻子を同乗させていることも多かったように思います。それでマルモ設備の整備士も、私の妻子のことはよく知っているはずで、それだけに驚きも多かったのだと思いますが、こちらが驚くぐらい衝撃を受けたような様子でした。

当時のことを思い出しているうちに、ぼんやりとですが、その後オイル交換は、会社で運転手が自分でするようになったような気もします。2回に一回だったかのオイルフィルターや、その取り外しの道具のこともなんとなく思い出しました。会社にオイルのドラム缶があったような気もしてきました。

20年以上前となると、細かいことで思い出すのも困難なことがありますが、地図や住所などを見ていると、わかっているはずの自分でも調べるのが困難で、時間が掛かりすぎると感じることもあります。

当時のマルモ設備は、いかにも自動車工場らしいという建物でしたが、同じような建物が敷地内に隣接していて、隣の方も別の自動車工場であったような記憶もあります。社長が一人と、整備士が2人の小さい工場で、整備士は2人とも、当時20代後半と聞いていたような気もします。

社長が柳田村の出身であるということは、既に何かの折りに書いたように思いますが、けっこう年配で50歳代にも見えました。昭和59年の段階では、マルモ設備というのはまるで縁のない工場で、全然知らなかったと思います。

似たような関係の会社で「金沢デンソー」という小さな会社がありました。従業員もいないような会社にみえました。主に電気系というの問題で、修理などに行っていました。昭和59年当時も何度か行っていたのですが、平成になった頃には縁も切れたのか、全く行かなくなっていたように思います。

しかし、個人の客として行ったのだと思いますが、平成4年になってから乗っていたアルトワークスの軽四のカセットの修理で店に行っていたように思います。当時はCDはカーオーディオとして普及していなかったので、カセットで音楽を聴いていました。

修理でカセットを直してもらったのは、平成4年4月1日の事件当日だったようなことも思い出してきました。

金沢デンソーのことで一番憶えているのは、昭和62年の4月頃、新車で乗務してまもなかった10トン保冷車の7599号で、カセットが鳴らなくなり、持って行ったところ、カセットの中から大量の小銭が出てきたことでした。これには主人も驚いていましたが、同乗していた長男が詰め込んだものです。

同じく事件当日は、西念町の歯医者にも行きました。50メートル道路に面した大きな交差点の角のようなところにある大きなマンションの上の方の階にある歯医者でした。中央市場に近いと言うことで、数年前から通っていました。

仕事をしていた妻の関係で、長男を連れて何度かその歯医者に行ったこともあったのですが、一度、黙ったまま診察室にはいると、長男が泣きながら後を追ってきて、数人の看護婦さんたちに取り押さえながら、手をさし伸ばしていた光景が印象的でした。

事件当日は新しく引っ越しをするワンルームマンションの入居の契約がスタートした月初めでもありました。鍵が使え自由に出入りできるようになった初めての日ということで、引っ越しは次の土曜日に予定していて、被告訴人OKNと被告訴人KYNも手伝ってくれることになっていました。

それまで住んでいた東力2丁目のアパートは、昭和59年の4月頃からずっと住んでいました。初めに被告訴人OKNと一緒に借りて住み、家賃を折半していたことも、昨年中には本書においてもすでに書いているかもしれません。契約上の名義は初めから私になっていたはずです。

結婚をし子供が生まれてからも、ずっとその東力のアパートで生活をしていました。6畳2間で風呂付きでしたが、家賃も比較的安かったです。初めは2万8千5百円でしたが、大家さんの好意らしく古くなったということで、途中から2万6千5百円になっていました。

平成3年10月12日のことに説明を戻します。時雨模様で雨が降っていたような気もするのですが、天気の良くない午後でした。新車のトラックが来ると、すぐに石川護国神社にお払いをうけに行きました。金沢市の中心部で兼六園の裏の方、Googleで確認すると住所も金沢市石引になっていました。

そのあと会社に戻ってから何をしていたのかよく憶えていないのですが、他の運転手の荷物の積み込みの手伝いに行っていたような気もします。私としては自分の荷物は一人で積め、という考えだったのですが、市場急配センターでは大勢でやることが少なくなかったです。

その日はなぜか遅い時間まで会社に被害者AAさんがいました。普段彼女は17時過ぎから遅くても17時半には帰っていたので、かなりの例外の一つです。10月の12日ということを考えると、日の暮れる時間というのも、まだそう早くはなかったのではと思います。

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